浄土真宗のタブーとは?

浄土真宗には、たくさんのタブーがあります。
これをやっていると、この世から不幸や災難がたくさんやってきます。
それにもかかわらず、浄土真宗の人でも知らずにやっている人がたくさんあります。
一体どんなことでしょうか?

浄土真宗にタブーが多い理由

浄土真宗を開かれた親鸞聖人の当時、まだ科学が発達していなかったために、何の根拠もない迷信が信じられていました。
例えば、現代なら気象衛星で予測できる天気がわからないため、雨乞いをして雨を降らせようとします。
また、医学が進歩していないため、病気になると悪霊のせいだと思って、に捧げ物をして祈ります。
その他、ある人は病気で早死にし、ある人は商売繁盛して長生きするのはどうしてなのかわからないため、困ったことがあれば、何でも神に祈っていました。

そんな時代にあって親鸞聖人は、釈迦の説かれたお経に忠実に、迷信を打ち破り、本当の幸せになるにはどうすればいいのかを明らかにして行かれたのです。

そのため、浄土真宗では、本当の幸せになるためには、これはやってはならないということが色々と教えられています。

経典に忠実に、本当の幸せになる道を教えられているのが浄土真宗ですが、そのために大きく分けて2つの前提があります。
浄土真宗にたくさんのタブーがあっても、ほとんどはこの2つから出ているのです。

浄土真宗のタブーを理解する第1のカギ

浄土真宗のタブーを理解する第一のカギは、仏教の根幹として説かれている「因果の道理」です。

因果の道理とは、すべての結果には必ず原因があるという因果律です。
仏教は、2600年前に説かれたものですが、現在の科学と共通の因果律をすでに明らかにされていたのです。
しかも科学で取り扱う領域は、物質的なものだけですが、仏教では人間の心や運命についても、因果の道理に基づいて、詳しく解明されているのです。

その運命の原因について、お釈迦さまは、こう教えられています。

善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあっか)
自因自果(じいんじか)

これは、善いたねをまけば、善い結果
悪いたねをまけば、悪い結果
自分のまいたたねは、自分が刈りとらなければならない、ということです。

ここで、たねというのは、自分の行いのことです。
善い行いをすれば、幸せが生じ、悪い行いをすれば、不幸や災難が起きるのです。
これを親鸞聖人は「自業自得(じごうじとく)」といわれ、分かりやすくこのように教えられています。

善き事ことに行えば
幸い来ると思うべし
悪しき事を行えば
災いことに来るなり(大日本国粟散王聖徳太子奉讃)

仏教は、この因果の道理に立脚して説かれていますから、七千余巻の一切経といっても、この因果の道理に外れたのは一つもありません。
これが一切経を貫く因果の道理ですから、親鸞聖人も因果の道理に外れたことをしてはならないと、具体的に教えられているのです。

その中で、現代でも多くの人に関係がありそうなのは、日の善悪、占い、神棚、クリスマス、先祖供養の5つです。

1.日の善悪

浄土真宗では、大安吉日などの日のよしあしを選ぶことはしません。
親鸞聖人は、今日はいい日かどうか、お日柄はどうかと吉日を選んでいる人を悲しまれています。

かなしきかなや道俗の
良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす(悲歎述懐和讃)

道俗」とは、僧侶も在家の人もということです。
良時吉日えらばしめ」とは、今日は友引だから葬式を出してはいけないとか、今日は大安だからお日柄もよく、結婚式に最適だとか、日の善悪で吉凶を占うことです。

それで親鸞聖人は、『教行信証』に、こう教えられているのです。

吉良日をみることをえざれ。
(教行信証)

仏教では、このようなことで運命が決まるのではなく、行いで決まるのだから、日の善悪は選んではならない、自分の行いを反省し、改善しなさいと教えられているのです。

2.占い

日の善悪に関連して、占いもよくありません。
上の親鸞聖人のお言葉の「卜占(ぼくせん)」というのは、占いのことです。
現代でも占いは非常に人気があり、「今日の運勢」や「ラッキーカラー」「星占い」「タロット」「手相」「墓相」など、色々な種類があります。
占い」というのは、同じ未来の予想でも、天気予報は占いとはいいません。
気象衛星の情報により、計算して予測するからです。
それに対して、誕生日や星座、手のしわ、その時ひいたタロットなど、因果関係のないものを未来の運命に関係づけるのが占いです。

仏教では、このようなものはだから、迷ってはならないと教えられているので、親鸞聖人はこう教えられています。

吉日良辰をえらび占相祭祀をこのむものなり。
これは外道なり、これは偏に自力をたのむものなり。(一念多念証文)

この「占相」が占いです。これは外道といわれる仏教以外の宗教であり、自力であると教えられ、自力を捨てよと教えられているのです。

3.神棚

次に、日本では戦前に、各家庭に神棚を置くことが政府により強制されました。
1942年の「戦時家庭教育指導要項」にこうあります。

敬神崇祖(けいしんすうそ)は祖孫一体の道の中枢たるべきのなり。
敬神は実に天皇に帰一し奉る所以、
崇祖(すうそ)は天皇に仕へまつれる祖先を祀り崇(たっと)ぶ所以にして敬神と崇祖とは相合致して忠孝一本の大を顕現するものなり。従って各戸必ず神棚を設けて日常礼拝を怠らず祭祀(さいし)を行事として厳粛に執行し敬神崇祖の精神を具現せしむるを要す。(戦時家庭教育指導要項)

この太平洋戦争によって、日本は百万人を超えるたくさんの人が死に、国を滅ぼしてしまったのです。
この戦時体制によって、浄土真宗の家でも、神棚を置くことが強要され、お仏壇と神棚が両方ある家が今でも残っています。

しかし、このような神信心は、仏教では鬼神信仰といわれるものです。
鬼神とは、死んだ人間や動物の霊魂が、私たちに幸せや不幸を与えると信じるものです。
このような鬼神信仰を親鸞聖人はこのように悲しまれています。

かなしきかなやこの頃の
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す(悲歎述懐和讃)

和国の道俗」とは、日本の僧侶も、在家の人もということです。
仏教の威儀をもととして」というのは、仏法者であるといいながらとか、浄土真宗なら、浄土真宗の門徒といいながら、ということです。
天地の鬼神を尊敬す」というのは、死んだ人間や動物の霊を神として敬っている、何と悲しいことか、ということです。

そして親鸞聖人は、主著の『教行信証』に、こう教えられています。

鬼神をまつることをえざれ。
(教行信証)

このように浄土真宗では、一切、神信心をしてはならないのです。

4.クリスマス

次にクリスマスもよくあります。
クリスマスは、キリスト教の行事で、キリスト教徒が神と崇めるイエスの誕生日を祝うものです。

仏教では、すべての結果には原因があるという因果の道理にもとづいて、キリスト教でいうような天地創造の神はありません。
なぜなら、もし最初に万物を創造したのが神だとすれば、その神の原因はなくなってしまうので、すぺての結果には必ず原因があるという因果の道理に反するからです。
仏教では、大宇宙の始まりは無始無終ですから問題にされません。

このような因果の道理に反することを教えられた教えを仏教では「余道」といわれ、親鸞聖人は、主著『教行信証』に「余道」についてこのように教えられています。

余道につかうることをえざれ。
(教行信証)

このように親鸞聖人が、仏教以外の教えにつかえてはならないと教えられていますから、浄土真宗では、クリスマスもしなければ、その他の仏教以外の宗教の行事も一切行いません。

5.先祖供養

次に、浄土真宗では、先祖供養をしません。
なぜなら、人は死んだらどうなるかというと、信心獲得していれば、極楽へ往って仏に生まれますし、信心獲得していなければ、死ぬまでの行いによって、因果の道理にしたがって、次の世界へ生まれます。

死んでしまえば、もう仏様でもどうにもなりません。
親鸞聖人は、主著『教行信証』にこう教えられています。

一たび人身を失いぬれば万劫にもかえらず。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
(教行信証)

一たび人身を失いぬれば」とは、死ねばということです。
死ねば、「万劫にもかえらず」とは、気の遠くなるほど長い間、苦しみ迷いの旅を続けなければならない、ということです。
この時悟らざれば」とは、生きているときに信心獲得しなければ、ということです。
仏、衆生を如何したまわん」とは、仏さまでもどうにもならないということです。

ですから世の中には、先祖の霊が近くにいると思って色々なことをしますが、浄土真宗では、一切行いません。

例えば、お盆に死者の霊を迎える精霊棚を作ったり、盆提灯を飾ったり、迎え火や送り火はしません。

死者の霊が宿ると思われている位牌を使いません。水やお茶をお供えすることもありません。

浄土真宗のお仏壇は、御本尊を御安置するところで、先祖供養のためにあるのではないので、位牌を置いたり、遺影を入れたりもしません。お仏壇の「魂入れ」「性根抜き」も行いません。

お通夜葬儀法事でも使わない言葉があります。
例えば「天国」「昇天」「天に召された」はキリスト教の言葉ですので使いません。
草葉の陰で」「黄泉の国」「永眠する」「千の風になる」「安らかにお眠りください」「冥福を祈る」も仏教と異なる教えなのでいいません。
御霊前」「」「御霊(みたま)」も、仏教ではいいません。「故人」ならいいます。
亡くなられた方に、死出の旅のための「死装束」をつけることもありません。
また、仏様でもどうにもならないのに、僧侶が引導を渡してもどうにもならないので、禅宗でよくなされる「引導を渡す」こともありません。

祈る」というときは「念ずる」といいます。

浄土真宗では、死んでからでは間に合いません。
生きている時に、仏教を聞いて信心決定し、本当の幸せに救われることが最も重要なのです。

浄土真宗のタブーを理解する第2のカギ

浄土真宗のタブーを理解する第2のカギは、釈迦の説かれた仏教の結論です。
お釈迦さまは、私たちに後生の一大事があることを明らかにされました。
後生とは、死後のことです。
死は私たちの確実な未来ですから、後生と関係のない人は誰もありません。
私たちが直面する確実な未来であるにもかかわらず、死んだらどうなるかハッキリしないのではないでしょうか。
そんな後生暗い心を抱えたまま死ねば、大変な一大事があることを、お釈迦さまが明らかにされたのです。
これを後生の一大事といいます。

その後生の一大事を解決する力は、私たちにはありません。自分の力では解決できないのです。
諸仏や菩薩にもありません。
諸仏の王であり先生である阿弥陀如来にしか私たちの後生の一大事を解決する力はないので、お釈迦さまは、仏教の結論として、こう教えられています。

一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)

無量寿仏」とは阿弥陀仏のことです。
一向専念とは、阿弥陀仏一つに向きなさい、阿弥陀仏だけを信じなさい、ということです。
後生の一大事を解決する力のある仏は、阿弥陀仏しかないのだから、私の先生である阿弥陀仏に助けてもらいなさい、とお釈迦さまが教えられているのです。

このお釈迦さまの説かれた仏教の結論を親鸞聖人は強く教えていかれましたので、浄土真宗のことを「一向宗」ともいわれるほどです。

このことにより、浄土真宗では、阿弥陀仏以外の一切の諸仏、菩薩、諸神につかえることはないのです。
手を合わせて頭を下げたり、供養したりすることもありません。
このように、阿弥陀仏一仏に向かうところから、浄土真宗には色々なタブーがあります。

6.般若心経

浄土真宗以外の宗派では、よく『般若心経』を唱えたり、写経したりすることがあります。
しかし、『般若心経』は、阿弥陀仏に向かうのではなく、自分の力でさとりを目指す教えですから、浄土真宗では、『般若心経』を読んだり、写経したりはしないのです。

浄土真宗では、浄土三部経といわれる『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』などを読みます。
また、日常のおつとめでは、浄土三部経の内容を親鸞聖人が簡潔に明らかにされた『正信偈』、蓮如上人の『御文章』を読みます。

7.追善供養

浄土真宗では、後生の一大事を解決する力は、私たちにはないと教えられています。
それどころか、煩悩の塊である私たちには、一つのもする力はありません。
ましてや自分でやった善を他の人にさしむけることを「回向(えこう)」といいますが、回向することもできません。

親鸞聖人は、『歎異抄』にこう言われています。

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したること未だ候わず。
(歎異鈔)

孝養」とは「追善供養」のことです。
追善供養」とは、自分のやる善を亡くなった人にさしむけて、少しでも幸せになってもらおうとすることです。
親鸞聖人は、追善供養のために、1回の念仏も称えたことがない、といわれています。
念仏を称えたことさえないのですから、ましてやお経を読まれたこともなければ、お花や線香のお供えをなされたこともありません。

出家して戒律を守ることもできないので、浄土真宗では、授戒したときにつける名前である「戒名」もありません。
戒名」ではなく、「法名」をつけます。
法名」も本来は、生きているときに本当の幸せに救われた人がつける名前です。

このように、親鸞聖人は、現代の科学のように合理的な、因果の道理を前提として、私たちの苦しみの根元と、その解決の道を明らかにされ、どんな人でも本当の幸せになれる道を教えられたのです。
ではその浄土真宗に教えられる本当の幸せとはどんなことか、どうすれば本当の幸せになれるのかについては、以下のメール講座でご覧ください。

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