蓮如上人

蓮如上人御影
蓮如上人御影

蓮如上人は、浄土真宗が現代日本の最大宗派となる基礎を築かれた中興の祖といわれます。
1415年、室町時代にお生まれになられ、43歳で法主になったときには、本願寺は天台宗の末寺でした。
その後、応仁の乱で戦国時代に向かう中、親鸞聖人の教えを正確に、最も多くの人に伝えられたことで、蓮如上人の右に出る方はありません。
迫害の中、親鸞聖人の明らかにされた本当の生きる意味を伝え、戦国時代には、本願寺は大名をしのぐほどの勢力となりました。蓮如上人がおられなければ、私たちは本当の生きる意味は分からなかったかもしれません。
一体どんなことがあったのでしょうか?

蓮如上人の年表

西暦 和暦 年齢 できごと
1415 応永22 1 京都東山の大谷本願寺でお生まれになる。
1420 27 6 お母さんが大谷本願寺から姿を消す。
1429 永享1 15 浄土真宗再興の志を起こす。
1431 3 17 青蓮院で得度し比叡山に学ぶ。
1442 嘉吉2 28 この頃、如了と結婚
1449 宝徳1 35 東国布教
1457 長禄1 43 本願寺を継承、8代目となる。
1460 寛正1 46 正信偈大意』を執筆
1461 2 47 親鸞聖人200回忌・最初の『御文
1465 6 51 比叡山の僧兵、大谷本願寺を破壊(寛正の法難)
1466 文正1 52 史上初の一向一揆
1467 応仁1 53 親鸞聖人御真影(肖像)を堅田・本福寺に移す
1468 2 54 延暦寺が堅田を攻撃(堅田大責め)東国布教。
1469 文明1 55 三井寺南別所に坊舎建立(顕証寺)
1471 3 57 吉崎御坊建立
1474 6 60 吉崎炎上と本光房了顕殉教。
1475 7 61 一向一揆、富樫政親と激突。蓮如上人吉崎退去
1478 10 64 山科本願寺建立開始
1480 12 66 山科本願寺の本堂完成。日野富子が参詣。
1481 13 67 仏光寺の経豪が蓮如上人へ合流
1482 14 68 越前三門徒の善鎮が蓮如上人へ合流
1483 15 69 山科本願寺完成
1489 延徳1 75 白骨の章を執筆
1493 明応2 79 木辺派錦織寺の勝恵が蓮如上人へ合流
1497 6 83 大阪御坊(石山本願寺)建立
1498 7 84 最後の御文を書かれる
1499 8 85 3月25日往生

蓮如上人のお生まれ

1415年に、蓮如上人はお生まれになりました。
親鸞聖人が1263年にお亡くなりになってから152年を隔てる室町時代の中期です。
当時の将軍は足利義満の子の第4代、足利義持でした。
やがて全国を巻き込む応仁の乱に向かって政治が不安定になっていく時代の変わり目でした。
3代目の覚如上人が1351年に亡くなってからもすでに64年が過ぎており、その間に本願寺はすっかり衰退し、天台宗の末寺になっていました。

その7代目の存如上人が、蓮如上人のお父さんです。

お母さんは、三井寺に働いていて本願寺にやってきた優れた女性とも、公家の大納言信孝(のぶよし)の娘ともいわれますが、『蓮如上人御一期書』にはこうあります。

御母儀御方は何方よりわたらせ給う人ともしらず、何の比よりすませ給御方とも更に人しらずして、男子一人誕生ありて養育しましませり。

蓮如上人のお母さんは、どこから来られたのか、いつ来られたのか分からないけれども、男の子を一人産んで育てておられたということです。

蓮如上人は、存如上人が20歳のとき、京都の東山の本願寺で、長男として生まれられました。
幼名を「布袋丸」といいます。

6歳・お母さんとの別れ

やがて蓮如上人が6歳になったある日、お母さんは蓮如上人に鹿の子絞りの小袖を着せて絵師に姿を描かせました。
その年の年末の12月28日、その絵姿だけを持って、静かに姿を消してしまいます。
その絵姿は、鹿の子の御影といわれて現存しています。
わずか6歳の蓮如上人は、お母さんがいなくなってしまい、どんなに悲しく、寂しかったことでしょう。その後、生涯、再会することはかないませんでした。

翌年、幕府の奉行を務める海老名氏の娘、如円が存如上人の正妻となり、蓮如上人の継母となりました。
やがて如円の子供が生まれると、継母は蓮如上人に辛く当たるようになります。
ある時、来ていたものがチクチクするので、調べてもらうと綿の中から細かく折られた数千本の針が出てきました。
このままでは命が危ないと思った本願寺の家老がお預かりすることになりました。

8歳・一休との初対面

8歳になったとき、京都の五条大橋で、当時29歳だった一休とすれ違います。
その蓮如上人のただ人ならざる様子に、一休は思わずに蓮如上人を連れていた本願寺の家老に、
この子は一体どのような方ですか?
と尋ねます。
この子は親鸞聖人から8代目になられる方です
と答えると、一休は念仏を称え、
この子一人を守り育てられたならば、三世諸仏を供養するよりはるかに功徳があるだろう
と言ったと伝えられています。

こうして蓮如上人と一休とは生涯にわたって交流するようになります。
やがて禅宗だった一休も親鸞聖人の教えの素晴らしさが少しずつ知らされて行き、最後は浄土真宗に帰依することになるのです。

極貧の少年時代

当時の本願寺には参詣者も財施もほとんどなく、継母の如円は、6人の子供を生み、自分の子供を本願寺の跡継ぎにしようとしますので、蓮如上人は経済的に困窮しました。
食べる物もなく、2、3日食事ができないこともよくありました。
あたたかいお風呂につかることもできず、水で足を洗うだけでした。
御一代記聞書』にはこうあります。

御足をも、大概、水にて御洗い候。
また、二三日も御膳まいり候わぬ御事も候
(御一代記聞書)

着物は新しいものは買えず、破れたり縫ったりを繰り返され、力のかかる弱い所は常に破れていたということです。

御衣は肩破れたるを召され候。(御一代記聞書)

そんな貧しい少年時代に、親鸞聖人の教えを学ばれ、勉学に励まれたのです。

15歳・浄土真宗再興の志

蓮如上人は夜、親鸞聖人のご著書を拝読しようと思っても、灯油が買えませんでした。
そのため少しずつ薪を焼いたり、月夜には月明かりで親鸞聖人の教えを学ばれました。
その様子は『御一代記聞書』にこのように記されています。

油をめされ候わんにも、御用脚なく候あいだ、ようよう、京の黒木をすこしずつ御とり候いて、聖教など御覧候由に候。また、少々は、月の光にても聖教を遊ばされ候。(御一代記聞書)

聖教」とは、正しい仏教の先生の書かれた浄土真宗の本のことです。
特に力を入れて拝読されたのは、親鸞聖人の主著『教行信証』でした。
御一代記聞書』に「聖教はよみやぶれ」といわれているように、『教行信証』の表紙が4回も破れるほど繰り返し読まれたといいます。

そこには、すべての人が生きているときに本当の幸せになれる、「平生業成(へいぜいごうじょう)」の教えが明らかにされています。
それにもかかわらず、廃れきった浄土真宗の現状を歎かれ、15歳のとき、浄土真宗の再興を志し、常に念願されていた、とこう言われます。

「十五歳より、はじめて真宗興行の志し頻にして(中略)
如何してかわれ一代において、聖人の一流を諸方に顕さんと、常に念願したまい」
(蓮如上人遺徳記)

今はさびれてしまったこの尊い浄土真宗を再興し、何としても我が一生の間に、親鸞聖人の教えをすべての人へ伝えねばならないと常に念願して、教学の研鑽に打ち込まれたのです。

17歳の時には、親鸞聖人と同じ青蓮院で得度を受け、比叡山で5年間、天台宗の学問を修得されます。
その後、奈良の東大寺に数年間赴かれ、法相宗の唯識の学問も修得されます。

こうして仏教に精通され、その真髄を明らかにされた親鸞聖人の教えを一人でも多くの人に伝えようとされたのです。

28歳頃・結婚

蓮如上人は、28歳の頃、如了と結婚されました。
如了は、7人の子供を産みますが、とても使用人を雇う余裕はありません。
蓮如上人自ら、赤ん坊のおしめを洗っておられたとこのように言われています。

幼童の襁褓(むつき)をも、御ひとり、御洗い候。(御一代記聞書)

襁褓(むつき)」とは、おむつのことです。むつきに「」がついて「おむつき」になり、「」が省略されて、現在のように「おむつ」といわれるようになったのです。

自分の食べ物さえもままなりませんので、長男の順如を残して、あとは里子に出されます。
こうして親子3人での生活でしたが、それでも1人分の食事を引き延ばして3人分にしておられたと伝えられています。

供御の御汁は御一人の分あなたよりまいらせられ候を、水を入れてのべさせられ、御三人みなみなきこしめしたると申候。(天正三年記)

継母の如円から、親子3人に対して1杯の味噌汁を与えられ、それを水で薄めて引き延ばしてすすられたのです。

35歳・東国布教

蓮如上人は、本願寺の住職の慣例として、存如上人と東国布教へ行かれます。
親鸞聖人が新潟県へ流刑にあわれたのと同じ35歳のときには北陸から関東へ赴かれました。

蓮如上人を迎える門徒もほとんどなく、乗り物はありませんので徒歩で、布教に回られたのです。
各地に残る親鸞聖人のご旧跡も巡られますが、どこにも本当の親鸞聖人の教えは伝えられていません。
何としても浄土真宗を再興せねばならないと闘志を燃やされたのです。

しかし、貧しい生活の中、41歳のときに、妻の如了は31歳で亡くなってしまいます。

43歳・本願寺8代目を継承

43歳のとき、存如上人が亡くなると、その妻の如円は、自分の子供の応玄を後継者にします。
蓮如上人が存如上人と東国布教に赴かれたということは、実質的に後継者に認められたようなものでしたが、譲状という正式な文書が残されていなかったのです。
葬儀の喪主を応玄が務めることになりますが、周囲の人は誰も如円に逆らえず、8代目に応玄が決まりかけていたとき、北陸から如乗がやってきます。
8代目が応玄に決まりかけている事態に驚きます。
蓮如上人こそは浄土真宗を末代まで興隆される方。
しかも蓮如上人より18歳も若い次男でなく、ご長男で東国布教にも赴かれた蓮如上人が継がれるのは誰の目にも明らかだ
」と説得に尽力し、ついに蓮如上人が8代目に決定したのです。

腹を立てた如円は、本願寺の蔵からお経やお聖教などの財産をすべて持って、加賀(石川県)へ引き上げました。
後には味噌桶一つと小銭が残されていただけでした。

ところが3年後に如円が亡くなったとき、蓮如上人は葬儀に参列され、これまで育ててくだされたご恩に厚く感謝し、棺桶を持たれて葬式の行列にも参加されます。
これに感動した如円の子の応玄は、これまでの自分の行いの浅ましさを後悔し、お聖教をすべて蓮如上人にお返ししたといわれます。

御本尊を名号に

法主に就任された蓮如上人は、まず御本尊を改められました。
本尊」とは根本に尊ぶものということですが、本願寺は天台宗の末寺だったため、それまで天台宗の本尊が安置されていました。
本来、浄土真宗は天台宗と異なりますので、天台宗の仏像などを蓮如上人はお風呂のたびごとに焼却されます。

そして親鸞聖人が定められた浄土真宗の正しい御本尊である「名号」を御安置されました。
浄土真宗の正しい御本尊について蓮如上人はこのようにいわれています。

他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。
当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。
(御一代記聞書)

名号」とは、南無阿弥陀仏の六字のことです。
絵像」とは絵に描かれた阿弥陀如来像、「木像」とは木や金属で作られた阿弥陀如来の立体像です。
浄土真宗以外では、名号よりも絵像のほうが有り難く、絵像よりも木像を有り難く思って本尊にしている。
浄土真宗では、木像よりも絵像よりも、名号が正しい本尊であると分かりやすく教えられています。

滋賀県を中心とした急速な布教

蓮如上人は滋賀県を中心に布教に回られました。
特に、琵琶湖の南東の金森(かねがもり)、南西の堅田(かたた)には、特に熱心な門徒が現れます。

金森へ御方様を申入られ聴聞そうらいつるに、在所の人々も驚かれ、仏法も此時よりいよいよ弘まり申そうらいき。
(天正三年記)

御方様」とは蓮如上人のことです。
蓮如上人が金森に行かれて説法されると、それを聴聞した人々があまりの尊さに驚嘆し、仏教がどんどん広まっていった、ということです。

中でも特に熱心だったのはすでに蓮如上人35歳の頃に、ご縁を結んでいた金森の道西です。
蓮如上人より16歳年上でしたが、蓮如上人に心服していました。
蓮如上人46歳のとき、ぜひとも親鸞聖人の『正信偈』の意味を教えて頂きたいと熱心にお願いしたため、蓮如上人は『正信偈大意』を書かれています。

蓮如上人47歳のときに始まる『御文』の第1通も、道西にあてられたものです。

また、堅田でも、蓮如上人より19歳年上の法住(ほうじゅう)が35歳頃の蓮如上人のお弟子になっていました。
法住は堅田の中心人物で、蓮如上人が法主になられ、精力的に布教に回られるようになると、町全体が浄土真宗になります。
堅田は琵琶湖を支配する商人の町でした。
東北から北陸・山陰まで日本海で水揚げされたものは、敦賀から峠を越えて堅田に運ばれ、また船で運ばれます。
またこの逆のルートも使って商業が盛んになり、堅田は周囲で最も発展した町でした。
その町全体が浄土真宗になったため、堅田の商人は御文を携えて各地へ浄土真宗を伝えます。
堅田の商人が開いた寺は、全国に60を超えるといわれます。

滋賀県以外にも三河(愛知県)では、高田派の佐々木如光が、蓮如上人のお弟子になります。
佐々木如光は、三河や尾張に100以上の末寺を持つ有力者でした。

このように、蓮如上人は、滋賀県を中心に急速に本当の親鸞聖人の教えを広めて行かれたのでした。

47歳・親鸞聖人200回忌法要

法主に就任された4年後、蓮如上人が47歳のとき(寛正2年)、親鸞聖人200回忌の報恩講がつとめられました。
金森や堅田を中心に数百人の参詣者がありました。
その中には、一休の姿もありました。
蓮如上人のご説法を聴聞した一休は、こう言っています。

襟まきの あたたかそうな 黒坊主
  こいつが法は 天下一なり

襟まきの あたたかそうな 黒坊主」とは、親鸞聖人のことです。
親鸞聖人の教えは天下一だと知らされたのです。
この年、一休は禅宗から浄土真宗に改宗しています。

寛正二年六月十六日、大燈国師の頂相(肖像画)を本寺へかへして念仏宗となる。
(一休『自戒集』)

ところがこの時、天台宗の悪僧が通りかかり、蓮如上人を警戒して本願寺のあら探しを始めます。

51歳・比叡山の襲撃

やがて蓮如上人が法主になられてからわずか8年、浄土真宗の興隆をねたんだ比叡山が、本願寺を「仏敵」と認定し、京都大谷の本願寺を襲撃します。
1465年(寛正6年)1月10日、150人の僧兵が本願寺を襲い、蓮如上人は足の指を2本切り落とされながらも、かろうじて避難されますが、僧兵は財宝を略奪します。
約20キロ離れた堅田から、法住を中心とする200人が駆けつけたときには、僧兵は退却した後でした。

仏敵とされた以上、どちらが釈迦の教えなのか明らかにしようと法論を申し込んでも、比叡山は応じず、非難攻撃をするばかりです。
駆けつけた佐々木如光が、「おそらく比叡山の狙いは金でしょう」とすぐに三千疋(約180万円)を集めて比叡山に送ると、僧兵は黙ってしまいました。

蓮如上人は、大変な迫害の中でも各地を布教されると、僧兵は3月21日に再び大谷の本願寺を襲い、完全に破壊してしまいました。3代目の覚如上人が建立された大谷本願寺の最後でした。これを「寛正の法難」と言います。

52歳・史上初の一向一揆

その後、比叡山の僧兵は、門徒の家も襲撃するようになりました。
金森の門徒の家を襲い、御本尊や金品を奪い、家を破壊します。
幕府が比叡山を制止しますが、少しもやむ気配がありません。
蓮如上人は、約200軒の寺内町の周りを土塁や水堀で囲まれた城のような構造になっている金森道場におられ、門徒もそこに集まるようになりました。

ところが、寛正の法難の翌年の1466年、金森道場も襲撃を受けるという噂が流れます。
堅田の法住が援軍にかけつけると、300人の僧兵が包囲します。
蓮如上人が包囲を突破して避難されると、門徒達は打って出て、僧兵を撃破します。
2キロ追撃して大将をはじめ、13人を討ち取ります。
蓮如上人にご報告すると、ご立腹になられ、「人を殺すとは何事か、法論で決着をつけるべきである。すぐに軍を解散せよ」といわれます。
これは比叡山の僧兵と浄土真宗の門徒の武力衝突ですが、これが史上初の「一向一揆」といわれています。

ところが比叡山は、金森に援軍を送った、堅田を攻撃する動きを見せ始めます。
蓮如上人から戦争ではなく、法論をしなければならないと厳命されている堅田の法住は、八十貫文(約500万円)のお金を持って、比叡山に登ります。
根本中堂に到着すると、比叡山中の僧侶たちが、「なぜ名号を本尊として仏法を乱すのか」と怒号が飛びます。

法住は柱に名号本尊をかけて言います。
釈迦は『すべての人は、名号を聞く一つで絶対の幸福に救われる』と説かれているのになぜ仏法を乱すと言うのか
この法住の経典の根拠を挙げての熱弁に、比叡山の僧侶は誰も反論できなくなり、最後には
今かけらるるところの本尊、免し申す
と言いました。

この時法住は70歳でしたが、蓮如上人の言われた通り、法論によって一人で比叡山を撃破したのでした。
この時の名号本尊は、現存しています。

翌年(応仁元年)2月、蓮如上人は、親鸞聖人の御真影とともに、堅田の本福寺へ移られました。
蓮如上人は、門徒の家に足を運ばれ、家庭法話を開かれたので、念仏の声があふれたといわれます。

ところが、この年から11年間にわたる応仁の乱が起こり、京都は戦場となって寺院は焼き払われ、全国に争いが広がります。

54歳・東国布教

1468年(応仁2年)3月24日、比叡山は、堅田を襲撃します。これを堅田大責めといいます。火矢で堅田は炎上し、堅田門徒は船で沖ノ島へ撤退し、持久戦の構えとなります。

54歳になられた蓮如上人は、5月に東国布教に旅立たれるのでした。
まず北陸へ向かわれた蓮如上人は、福井県と石川県の境にある吉崎に立ち寄られ、「これほど聞法道場にふさわしい場所はない」と、地主や地元の権力者と交渉を開始されます。

その後、飛騨から東海道を通られ、奥州(東北)まで布教に赴かれました。
その後、佐々木如光の三河へ赴かれると、たくさんの人が参詣したといわれます。
こうして4カ月にわたる遠征を終え、滋賀県に戻ってこられました。

このように蓮如上人は、全国を回られて草鞋の食い込んだ跡を、後に子供達に見せられ、常々戒められたといわれます。

蓮如上人、古、関東御修行の時、御草鞋くいの御足の跡を折々取出させられたまい、各兄弟中へみせられ、我はかように辛労して仏法に身命をすてて、苦労をしたる事なり。
能々心得て冥加を存ずべきとぞ仰せられはべりしなり
(天正三年記)

浄土真宗の繁栄は、命をかけて仏法を伝えたことによるものであることを忘れるな、ということです。

57歳・吉崎御坊建立

1469年(文明1年)、55歳になられた蓮如上人は、天台宗でありながら比叡山と敵対していた大津の三井寺の敷地内に小堂を建立され、親鸞聖人の御真影(肖像)を安置されました。この建物は「顕証寺」と名づけられます。
56歳のときには、2番目の奥さんの蓮祐が亡くなります。

翌年(文明3年)、57歳の5月、吉崎の地主や権力者と交渉がまとまり、吉崎へ向けて旅立たれます。
やがて7月27日に吉崎御坊が建立されたことは、『御文』にこのように記されています。

文明第三初夏上旬の頃より、江州志賀郡大津三井寺の南別所辺より、何となくふとしのび出でて、越前・加賀諸所を経廻せしめおわりぬ。
よって当国細呂宜郷の内、吉崎というこの在所、すぐれておもしろき間、年来虎狼の棲みなれしこの山中をひき平げて、七月二十七日より、かたの如く一宇を建立して
(御文章1帖目8通)

最初は「虎狼の棲みなれし」といわれる寂しい山の中でしたが、蓮如上人が親鸞聖人の教えを説き始められると、たくさんの人々が集まってきました。
翌年の1472年(文明4年)には、7カ国から群集しています。

加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州七箇国より、彼の門下中、この当山へ、道俗・男女参詣をいたし、群集せしむる由、その聞えかくれなし。
(御文章1帖目7通)

その翌年にはあまりにたくさんの人が集まるため、浄土真宗の朝晩の勤行で拝読する親鸞聖人の『正信偈』と『和讃』の書写が間に合わず、1473年(文明5年)から木版印刷が始まりました。

また、「多屋(たや)」といわれる宿泊施設が、100軒も200軒も立ち並んだことが、1473年(文明5年)8月2日『帖外御文』に記されています。

頂上を引くずして屋敷となして、一閣を建立すときこえしが、幾程なくして打つづき加賀、越中、越前の三ケ国の内の、かの門徒の面々よりあいて、多屋と号して、いらかをならべて家をつくりしほどに、今ははや、一、二百間の棟かずもありぬらん
(帖外御文)

天台宗や真言宗、禅宗などの他宗の僧侶も蓮如上人の説法を聴聞して、お弟子になっています。

吉崎での苦難

ところが、人が集まると同時に、蓮如上人を亡き者にしようとする者も現れ始めます。
1473年(文明5年)、信者が減って行く他宗の僧侶が、吉崎御坊を攻撃する軍勢を準備していると噂されるようになります。

文明五年三月下旬のころより、世上沙汰しけるは、吉崎破却せしめんため、諸寺の法師頻りに軍勢を催す由、其の聞えかくれなし
(蓮如尊師行状記)

その年、蓮如上人が山中温泉に行かれたときには、僧兵に追われ、洞窟に隠れられてやり過ごされることがありました。
その時かくまったお婆さんの碑文にはこうあります。

蓮如上人、越前豊原の僧徒に追われたまい、大内の鈴村家の麦打ち中、その場の下へ飛び込ませられたり。

ちなみに山中温泉に到着された蓮如上人は、黒谷城主・富樫政昭のもとに宿泊され、「なぜ浄土真宗のことを一向宗といわれるのか」という質問を受けます。
これに蓮如上人は『御文』で答えられています。

問うていわく、「当流をみな世間に流布して、一向宗と名け候は、いかようなる子細にて候やらん。不審に覚え候」。 (御文章1帖目15通)

やがてついに翌1474年(文明6年)、蓮如上人60歳の3月14日、南大門あたりから火の手があがり、たちまち吉崎御坊は猛火に包まれます。
このとき、お弟子の本光房了顕が、親鸞聖人直筆の『教行信証』を護るために殉教してしまいます。
残された門徒は「了顕に続け」と翌年には吉崎御坊が再建されました。

蓮如上人は、戦争を起こしてはならないと常に戒めてこられましたが、1475年(文明7年)3月、加賀の富樫政親と門徒との武力衝突が起きます。
結局破れた門徒たちは、蓮如上人に和解の仲介をお願いにやってきます。
ところがそれを蓮如上人に取り次いだ安芸の法眼といわれる蓮崇(れんそう)が、「蓮如上人は加賀と越中の門徒が協力して富樫を打ち破るように」とおっしゃったと偽ります。

安芸が密謀にて、国の騒乱蜂起し、やむことなし(蓮如上人縁起)

これによって戦闘が激化した富樫政親は、吉崎の襲撃を計画します。
それを知られた蓮如上人は61歳の8月21日に吉崎を撤退され、蓮崇は破門となります。
蓮如上人が吉崎にてご布教されたのは、わずか4年間でした。

64歳・山科本願寺建立

吉崎を出発された蓮如上人は、船で若狭(福井県)の小浜へ上陸され、秋頃、現在の大阪市と京都市の中間にある、河内の出口(大阪府枚方市)に、出口御坊を建立されます。2年後の1477年(文明9年)には、出口御坊から淀川を渡った対岸の摂津富田に富田御坊も建立され、出口御坊を中心に約3年、関西一円を布教に回られます。

同じ年の蓮如上人が大阪の堺におられた時には、堺に到着した異国船から、身長2メートルの外国人が訪ねてきます。中国北部の人でした。
17歳の娘を亡くして悲嘆にくれていると、蓮如上人に教えを受ければ、自分も娘も救われると聞いて、海山を越えてやってきたのです。
万里の苦難を越えて聞法する中国の人に刺激を受けた堺の門徒たちは、堺御坊を建立しました。

蓮如上人64歳の1478年(文明10年)1月8日、金森の道西が、山科(京都市山科区)に本願寺を建立してはどうかと提案します。
すぐに山科へ行かれ、下見をされた蓮如上人は、山科本願寺の建立を決断されます。
土地の持ち主は出口御坊によく参詣していた海老名五郎左衛門でした。
以前からいつでも財施したいと申し出ていたため、即決します。

蓮如上人は20日後には山科へ移られ、建立が始まりました。
翌年には蓮如上人のお住まいか完成し、明けて1480年(文明12年)8月28日、山科本願寺の本堂が落成します。
蓮如上人の喜びは大きく、『帖外御文』に夜も眠れないほどだったと記されています。

誠よろこびは身上にあまりて祝着千万なり。
嬉しくも尊くも思い奉る間、その夜の暁き方までは、ついに目もあわざりき。
(帖外御文)

このとき、三井寺が親鸞聖人の御真影を返さないと言い始めますが、源兵衛・源右衛門親子の大変な活躍により、報恩講までには返してもらうことができました。

こうして1483年(文明15年)、蓮如上人69歳のときに24万坪の山科本願寺の全体が完成します。
比叡山の僧兵の攻撃にもびくともしない、高さ約7メートルの土居と深い水堀に囲まれた城塞都市でした。

将軍、足利義政の妻・日野富子も山科本願寺に参詣してその素晴らしさを讃えています。
ちなみに足利義政が銀閣を着工したのは1482年でしたが、1490年の完成まで8年かかっています。
浄土真宗の門徒は、将軍以上に広大な寺院を短期間で建立したのです。

落慶法要に参詣した中納言・鷲尾隆康は感嘆し、日記の『二水記』に「寺中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と記しています。

浄土真宗の各宗派の統一

山科本願寺へは、全国各地から参詣者が集まりました。
そして、他の浄土真宗の宗派も蓮如上人に合流したのです。

当時の浄土真宗の宗派で最も大きかった仏光寺派の14代法主・経豪は、蓮如上人の法話を聴聞するようになり、絵系図によって救われるという仏光寺派の教義がおかしいと気づきます。
そしてこのままでは、自分にも門徒にも大変な後生の一大事があることを知らされます。
1481年(文明13年)、27歳の経豪が法主に就任すると、仏光寺の48坊のうち42坊を引き連れて、蓮如上人に合流したのでした。

現在、福井県にある浄土真宗の宗派は、以下の4派があります。
山元派証誠寺(鯖江市)
誠照寺派誠照寺(鯖江市)
三門徒派専照寺(福井市)
出雲路派豪摂寺(武生市)
これらは蓮如上人の当時、越前三門徒と言われ、近江や美濃にも勢力を伸ばしていました。
ところがこれらは、善鸞の流れを汲む秘事法門という異安心でした。

蓮如上人が吉崎におられたときから、間違いを正し、本当の親鸞聖人の教えを伝えておられました。
御文章にはこうあります。

越前の国に弘まるところの秘事法門といえることは、更に仏法にてはなし。あさましき外道の法なり。
これを信ずる者は、永く無間地獄に沈むべき業にて徒事なり。(御文章2帖目14通)

こうして吉崎の4年間で、越前三門徒のすでに半分以上は蓮如上人に合流していました。
ところが1482年(文明14年)、これらの秘事法門の中心人物が山科本願寺に参詣し、蓮如上人に帰依したのです。
それは越前三門徒の中心・証誠寺の住職で、出雲路派豪摂寺の法主、善鎮18歳でした。
善鎮の一族も次々蓮如上人に合流します。

1493年(明応2年)蓮如上人が79歳のときには、木辺派錦織寺の法主の孫、勝慧も、40カ寺と共に蓮如上人の元へ合流しました。
こうして浄土真宗の宗派は、髙田派以外のほとんどが蓮如上人の元へ合流したのでした。

83歳・大坂御坊(石山本願寺)建立

蓮如上人が82歳になられた1496年(明応5年)、摂津石山に聞法道場の建立を思い立たれます。
御文にはこうあります。

当国摂州・東成郡・生玉の庄内・大坂という在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや。  去んぬる明応第五の秋下旬の頃より、仮初ながらこの在所を見初めしより、既にかたの如く一宇の坊舎を建立せしめ
(御文章4帖目15通)

三方を川に囲まれる天然の要害で、西には大阪湾、北を流れる淀川は京都へつながる交通の要衝で、後に石山本願寺となります。
織田信長の『信長公記』には、「大坂は、おおよそ、日本一の境地なり」とあり、明け渡しを要求してきたため、石山戦争となります。
その後には豊臣秀吉が大阪城を築いた場所です。

当時小坂と呼ばれていたところを蓮如上人が「大坂」と改名されました。「大阪」の「」が「」ですが、この『御文章』が、大阪が文献に出る一番最初です。
9万8千坪の土地の財施を受けて9月28日に着工し、翌年、蓮如上人83歳の11月に完成しています。

こうして翌年の夏には、体調を崩され、最後の御文を書かれます。
それは蓮如上人の御遺言といわれる御文には、こう記されています。

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり。
まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。
(御文章4帖目15通)

蓮如上人が、最後まで一日中思っておられたことは、すべての人に信心決定(しんじんけつじょう)してもらいたい、ということでした。
信心決定」とは、阿弥陀如来の本願に救いとられ、生きているときに絶対の幸福になることです。
その本当の幸せの身になることが本当の生きる意味だと教えられたのが親鸞聖人だったのです。

こうして、最後まで私たちの幸せを念じられ、 翌年の1499年(明応8年)、85歳の3月25日に、浄土へ還って往かれたのでした。

このような蓮如上人のご苦労がなければ、私たちは浄土真宗の教えを知ることはできなかったかもしれません。
親鸞聖人の明らかにされた絶対の幸福、本当の生きる意味一つを伝えるためにひたすら挺身されたのが、蓮如上人85年間のご生涯だったのです。

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