煩悩(ぼんのう)とは

煩悩」は、世間でもよく使われる仏教の言葉です。
例えば「子煩悩(こぼんのう)」といえば、あまりに子供をかわいがりすぎる、人並み外れた親馬鹿ぶりをいいます。
他にも「煩悩まみれ」といえば、お金を儲けて彼や彼女と好きなことばかりやっていたり、「煩悩丸出し」といえば、あからさまに欲望をむき出しにしている人のことです。
また、欲望に心をかき乱されるときに煩悩をなくしたいと思います。
このように、世間では、煩悩というと欲望の意味で使われますが、仏教ではそれだけではなく、非常に重要な意味があります。一体どんな意味なのでしょうか?

煩悩とは

煩悩」とは、私たちを煩わせ、悩ませる心のことです。
七高僧の一番目の龍樹菩薩は、『大智度論(だいちどろん)』にこう教えられています。

煩悩とは、よく心をして煩わしめよく悩みをなす。
故に名づけて煩悩となす。
(大智度論)

煩悩というのは、私たちを煩わせ、悩ませる心なのです。
親鸞聖人もこう言われています。

」は身をわずらわす、
」は心をなやますという。
(唯信鈔文意)

煩わせ、悩ませるというのは、苦しめるということですから、自らを苦しめる心です。
煩悩によって私たちは悪いことを考えたり、悪いことを言ったり、悪い行いをしてしまい、その結果、因果応報の報いを受けて苦しむのです。

ですから、世間で言われるような欲望も、もちろん煩悩の一つですが、それだけではありません。
欲望以外にも私たちを苦しめる心は色々あります。
では、煩悩の数はいくつ位あるのでしょうか?

煩悩の数

煩悩は、欲望以外にもたくさんあります。
八万四千(はちまんしせん)の煩悩といわれることもあります。
八万四千」というのは、8万3千よりも千多いのではありません。
ものすごく数が多いということです。
煩悩は数え切れないほどたくさんあるのです。

ところが数え切れないほどたくさんあると言っていても分からないので、七高僧の2番目の天親菩薩は、『倶舎論(くしゃろん)』に、108の煩悩を教えられています。
これを「百八の煩悩」といいます。

倶舎論』は、昔のお坊さんは全員学ぶことになっていた仏教の基礎ですので、煩悩はいくつあるかと聞かれれば、たいていどの宗派のお坊さんでも108あるといわれます。
全国のお寺で大晦日に除夜の鐘を108回つくのも、この煩悩の数から来ているといわれます。
私たち一人一人に108の煩悩があるのです。
今年も一年間煩悩に苦しめられたから、除夜の鐘を1つつくたびに、煩悩を1つずつなくしていきたいと願ってのことですが、そんなことで煩悩をなくすことはできません。
年が明けてもやはり108の煩悩に苦しめられることになります。
では、煩悩とはどんな心なのでしょうか?

煩悩の種類

108の煩悩の中でも私たちを最も苦しめる3つの煩悩を「三毒(さんどく)」といいます。
三毒というのは、その他にも煩悩は105あるのですが、中でも恐ろしい毒を含んでいるということです。
三毒の煩悩は、108の中でも特に恐ろしい3つの煩悩ということです。

では「三毒」とは何かといいますと、欲望、怒り、ねたみうらみの3つです。
欲望のことを仏教では「貪欲(とんよく)」といいます。
怒りのことを仏教では「瞋恚(しんい)」といいます。
ねたみやうらみのことを仏教では「愚痴(ぐち)」といいます。
この貪欲瞋恚愚痴の3つを三毒の煩悩といいます。

貪欲」とは、欲の心です。なければないで欲しい、あればあったでもっと欲しい。
食べたい飲みたい楽がしたい、お金が欲しい、物が欲しい、認められたい、悪口言われたくない、男が欲しい、女が欲しい、際限なく求め続ける心です。

次に「瞋恚」とは、欲の心が妨げられるとカッと腹を立てる心です。
あいつのせいで損をした、こいつのせいで恥をかかせられた、あいつめ、こいつめと心の中で切り刻む心です。

3番目の「愚痴」とは、「」も愚かなら、「」も知恵が病だれに入っていますので馬鹿ということです。
これは因果応報の因果の道理が分からない愚かで馬鹿な心をいいます。
自分より優れている人をみると面白くありません。
自分のたねまき不足が原因なのですが、相手を引きずり下ろしてやりたいと思います。
まさるをねたむ心です。

このような欲や怒りや愚痴の心で私たちは頭が一杯ですので、毎日、朝から晩まで煩悩に動かされ、引きずり回されて生きているのです。
では私たちには、煩悩以外の心は何かあるのでしょうか?

煩悩の他に何かある?

108の煩悩を持っているというと、煩悩の他にまだ何かあるように聞こえますが、そうではありません。
108の煩悩以外に私というものはないのです。
これを親鸞聖人は、『歎異抄(たんいしょう)』に、「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」といわれています。

凡夫(ぼんぶ)」とは、人間のことです。
私たちは人間は、煩悩具足だということです。

具足(ぐそく)」とは、それによってできているということです。
雪だるまなら、雪でできていますので、雪のほかに雪だるまはありません。
雪だるまから雪をとったら雪だるまはなくなってしまいます。
ちょうどそのように私たちは煩悩によってできていますから、煩悩をとったら私というものはなくなってしまいます。
これが煩悩具足の凡夫ということです。
親鸞聖人は、人間というものは、煩悩以外に何もないのだと教えられています。

頭の中は、利益欲や名誉欲で一杯です。
どうすれば儲かるか、損しなくて済むかしか考えていません。
どうすればみんなからよく見てもらえるか、悪口言われなくて済むか
利益や名誉を求めて生きています。

もし誰かがそれを邪魔して、儲かるはずのお金が儲からなかったり、馬鹿にされたりすると、カッと怒りの心が燃え上がって、邪魔したやつを殺してやりたいと思います。
大勢の前で恥をかかされると、深い怒りを持って記憶から消えません。
今はどうにもならなくても、怨みの心がいつまでも続いて復讐の機会を狙っています。

こうして私たちは、死ぬまで煩悩の奴隷になって煩悩のために一生を費やすのです。

しかしながら『歎異抄』は親鸞聖人のお言葉を、親鸞聖人のお弟子が書き残したものです。
ひょっとしたら何かの聞き間違いもあるかもしれません。
親鸞聖人は人間についてどのように教えられているのでしょうか?

親鸞聖人の教えられた人間の煩悩の姿

煩悩具足」の人間の姿を、親鸞聖人は、このように教えられています。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。
(一念多念証文)

一念多念証文』というのは、親鸞聖人の書かれたものです。
この凡夫というのは、すべての人間のことですから、親鸞聖人は、すべての人間の姿を教えられています。
親鸞聖人も入りますし、私たちも入りますから、「親鸞は」と言われているのと同じです。
次にここで「無明」といわれているのは煩悩のことです。
煩悩のことを無明ともいいますので、同じことです。

われらが身にみちみちて」というのは煩悩でできているということです。
煩悩のほかにわれらはないということです。
われら」というのは、親鸞聖人も含めて、すべての人が入ります。
私たちは「欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間(ひま)なくして」ですから、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみねたむ心多く、朝から晩までひまがない。一日中、欲望を起こし、腹を立て、ねたんだり怨んだりしていると親鸞聖人はおっしゃっています。
それは「臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」といわれています。「臨終」というのは死ぬまでです。
最後の一息切れるまで、煩悩は止まらない。消えることもない。断ち切ることもできない、ということです。
親鸞聖人は、理論上、消えないと言われているのではありません。

煩悩はコントロールできる?

親鸞聖人は9歳で比叡山に入られて、天台宗僧侶になられました。
それから29歳までの20年間、お釈迦さまの『法華経』の教えに従われ、命がけの修行をなされました。
仏のさとりを開くには、煩悩をなくさなければなりませんから、修行というのは一言でいうと、煩悩を止めて、断ち切り、なくそうとする修行です。
そのために大曼の難行という厳しい修行までなされました。

ところが、20年間、命をかけて煩悩をなくそうとしたけれども、煩悩は消えなかった
断ち切ろうとしても断ち切れなかった
止めようとしても、止まらなかった、と言われています。

私たちは、何とかすれば煩悩をコントロールできるのではないかと思いますが、それはあまりコントロールせずに頭で考えているだけだからです。
何でも始める前は自分はできるのではないかと簡単に思っているのですが、やってみると予想以上に難しいことが分かります。
そして熟練すればするほど、自分の未熟さと道の遠さが知らされてくるのです。

親鸞聖人のような意志の強い方が、煩悩をコントロールしようと20年間命がけで取り組まれて、体験で知らされたことは、煩悩は一時的にも止まらなかった。
朝から晩まで煩悩はひまなくして、絶えることはなかった。
ましてや断ち切ることはできなかった、ということです。
煩悩と20年間煩悩と格闘されて、完敗でした。

魚は水の中に生まれ育っているのに、自ら離れて生きよといわれてもできないようなものです。
煩悩でできている、煩悩に目鼻をつけたような者に、煩悩をなくせとか、減らせとか、止めよといわれても無理なのです。

煩悩は、私たちを苦しめる心ですから、死ぬまで煩悩がなくならないとすれば、死ぬまで苦しみ続けなければならないことになります。
それでは一体どうすればいいのでしょうか?

煩悩は苦悩の根元ではない

親鸞聖人は、煩悩をコントロールする『法華経』の教えでは、とても救われないと絶望され、29歳のときに、泣く泣く比叡山を下りられました。
そして京都の町で七高僧の7番目の法然上人に巡り会われ、法然上人から真実の仏教である阿弥陀如来の本願を聞かれるようになったのです。
お釈迦さまが煩悩をコントロールする修行を教えられているのは、苦悩の根元を知らせ、それが断ち切られるところまで導かれるためなのです。
親鸞聖人は29歳で阿弥陀如来の本願によって、苦悩の根元が断ち切られ、絶対の幸福になられました。
その体験をこう教えられています。

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、
至徳の風静に、衆禍の波転ず。
(教行信証行巻)

大悲の願船」とは、「大悲」とは大慈悲のことです。
阿弥陀如来の大慈悲の本願によってつくられた名号を、船にたとえて「大悲の願船」と言われています。
苦悩の根元が断ち切られた瞬間に大悲の願船に乗せられますから、大悲の願船に乗ったらどうなったかといいますと、「光明の広海に浮かんだ」といわれています。
苦しみ悩みの人生の海が、光明輝く広い海に変わったということです。
光明というのは、暗い人生が明るい人生になったということです。
広海というのは広い海ということで、さわりだらけの狭くて苦しい人生の海が、一切のさわりがさわりとならない世界に出たということです。
これを『歎異抄』には「無碍の一道(むげのいちどう)」といわれています。
」とはさわりということで、一切の煩悩がさわりとならないただ一つの世界です。

無碍の一道へ出ると、無上の幸せを頂きますから、「至徳の風静かに」といわれています。
これは順境の時です。
比較的ものごとがうまくいくときは、限りない幸せがそよ風のように、静かに心にそよいでいるようだといわれています。
では、逆境の時はどうなるのでしょうか?

煩悩即菩提

逆境の時は、「衆禍の波転ず」といわれています。「衆禍」とは色々なわざわいということで、不幸や災難です。
苦悩の根元が断ち切られても、煩悩によって悪いたねをまけば、因果応報で不幸や災難がやってきます。
その時は、仏教の根幹である因果の道理が知らされているので、自分のたねまきを懺悔せずにおれなくなります。
それと同時に、「衆禍の波転ず」といわれているのは、不幸や災難が喜びの種に転じてしまいます。
これを「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」といいます。
煩悩即菩提とは、煩悩がそのまま菩提に転じ変わるということで、煩悩に目鼻をつけたような私が、そのまま喜びに転じかわるということです。
煩悩が喜びに変わるのではなくて、そのまま転じます。
これを親鸞聖人は、氷と水にたとえられています。

罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし
(高僧和讃)

罪障」とは煩悩、「功徳」とは喜びのことです。
煩悩が喜びの体となるのが煩悩即菩提です。
」とは何かというと、次に氷と水のようなものだとたとえられています。
氷が大きければ大きいほど、水が多くなるように、煩悩は変わりませんが、煩悩が大きければ大きいほど、喜びも大きくなるのです。

煩悩具足は変わらないのですが、そのまま煩悩即菩提になります。
ですから、順境でよし、逆境でよし、苦悩の根元が断ち切られれば、煩悩はそのまま、絶対の幸福になるのです。

煩悩は死ぬまで変わらない

ここで気をつけなければならないのは、絶対の幸福になったら、少しは欲が少なくなって淡泊になるのではないかとか、腹も立たなくなって温厚になるのではないかと思います。
ところが煩悩は少しも変わりません。
29歳で絶対の幸福になられた親鸞聖人は、煩悩について「臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」と言われています。
絶対の幸福になっても、煩悩は死ぬまでなくもならなければ、減りもしないということです。
108の煩悩が80になったり、40になったりするわけではありません。
ましてや煩悩がなくなるわけではありません。

正信偈』の中にはこう言われています。

煩悩を断ぜずして涅槃を得。
正信偈

煩悩は苦悩の根元ではありませんので、苦悩の根元が断ち切られれば、煩悩を断ずることなく、煩悩即菩提、順境でよし、逆境でよしの絶対の幸福になれるのです。
ですから最も恐ろしいのは煩悩ではなく、苦悩の根元です。

では私たちの苦悩の根元とは何か、どうすればそれをなくして、絶対の幸福になれるのかについては、以下の小冊子に分かりやすくまとめてありますので、今すぐお読みください。

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