いつとはなしに救われるの?
いつとはなしに救われるたとえ?
浄土真宗では、阿弥陀仏に対する疑いがいつのまにかなくなり、振り返ってみるとすでに救われていたことに気づくなどといわれます。
本当にそうなのでしょうか?
他力の信心はいつとはなしに体得できるというたとえに
・熟柿安心
・米俵安心
・風邪ひき安心
などがあります。
「熟柿安心」とは、ちょうど柿が太陽の光に照らされているうちに、いつとはなしに熟柿になり甘くなるようにいただけるものだというものです。
「米俵安心」とは、重い米俵を背負っていたのに、ネズミが米俵をかじっていたために、その穴から米がじょろじょろ流れ出て、いつとはなしに軽くなるように、信心もいつとはなしに苦が抜けるのだというものです。
「風邪ひき安心」とは、他力の信心は風邪をひいた時のようにいつとはなしに頂けるというものです。
しかし、もしこれが本当ならば、お釈迦さまも、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人も、大嘘つきになってしまいます。
なぜなら、このような仏教を伝えられた方は、どこにもそんなことは言われていないからです。
仏教の教え
お釈迦さまは、大無量寿経の本願成就文に
あらゆる衆生、その名号を聞いて信心歓喜せんこと乃至一念せん
と、すべての人は一念で阿弥陀仏に救われると教えられています。
親鸞聖人は
たちどころに他力摂生の旨趣を受得した
とおっしゃっています。
覚如上人は
自力の迷情共発金剛心の一念に破れて(改邪鈔)
と言われ、蓮如上人は
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定
と、少しずつ救われるのではなく、一念で阿弥陀仏に救われるのだと教えられているからです。
親鸞聖人は、
「一念」とは、阿弥陀仏の救いが完成する何億分の一秒よりも速い時をいう
とおっしゃっています。
「一念」とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す。(教行信証)
このように、すべての人は、阿弥陀仏に救われたならば、必ず水際だって救われた瞬間があるのです。
なぜ間違うの?
どうしてこんな明らかなのに間違ったことがいわれるのでしょうか?
それは、この間違いを言っている人が、後生の一大事に、一俵の米俵を背負ったほどにも驚いたこともなく、阿弥陀仏に後生の一大事を解決して頂いたこともない。
聞即信の一念の極意を諦得していない人が、阿弥陀仏に救われたつもりになって、すべての人を照らす阿弥陀仏のお力、遍照の光明と混同したのです。
こんな浄土真宗の基礎も知らない人にはくれぐれも注意して正しく浄土真宗の教えを学ばせて頂きましょう。
浄土真宗の本質を学ぶ
浄土真宗の教えの本質、苦しみの根元をメール講座にまとめました。
詳しくは以下のページで確認してください。