領解文・改悔文とは?

浄土真宗の法話の後でよく読まれる「領解文(りょうげもん)」とか「改悔文(がいけもん)」というものがあります。
領解文」も「改悔文」も同じもので、蓮如上人の体験告白文です。
それを西本願寺(浄土真宗本願寺派)では「領解文」と呼び、東本願寺(真宗大谷派)では、「改悔文」と呼んでいます。
一体どんなものなのでしょうか?

領解文・改悔文とは

領解文」と「改悔文」は同じもので、蓮如上人の書かれた絶対の幸福になった体験文です。
改悔」とは信心のことです。
領解」とは体験のことです。
信心獲得して絶対の幸福になった体験を告白されたのが「改悔文」であり「領解文」です。

体験といっても色々あります。
事故にあった体験もあれば、結婚した体験もあります。
それは人それぞれ違う体験です。
ですから領解を体験というのは、本来ふさわしくありません。
なぜなら領解とは、万人共通の体験だからです。

いつの時代、どこの国でも、絶対の幸福になった体験はまったく同じです。
これは蓮如上人の体験文ですが、親鸞聖人も同じ体験があります。
インドの龍樹菩薩も、中国の善導大師も同じです。
私たちも仏教を聞けば、同じ体験ができます。
寸分の狂いもありません。
もし違うところがあれば、それは絶対の幸福になった体験ではないのです。

では、領解文とは、どんな文章なのでしょうか?

領解文・改悔文の全文

領解文の全文はこちらです。

もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」と たのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。
この御ことわり聴聞申しわけ候こと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩と、有難くぞんじ候。
この上は定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもり申すべく候。(領解文)

このように、領解文は、4つの文章からなっています。
これはどんな意味なのでしょうか?

仏教の目的

まず蓮如上人は、私たちが仏教を聞く目的をこのように教えられています。

もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」と たのみ申して候。(領解文)

この「われらが今度の一大事の後生」とは、我が身の後生の一大事のことです。
仏教は後生の一大事を知るところから始まり、後生の一大事の解決で終わると言われるように、後生の一大事が分からなければ、仏教は何十年聞いても分かるものではありません。
後生の一大事の解決が、仏教を聞く目的なのです。

では、後生の一大事とは何かといいますと、後生とは、後に生まれると書きますように、死後のことです。
私たちは、誰もがやがて必ず死ななければなりません。
死は100%確実な未来です。

ところが、後生と聞くと、20年も30年も先のことだと思って油断しています。
ところが、そうではありません。
昔からこのようにいわれています。

後の世と 聞けば遠きに 似たれども
知らずや今日も その日なるらん

後の世」とは後生です。
後生と聞くと遠い先のことのように思いますが、私たちはいつ自分が死ぬか知りませんから、油断しているうちに、今日がその日かもしれないということです。

われらが今度の一大事の後生」といわれる「今度」は、そんな遠い先ではないのです。
仏教では、こう教えられています。

出息入息 不待命終

これは「出る息は、入る息を待たずして命終わる」と読みます。
出る息」とは、吐く息のことです。
入る息」とは、吸う息のことです。
吸った息が吐き出せなければ、その時命終わる。
吐いた息が吸えなければ、その時から後生です。
吸う息吐く息に触れ合っているのが後生です。
吸う息吐く息の裏に、後生が迫っているのです。

では、後生の一大事とはどんなことかと言いますと、蓮如上人はこう教えられています。

後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、
他力の信心を決定すべし。(帖外御文)

後生の一大事とは、未来、ながく地獄に堕ちて苦しむことだから、急いでこの後生の一大事に心をかけなさいと教えられています。
この後生の一大事の解決が、仏教を聞く目的なのです。
その後生の一大事の解決について、阿弥陀如来の本願に救われて、絶対の幸福になりなさい、と教えられています。

では阿弥陀如来の本願とはどんなことで、どうすれば後生の一大事を解決できるのでしょうか?

後生の一大事を解決するには?

どうすれば後生の一大事を解決できるのか、ということについて蓮如上人は領解文に、「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて」と教えられています。
では「もろもろの雑行・雑修・自力の心」とはどんな心かというと、阿弥陀如来の本願を計らう心をいいます。

阿弥陀如来の本願とは、阿弥陀仏のなさっておられるお約束です。
阿弥陀仏は、「すべての人を必ず絶対の幸福に助ける」というお約束をされています。絶対の幸福とは、絶対変わらない幸福のことです。

そう聞くと、
絶対変わらない幸福なんて本当にあるのだろうか」とか、
後生の一大事助かるのだろうか」とか、
すべての人というのは、私は入っているのだろうか」とか、
絶対の幸福とはこんな心だろうか」とか、
ハッキリする人も当然あるだろうが、必ずしもハッキリするものではない」とか、
本に書いてあった通りだから救われたのだろう」など、
色々な計らいの心が出てきます。

このように阿弥陀如来の本願を聞くと、必ず、ああでもない、こうでもないと本願を計らう心が起きてきます。
この一切の阿弥陀如来の本願を計らう心を「もろもろの雑行・雑修・自力の心」といいます。

その一切の計らい心を「ふりすてて」とは、「なくなって」ということです。
阿弥陀如来の本願を真剣に聞いて行くと、一切の阿弥陀如来の本願を計らう心が、一念で切り落とされるのです。
一念とは、何億分の一秒よりも短い時間のことです。
親鸞聖人はこのように教えられています。

「一念」とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す。(教行信証)

信楽開発」とは、信心決定のことで、
後生の一大事を解決して、絶対の幸福になったことです。
時剋」とは時間のこと、極促とは、極めて速いことですから、
一念とは、後生の一大事を解決して絶対の幸福になる、極めて速い時間のことです。

阿弥陀如来の本願を計らう心がすたった一念に、後生の一大事が解決されるのです。
では、後生の一大事が解決されるとどんな心になるのでしょうか。

救われたらどんな心になる?

後生の一大事が解決できた一念に、このように知らされます。

もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候。(領解文)

一心に、阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とは、後生の一大事助ける仏さまは阿弥陀如来の他にはなかったと一心になる、ということです。
御たすけ候え」とは、助けて頂いたということで、解決して頂いたということです。

ここで間違いやすいのは、「たのみ申して候」です。
たのむ」とは、「阿弥陀さま、どうかお願いします」とお願いすることではありません。もしお願いすると、三業惑乱の異安心になってしまいます。

御たすけ候え『と』たのみ申して候」の「」は、並列を表しています。
二度『と』再びいたしません」なら「二度」と「再び」の同じ意味の言葉を繰り返しているように、並列を表す「」です。
ですから、「御たすけ候え」と、「たのみ申して候」は同じ意味です。

この時代の「たのむ」は、お願いするという意味はなく、「たよりにする」とか「あて力にする」、「打ちまかせる」という意味です。
後生の一大事助ける仏様は阿弥陀如来しかなかったと一心に打ちまかせて、助けて頂いた、ということです。
弥陀をたのむとは、阿弥陀仏に救われた、ということなのです。

この「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てた時」と、
一心に、阿弥陀如来になった時」と、 「われらが今度の一大事の後生御たすけ候えとたのみ申した時」は同時です。
一念の体験を、このように言葉を変えて教えられているのです。

では、後生の一大事を解決すると、死んだらどうなるのでしょうか?

死んだらどうなる?

後生の一大事を解決できた人は、死んだらどうなるか、ということについて、次にこう教えられています。

たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ
(領解文)

たのむ」とは、たよりにするとか、あて力にする、打ちまかせるということですから「たのむ一念」とは、救われた一念のことです。
救われた一念に「往生一定(おうじょういちじょう)」になります。

往生」とは、浄土へ往って、仏に生まれることです。
一定(いちじょう)」とは、一つに定まるということで、ハッキリするということです。
往生一定とは、死ねば極楽往き間違いなしの身になる、ということです。
御たすけ治定」の「治定」も「一定」と同じ意味で、ハッキリするということですから、「御たすけ治定」は、救いがハッキリするということです。

後生の一大事の解決は、たのむ一念に、極楽往き間違いないと明らかに知らされた体験なのです。

このたのむ一念が最も重要ですから、蓮如上人はこう教えられています。

たのむ一念の所肝要なり。
(御一代記聞書)

肝要」とは、要の中の要のことです。
要は、幾つかありますが、肝要は一つしかありません。
たのむ一念です。

たのむ一念が、地獄と極楽の分かれ目であり、釈迦の一切経は、この一念を体験させるために説かれているのです。

このたのむ一念からの念仏はガラリと変わります。

救われてからの念仏は?

後生の一大事の解決ができるまでは、何とか後生の一大事救われたいと念仏を称えずにおれなくなります。それが後生の一大事の解決をして、往生一定の身になると、こうなると領解文に教えられています。

たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。
(領解文)

この上の」とは、たのむ一念から後のことです。
往生一定の身になってからです。
称名(しょうみょう)」とは、念仏を称えることですから、「この上の称名」とは、救われてからの念仏です。
御恩報謝」とは、ご恩に感謝して、報いずにおれないということです。
ですから、救われてからの念仏は、お礼の念仏となります。

後生の一大事を解決して、絶対の幸福にして頂いたご恩、身を粉にしても骨を砕きても報わずにおれないという恩徳讃の気持ちが起きます。

救われたのはどなたのおかげ?

この御ことわり聴聞申しわけ候こと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩と、有難くぞんじ候。(領解文)

この御ことわり聴聞申しわけ候こと」とは、このように聞かせて頂けたのは、ということで、後生の一大事を解決して絶対の幸福にして頂けたのは、ということです。

それはどなたのおかげであったのかというと、「御開山聖人御出世の御恩」といわれています。「御開山聖人」とは、親鸞聖人のことです。
どんなに阿弥陀如来の本願があっても、親鸞聖人がお生まれになって、明らかにしてくだされなければ、絶対の幸福になることはできなかった、と親鸞聖人のご恩がハッキリ知らされます。

次の「次第相承の善知識」の「善知識」とは、阿弥陀如来の本願を正しく伝える先生のことです。
親鸞聖人が明らかにされた、阿弥陀如来の救いを、私まで伝えて下された先生がおられたなればこそ、この身に救われることができたと知らされます。
御勧化」とは、お勧めであり、導きです。
親鸞聖人の教えを正しく伝えてくだされた歴代の善知識方の深いお導きあったなればこそと、有り難く感謝せずにおれない、ということです。

信心決定すると、すべてはこの身にさせるためであったと知らされます。 大宇宙が総がかりとなって、ここまで導いてくだされたと知らされますから、一切に感謝せずにおれなくなります。

陰になり日向になり、今日まで導いてくだされた阿弥陀如来、親鸞聖人はじめ、歴代の善知識方、両親や先輩、有情非情の洪恩を心より喜ばずにおれません。
極悪最下の私を無上の幸せ者にして頂いたご恩に「ありがとうございました」と、思い切り感謝の言葉を捧げたくなります。

今後の抱負

次に、救われた後の心がけが述べられています。

この上は定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもり申すべく候。
(領解文)

一期をかぎりまもり申すべく候」とは、一生涯守ります、ということです。
何をかというと、蓮如上人の定められた「」です。
掟とは、生きて行く上での決まりです。
蓮如上人の当時は室町時代で、応仁の乱が起きて、戦国時代に入っていく、治安の悪い時代でしたので、親鸞聖人の教えを燎原の火の如くものすごい勢いで伝えていた浄土真宗の人たちは、迫害を受けて、殺されることもよくありました。
その時の武力衝突を「一向一揆」といわれています。

そこで蓮如上人は、守護・地頭に年貢をしっかり納めなさいとか、関所や渡し船の中では仏教の話をしてはいけませんよ、などの掟を定められました。
迫害されたり、最悪の場合殺されてしまうので、蓮如上人は配慮されたのです。

たのむ一念の体験は、本当の生きる目的であり、いつの時代、どこの国でも変わらない、万人共通の体験ですが、掟はどう生きるかという生き方であり、生きる手段ですから、時代や場所によって変わります。

現代では、すっかり守護や地頭もいなくなり、関所や渡し船もなくなりました。
治安も大分よくなり、仏教の話をして殺されることもありません。
阿弥陀如来の本願を伝える以上の御恩報謝はありませんから、現代でいえばこれは、「この絶対の幸福にしてくだされた親鸞聖人の教えを、全力で伝えさせていただきます」ということです。

ではどうすれば絶対の幸福になれるのかについては、小冊子とメール講座にまとめておきましたので、今すぐ以下からご覧ください。

浄土真宗の本質を学ぶ

浄土真宗の教えの本質、苦しみの根元をメール講座にまとめました。
詳しくは以下のページで確認してください。