浄土真宗の歴史と人物

現在、浄土真宗は日本の仏教で最大の宗派となっています。
浄土真宗はどのように始まり、どのように日本最大の宗派になったのでしょうか?
その間には、どんな人物のどのような活躍があったのでしょうか?

浄土真宗の関連年表

以下は、浄土真宗の主要な年表です。

西暦 できごと
1173 親鸞聖人がお生まれになる。
1201 親鸞聖人29歳、法然上人に巡り会い、阿弥陀如来の本願を聞かれる。
1203 親鸞聖人31歳、結婚される。
1207 親鸞聖人35歳、越後へ流刑になる。
1224 親鸞聖人52歳、関東で『教行信証』執筆開始。浄土真宗の立教改宗とされる。
1262 親鸞聖人90歳、浄土へお還りになる。
1272 覚信尼、親鸞聖人の墓所「大谷廟堂」を建立。
1310 覚如上人、3代目を継承。
1321 覚如上人、大谷廟堂を本願寺とする。
1351 覚如上人82歳、浄土へ還られる。
1415 蓮如上人お生まれになる。
1457 蓮如上人43歳、8代目を継承。
1461 蓮如上人46歳、初めて御文を書く。
1465 蓮如上人51歳、寛正の法難で本願寺を破壊される。
1471 蓮如上人57歳、吉崎御坊へ。
1480 蓮如上人66歳、山科本願寺建立。
1496 蓮如上人82歳、大坂本願寺建立。
1499 蓮如上人85歳、浄土へお還りになる。
1570 石山戦争が始まる。
1580 石山戦争が終わる。
1593 西本願寺ができる。
1602 東本願寺ができる。
1631 本山・末寺の制度ができる。
1639 西本願寺、学寮を設置。
1664 檀家制度ができる。
1665 東本願寺、学寮を設置。
1774 浄土真宗の宗名を幕府に申請するが浄土宗が反対。
1806 三業惑乱が終結。
1868 明治政府、神仏分離令。廃仏毀釈が始まる。
1872 浄土真宗という宗名を政府が認める。
1904 日露戦争・戦争協力。
1940 西本願寺、聖典拝読の心得を発表。
1947 民法改正・檀家制度の崩壊。

親鸞聖人・浄土真宗を明らかに


平安時代の末期(1173年)、親鸞聖人が、京都にお生まれになりました。
4歳の時にお父さんを、8歳の時にお母さんを亡くされた親鸞聖人は、「次に死ぬのは自分の番だ、死んだらどうなるのだろう」と、死の影に驚かれて、9歳で出家され、天台宗僧侶となられました。

親鸞聖人は、比叡山で20年間、激しい修行に打ち込まれました。
それは、怒り愚痴煩悩を抑えて、さとりを目指すものでした。
親鸞聖人は、千日回峰行よりも難しい大曼の難行までされましたが、後生の一大事の解決はできませんでした。

天台宗の教えに絶望された親鸞聖人は、29歳で泣き泣き比叡山を下りられました。
どこかに後生の一大事の解決を教えてくだされる方はないかと、京都の町を夢遊病者のようにさまよわれ、かつての法友、聖覚法印に導かれ、吉水の法然上人と巡り会われたのです。

法然上人から真実の仏教を聞かれるようになり、29歳のとき、阿弥陀如来の本願によって、後生の一大事を解決し、絶対の幸福に救い摂られました。
これを信心決定といいます。

阿弥陀如来に救い摂られた親鸞聖人は、阿弥陀如来の広大なご恩は、身を粉にしても、骨を砕いても足りないと、阿弥陀如来の本願一つを一生涯明らかにして行かれました。
浄土真宗とは阿弥陀如来の本願であり、阿弥陀如来の本願を最も鮮明に明らかにされたのが浄土真宗なのです。

親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願を明らかにされるため、31歳で、当時僧侶には固く禁じられていた結婚をなされました。
また、阿弥陀如来の本願を余りにも強調され過ぎたために、権力者の怒りを買い、35歳で越後に流刑にあわれています。
それから親鸞聖人は、僧侶でもなければ俗人でもない、非僧非俗を宣言されています。

40歳頃から20年間、常陸(茨城県)を中心に、関東で布教に挺身されます。
52歳のとき、親鸞聖人の教えのすべてがおさめられた、主著『教行信証』の執筆を始められます。
後に、この『教行信証』の執筆を始められた1224年が、浄土真宗の立教改宗の年とされています。

還暦過ぎて親鸞聖人は、生まれ故郷の京都に戻られて、ご説法のかたわら著作のわざに励まれて、90歳で浄土へお還りになられました。

今日最も読まれている仏教書『歎異抄』は、親鸞聖人がお亡くなりになった後、お弟子が、親鸞聖人のお言葉を書き残したものです。その著者は3代目の覚如上人に教えを伝えた唯円といわれています。

3代目・覚如上人

親鸞聖人がお亡くなりになった10年後に、末娘の覚信尼が、西吉水に六角堂を建てて遺骨を移し、親鸞聖人の御影像を安置し、「大谷廟堂(おおたにびょうどう)」と名づけました。
そして、門徒の承認を得て、覚信尼は管理者である「留守職(るすしき)」に就任します。
やがて覚信尼の子供の覚恵が継ぎ、その子供の覚如上人が「大谷廟堂」を「本願寺」としたのです。

覚如上人は、親鸞聖人の孫の如信上人を通して、じかに教授を受けた親鸞聖人の教えを『口伝鈔』に書き残します。
また、聖人の御一代を、文章と絵で伝えられた『御伝鈔』(本願寺聖人親鸞伝絵)、弥陀の救い(執持名号)を明かされた『執持鈔』、邪説を破り、真実の教えを明かされた『改邪鈔』などを著し、正しい親鸞聖人の教えをぐっと要約して伝えて行かれました。

8代目・蓮如上人・燎原の火の如く

室町時代になると、1415年、親鸞聖人の教えを正確に、最も多くの人に伝えた蓮如上人が現れます。
蓮如上人は、15歳のとき、浄土真宗の興隆を誓い、勉学に打ち込みます。
1457年、43歳のときに本願寺の8代目になります。
このときの本願寺は小さな1軒の寺でした。

それから蓮如上人は、滋賀県を中心に、精力的に布教されます。最初のお手紙は47歳のときに書かれたといわれ、これを『御文』といわれます。この蓮如上人の活躍により、浄土真宗は燎原の火の如く広まって行きます。
あまりの勢いに怖れをなした比叡山は、その8年後の1465年、蓮如上人が51歳のとき、約150人の僧兵が徒党を組んで本願寺を襲い、建物を破壊し財産を奪っていきます。
これを「寛正の法難」といいます。

命を狙われた蓮如上人は、その後、滋賀県や京都を転々と布教され、57歳のときに福井県の吉崎へ移り、4年間布教されます。
その後は大阪で布教され64歳のとき、現在の京都市内に山科本願寺の建立を始められ、2年後に完成します。「寺中広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」といわれ、寺内町の人口は2万人に及んだといわれます。
そして82歳には、現在の大阪城のある場所に、大坂本願寺を建立されます。
戦国時代には重要拠点となる要衝に初めに目をつけられたのが蓮如上人でした。

こうして蓮如上人はわずか40年余りで、浄土真宗が現代の日本で最大の仏教の宗派になる基礎を築かれて、85歳でお亡くなりになったのでした。

石山戦争と東西本願寺分裂

その後、11代目の顕如上人のときには、本願寺は当時の戦国大名の中でも最大の勢力となります。
やがて1568年、京都周辺を征服して勢力を拡大した織田信長が、本願寺に五千貫の軍事費を請求してきます。
顕如上人は、最初は争いを避けるために要求に応じました。

ところが信長は1570年、本願寺の明け渡しを要求してきます。
これによって石山戦争が始まったのでした。

翌年の1571年には信長は比叡山を焼き討ちにしますが、本願寺は10年もの間、徹底的に抗戦し、ついに1580年、朝廷の仲介により、和平条約を結びます。
その時、徹底抗戦を唱えた長男の教如と顕如上人は仲違いします。
これが東西本願寺の分裂の因縁となりました。

1582年に信長は本能寺の変で討たれ、豊臣秀吉が天下を統一します。
秀吉は、本願寺と手を結ぶ道を選び、1591年に顕如上人に現在の京都の西本願寺の場所に土地を寄進します。
1592年、顕如上人が没すると、教如があとを継ぎますが、秀吉は、弟の准如を後継者とします。
これが現在の本願寺派(西本願寺)の元になります。

やがて秀吉が亡くなり、徳川家康の時代になると、1602年、本願寺の分裂を計り、教如に土地を寄進して、東本願寺を建てさせます。これが大谷派(東本願寺)の元になります。

こうして、戦国時代には最強の勢力だった本願寺は、東西に分割され、勢力をそがれたのでした。

江戸時代になると、江戸幕府は、幕藩体制の中に寺院を利用しようとしました。
本山末寺の制度」によって寺院の本山と末寺の関係を設定し、寺社奉行を設置して監理下に入れます。
そして寺請制度を作り、国民は全員どこかの寺の檀家になることにして、現在の戸籍にあたるものを作ります。寺は市役所のようになり、義務的に形だけ所属している人も増えたのでした。

経済的には安定しましたが、他の寺に所属している人を改宗して浄土真宗にすることはできないので、東西本願寺共に「学寮」という僧侶の育成機関を作り、浄土真宗の教えの研究が盛んになりました。しかし一般の人に対しては葬儀法事だけを行う、葬式仏教の基盤ができていったのです。

近現代の衰退

江戸時代は「浄土真宗」という名前は浄土宗から反対されており、「一向宗」と言われていましたが、明治時代になると、明治5年に「浄土真宗」と名乗ることが認められます。

しかし明治政府は神道を国教にしようとします。
人々はも仏も同じようなものだと思っているので、「神仏分離令」を出して、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という仏教の大弾圧を始めます。鹿児島県、島根県では、全寺院が破壊され、富山県では1320カ寺を1カ寺に合併するように指示を受けます。福井県、新潟県では一揆を起こして抵抗しますが、政府軍に敗れます。
必死の抵抗により、明治8年に信教の自由が認められますが、政府の弾圧を受けます。

同時に明治維新により、西洋崇拝の風潮が強まり、西洋哲学や浄土真宗に否定的な西洋由来の仏教学が入り込み、浄土真宗の教えを蝕んでいきます。

明治憲法の信教の自由は、臣民の義務に背かない範囲であったため、明治37年の日露戦争では、仏教の教えに反する戦争協力を余儀なくされます。

昭和に入り、第二次世界大戦前の1939年には、宗教統制が強化され、親鸞聖人の主著『教行信証』の「主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ」(天皇をはじめ臣下の大臣たちは、真実の仏教に背き、正義に違い、無法の怒りを起こし迫害する)という天皇批判の文章を問題視されます。
そのため、西本願寺では、この文章を削除し、他にも親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の本の中で13カ条、数十カ所にわたり、拝読しなかったり、拝読の仕方を変える心得を発表します。

こうして大学では浄土真宗の教えに反する西洋の仏教学が猛威を振るい、伝統教団でも親鸞聖人の教えが伝えられなくなっていきます。

第二次世界大戦後になると、改正民法で家族制度が否定され、檀家制度が崩壊します。
また農村部の人口が都市部へ移動し、もともと農村部に基盤があった浄土真宗は大きく衰退します。

こうして親鸞聖人が明らかにされた本当の生きる意味、すべての人が本当の幸せになれる道は、衰滅の危機に瀕しているのです。

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