観無量寿経と王舎城の悲劇

観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』は、浄土真宗で大切にされる浄土三部経の一つで、王舎城(おうしゃじょう)の悲劇が説かれています。
一体どんな内容なのでしょうか?

観無量寿経とは

観無量寿経』は別名『無量寿仏観経(むりょうじゅぶつかんぎょう)』ともいわれ、一切経の中でも特に大切な浄土三部経の一つです。略して『観経(かんぎょう)』ともいわれます。
古来、真実の機を明らかにされたお経といわれます。
真実の機というのは、本当の自分の姿、ということです。

その『観無量寿経』には、仏教史上最大の悲劇といわれる王舎城の悲劇が説かれています。
そこには、イダイケ(韋提希)という女性が、悲劇のどん底から、阿弥陀如来に救われて、変わらない幸せになるまで、お釈迦さまがどのように導かれたかが詳しく教えられています。

そして親鸞聖人は『正信偈』にこう教えられています。

与韋提等獲三忍(よいだいとうぎゃくさんにん)
正信偈

これは「韋提(いだい)と等しく三忍(さんにん)を獲る」と読みます。
阿弥陀如来に救われると、イダイケと同じ幸せの世界に生かされる、ということです。

では、王舎城の悲劇というのは、一体どんな事件があったのでしょうか?

王舎城の悲劇とは

王舎城の悲劇の王舎城というのは、約2600年前のお釈迦さまの当時、インドで最強を誇っていたマガダ国の首都のお城です。
そこにはビンバシャラ(頻婆沙羅・ビンビサーラ)王と、妃のイダイケ(韋提希・ヴァイデーヒー)夫人(ぶにん)が住んでいました。
夫人」というのは身分の高い人の奥さんのことで、現在でも結婚式場で座席を示す名札に使われることがあります。

2人は栄耀栄華を極め、お金や物には困っていなかったのですが、たった一つの悩みは、子供のないことでした。
2人は、自分たちに子供ができないことを寂しく思い、将来を不安に思っていました。
権力者は特に、自分の集めた沢山の財産を、子供に残したいと思うからです。
だんだん子供の産めない年齢になって行く不安に耐えきれず、とうとう2人は子供ができるかどうか、占い師に見てもらうことにしました。
お釈迦さまは、占いは迷信であるから見てもらってはならないと厳しく教えられているのですが、2人は占いへと近づいて行きます。
それが悲劇の発端でもありました。

占い師を信じた2人

王舎城に呼ばれ、王様夫妻を占った占い師は、
王様、心配なされますな。今、奥山で修行している修行者の命が尽きれば、お世継ぎがお生まれになります
と言います。
何、それは本当か。してそれはいつ頃のことじゃ
5年後のことです
あと5年!?
それを聞いた2人は驚きます。
特にイダイケは、今すぐ子供が宿っても高齢出産なのに、あと5年もしたら、子供が産めない身体になってしまうかもしれません。
何かもっと早まる方法はないの?
イダイケが聞くと、
それはないこともありませんが……修行者の命さえ尽きれば、お子様はお生まれになります
こうして占い師の言葉を信じた2人は、占いに迷って恐ろしい行いを始め、悲劇への道を1歩、また1歩と歩み始めるのです。

ビンバシャラ王の殺生

こうしてビンバシャラ王とイダイケ夫人は、兵隊を引き連れて山奥の修行者のもとへ訪れます。
「これはビンバシャラ王さま、わざわざこんな山奥までお越しになられ、今日は何事でございましょうか」
「修行者よ。今日はいい知らせを持って来たのじゃ
「おおそうでごさいますか、そのいい知らせとはどんなことでしょうか」
「実はのう、そなたは長らく修行に頑張ってきたので、今生の命終われば、次はわしの子に生まれるそうじゃ
それで挨拶もかねてのう、どうせ次は王に生まれるのであれば、もう苦しい修行などしなくても、もう思い残すことはないのではないか?
「いえいえ王様、そんなことはありません。いくら次に王に生まれられるといっても、私は修行を成し遂げるまでは死にたくはございません
何!?せっかくお前のためを思って親切に来てやったのに、何じゃその態度は。わしの言うことが聞けぬ者は、この国に生かしておくわけにはいかん
振り返ったビンバシャラ王は、家来に「やれ」と命じ、修行者を殺させてしまいました。
修行者は最期に
この恨み、必ずはらしてやる
と叫んで死んでいきます。

これは仏教では殺生罪といわれる恐ろしい罪です。
それが因果応報の因果の道理にしたがって、この世の地獄を生みだして行くのです。

このように、自分の欲望のためには、他人を苦しめても何とも思わないのが、人間です。
ほとんどの人は権力がないからやらないだけで、何でも自由になったら何をしでかすか分かりません。
このことから私たちもよくよく自分の心を反省してみなければならないのです。

イダイケ夫人の不安

しばらくすると、イダイケ夫人は子供を身ごもりました。
ビンバシャラ王も周り中の人たちも大喜びです。
ところがイダイケ夫人だけは、修行者の「この恨み必ずはらす」という最期の言葉が耳から離れず、だんだん不安になってきました。
そして再び、占い師に占ってもらいます。

王舎城に呼ばれ、子供を占った占い師は、
確かに元気な男の子でございますが、大層2人を怨んでおります。
やがてご両親を殺される方になるでしょう

と言います。
王様夫妻はせっかくあれほど望んでいた子供ができたのに、そんな親不孝な子供ができたのかとがっかりしました。
そんな子供なら産みたくないとイダイケは思ったのですが、もう臨月に近く、産まざるをえません。
周りの国々からたくさんの贈り物が届きます。

イダイケ夫人は、悩んだ末、一計を案じます。
2階に産室、1階に剣の林を作らせ、そこに産み落として殺してしまおうというのです
ビンバシャラ王は自分の子供を殺すというあまりの残酷さに驚きますが、苦しむ妻を見るとかわいそうに思って言う通りにしました。

いよいよ月満ちて陣痛が起こり、2階の産室から剣の林に子供を産み落とすと、1階で赤ん坊の泣き声がします。
まさか!」とビンバシャラ王が子供を探しに行くと、わずか右手の小指を一本切っただけで、我が子が元気に泣いていたのでした。

子供を一目見た王様夫妻は、初めての自分たちの子供がすっかりかわいくなって、
占いなんて迷信だ、これからの教育によっては何とでもなるさ
とやっぱり育てることにしました。

アジャセの無法ぶり

2人は産まれた子供に「アジャセ(阿闍世・アジャータシャトル)」と名づけました。
これまでの経緯は秘密にして、絶対に口外してはならないという掟を作り、アジャセをこの上なく大切にかわいがって育てたのでした。

ところがアジャセは生まれつき凶暴な性格で、虫や小動物を殺して遊びます。
成長すると、口は悪口に満ちて、少し気に触ると平気で家来を殺します。
王様夫妻は、寄る年波には勝てず、将来のことを考えると、暴虐非道の限りを尽くす我が子を見て不安に駆られ、どこかに安らぎを与えてくださる教えはないかと探し求めました。

ちょうどその頃、マガダ国で仏教を説いておられたお釈迦さまに巡り会います。
仏教の教えを聞いた2人はその尊さに感服し、すっかり帰依して熱心に仏教を広める外護者となったのです。

当時最強だったマガダ国の王様夫妻が帰依したことで、お釈迦さまの教団は、ぐんぐん大きくなって行きます。
それをねたんだのが、お釈迦さまの従兄弟にあたるダイバダッタ(提婆達多)という男でした。
ダイバダッタはもしお釈迦さまが現れなければインドで一番のすぐれた人で、弟子もたくさんいたのですが、お釈迦さまが仏のさとりを開かれてからは、足下にも及ばなくなってしまいます。
仕方なくお釈迦さまの弟子になっていましたが、生まれつき頭がよい反面、嫉妬深く、何とかお釈迦さまを亡き者にして教団のトップの座につこうとします。

1回目は、山の上からお釈迦さまを狙って石を転がします。
ところが、石はお釈迦さまの足の小指を傷つけただけでした。
ところがダイバダッタはこれによって、「仏身より血を出す」という五逆罪を造ります。
2回目は、酒を飲ませた巨象をお釈迦さまにけしかけます。
ところがお釈迦さまの尊いお姿に接した象たちは、子猫のようになついてしまい、2回目も失敗に終わります。

そこでダイバダッタは「将を射んと欲すればまず馬を射よ」と、お釈迦さまの後ろ盾となっているビンバシャラ王夫妻を亡き者にすることにしました。

ダイバダッタのたくらみ

ダイバダッタは「都合のいい奴がいた」とアジャセに目をつけ、取り入ります。
持ち前の頭の良さで十分に信頼された頃を見計らって、
ところで太子さま、右手の小指がないようですが、どうなされたのですか?
と切り出します。
これか、これは生まれつきでな。
生まれつき指が少ないということがどうして起きるのか、お前、何か知らないか?

いえいえ太子さま、それは生まれつきなどではありませんぞ
何、どういうことだ?
この秘密をもらしたら、私の命が危ない。とても申し上げられません
秘密をもらしたら命が危ない?どういうことだ。お前の命は私が保証する。ありのままに申してみよ
今のお言葉に二言はありませんな……
こうしてダイバダッタは、ビンバシャラ王とイダイケ夫人は、過去世に修行者の時に殺し、生まれた時にも殺そうとしたかたきであると、あることないこと針小棒大に吹き込んだのでした。
それを聞いて激怒したアジャセは、すぐに家来に命じてビンバシャラ王を牢屋に閉じ込めます。
この時にはもう権力はビンバシャラ王からアジャセ太子に移行していたのでした。
そして、ビンバシャラ王には食べ物も飲み物も与えるなと門番に命じます。

ビンバシャラ王最後の日々

牢屋に閉じ込められたビンバシャラ王は、これまでお釈迦さまから諸行無常と聞いてはいましたが、昨日までインド最強の国王だったのが、我が子のために獄中の罪人になってしまい、その無常の激しさに苦しみました。
なぜわしがこんな目にあわなければならんのだ
そのあまりの苦しさに、お釈迦さまのおられる霊鷲山の方角に手を合わせて救いを求めます。
そのビンバシャラ王の気持ちがビンビン伝わってきたため、お釈迦さまは、お弟子の目連とフルナに、話をしてきなさいと命じます。

2人は神通力第一の目連の力で牢屋の中に巧みに入って行き、説法第一のフルナの弁舌で、ビンバシャラ王に仏教の根幹である因果の道理を説き聞かせます。

因果の道理とは、まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生える、という自業自得の道理です。
ビンバシャラ王は、自分を苦しめているのは、親不孝なアジャセのためだと怨んでいたのですが、反省してみれば、アジャセに対して自分がどんなたねまきをしたか思い出されてきます。
自分が悪かったと思えると、ビンバシャラ王は心が安らいできたのでした。

そして、イダイケ夫人も、身体に食べ物や飲み物を隠して面会に来ましたので、ビンバシャラ王は、細々と命を長らえていたのです。

アジャセの親殺し

やがて3週間が過ぎ、アジャセ王は、
そろそろあいつも餓死しただろう
と牢獄へ様子を見に行きます。
するとまだ生きているので、驚いて門番に理由を問い詰めると、
恐れた門番はありのままに言ってしまいます。

それを聞いてアジャセの怒りが爆発した時、ちょうどイダイケ夫人が入って来た所でした。
それを見たアジャセは、
私の敵に味方する奴は、母といえども私の敵だ
と刀に手をかけて殺そうとします。

その時、側近の月光という大臣と、医師のギバ(耆婆)が、アジャセ王にとりすがり、
「お待ち下さい、大王さま。
これまで父王を殺して王位についた者は聞いたことがありますが、母親まで殺した者は、聞いたことがありません。
そんな大罪を造られますと長く王族の名誉を傷つけるでしょう

と命がけで止めに入ります。
さすがのアジャセ王もその剣幕にたじろぎ、声を震わせながら
そうか、それなら殺すのは許すが、こいつも牢屋にぶち込んでおけ
とイダイケ夫人も別の牢屋に閉じ込めます。

こうしてビンバシャラ王は、食べ物も飲み物も断たれ、やがて牢屋の中で餓死していったのでした。

お釈迦さまが仏教を説かれた目的

一方、イダイケ夫人は、牢屋の奥深くに幽閉され、大事に育てた子供に裏切られた怒りと、自分たちの悪口を言って我が子をそそのかしたダイバダッタへの恨み、夫に早く食べ物をあげなければ死んでしまうという焦りで、気も狂わんばかりに苦しみ悶えていました。

そして、「お釈迦さま、助けて。
あれほどたくさんのお布施をして、仏教を広めるお手伝いをしたじゃない。
お釈迦さまは仏のさとりを開かれたんだから、私がこんなひどい目にあっているの、神通力で分かってるんでしょ。
どうしていまだに来てくださらないの?早く助けに来てー
」と泣きわめきます。

ちょうどその時、お釈迦さまは霊鷲山で、
皆の者、よく聞くがよい、この度は特に大事な話をしよう
と非常に多くの人に対して『法華経』の説法をされている所でした。

その『法華経』の説法の真っ最中に、イダイケ夫人の悲痛な心の叫びがお釈迦さまに届いたのです。
お釈迦さまは非常に重要な話の最中でしたので、二者択一を迫られたのですが、私がこの世へ生まれてきたのは何のためなのかという出世の本懐が常に念頭にありましたので、『法華経』を中断されたのでした。
ですから、『法華経』は釈迦出世の本懐ではなかったのです。
イダイケ夫人に教えることこそが、出世の本懐ということです。

これは、仏様の慈悲からしても当然のことです。
仏の慈悲というのは、今川べりで遊んでいる子供よりも、川に落ちて溺れかかっている子供、深みにはまって死にかかっている子供を早く助けてやろうというのが仏の慈悲です。

こうしてお釈迦さまは、『法華経』を途中でやめられ、イダイケ夫人のもとへ行かれたのでした。
では、お釈迦さまは、イダイケ夫人をどのように阿弥陀如来の本願の救いに導かれるか、というご方便が、『観無量寿経』の説法です。
これは私たちに対するお釈迦さまの導きでもあります。

無言の説法

お釈迦さまがイダイケ夫人の牢屋の前に現れられると、喜んだイダイケ夫人は、今どんなに苦しんでいるかを訴え始めました。
「お釈迦さまは、私はなんと業な者でしょう。
あんなにかわいがって育てた子供に裏切られて、この世に私ほど不幸な者はありません
でも、あの子は本当は心の優しい子なのに、どうしてこんなひどいことをするのかというと、ダイバダッタがそそのかしたからよ。
うちの子は素直だから、あいつに騙されたんだわ。
どうしてダイバダッタがそそのかしたんでしょう。
それはお釈迦さま、ダイバダッタが、親戚のあなたをねたんだからでしょう?
私が今こんなに苦しまなければならないのは、お釈迦さまがおられたからじゃないの?
お釈迦さま、一体何ということをしてくれるの

もとはといえば自業自得なのに、自分のまいたたねを忘れて、助けにきてくだされたお釈迦さまを怨む愚痴いっぱいのこの姿が、私たちの心の姿なのです。

ところがお釈迦さまは一言も発せられず、このようなイダイケ夫人の悪口を、半眼のまなこでじっと聞いておられるだけでした。
お釈迦さまは、迷っている者に対しては、時として、話すよりも無言のほうがいいことがあることをよくご存じだったのです。
これが有名な「無言の説法」です。

すると、何一つ受け取ってもらえないので、壁に投げたボールが跳ね返ってくるように、イダイケ夫人は、ますます苦しくなっていきます。
ちょっとお釈迦さま。聞いてるの?何かおっしゃって
のたうち回っていたイダイケは、ついに五体投地して
もうこんな苦しい世の中いやー。
みんな意地悪。悪口を言う。ずるい人ばっかり。こんなの地獄よ。
もうあんな悪い人たちにかかわりたくない。
お釈迦さま、どうしたら苦しみのない世界へいけるの?

と訴えます。

その時お釈迦さまは、眉間から光明を放たれ、光の中に照らし出された大宇宙の数限りもない諸仏の浄土を見せられます。

イダイケ夫人は、
「わあー、お釈迦さま。いずれも結構なお浄土ばかりではございますが、私はあの一番立派な阿弥陀如来の極楽浄土へ生まれとうございます。
どうすれば往けるのか教えてくださいませ

怒り愚痴煩悩の塊で、心にしか想えないイダイケですので、どんなに幸せになりたいと願ったところで、因果応報の因果の道理からすれば、悪因悪果、苦しい運命しか来ないはずです。
ところがお釈迦さまはにっこりと微笑され、
イダイケよ、阿弥陀如来はここを去ること遠からぬところにまします。
一心に阿弥陀仏とその浄土を思い浮かべるがよい

といわれたのです。
ここにお釈迦さまは『観無量寿経』の教えを説き始められます。

観無量寿経の教え

これまでは、教えが説かれる縁となった物語の部分だったのですが、ここからが『観無量寿経』の教えです。
観無量寿経』の教えは、定散十六観(じょうさんじゅうろっかん)です。
定散」とは、「定善(じょうぜん)」と「散善(さんぜん)」のことです。

定善」とは、阿弥陀如来と、その浄土を一心に思うというです。それに13通りあるから定善十三観(じょうぜんじゅうさんかん)といいます。
散善」とは、心が散り乱れたまま悪をやめて善を修める形の上での善です。
3通りあるから散善三観(さんぜんさんかん)といいます。

この『観無量寿経』の教えを親鸞聖人は、このように「要門」と言われています。

釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらえて
(高僧和讃)

要門の要は、重要とか必要の要です。
扇子の要なら、要が抜けたらばらばらになってしまいます。
交通の要衝といえば、そこを通らないと、目的地へつけません。
そういう教えが要門です。

こうして、お釈迦さまが定散二善を教えられたので、それまでなかった「定散諸機」が現れてきたのです。
定散諸機」とは、定善の機と散善の機のことです。
定善の機」とは定善の人、「散善の機」とは散善の人です。
お釈迦さまが定散二善を教えられて、定善をやろうとか散善をやろうという気持ちになる色々な人が現れてきたので、定散諸機をこしらえて、といわれているのです。

観無量寿経』の教えを善導大師がまとめられたのが、五正行です。
この五正行を実践するのが、浄土真宗の勤行です。
ですから阿弥陀仏の救いを求める人は、浄土真宗の朝晩の勤行を欠かしてはならないのです。

ではなぜお釈迦さまは、イダイケ夫人や私たちのような、出家して戒律を守り、修行をしたこともない者に、善を勧められたのでしょうか。

お釈迦さまが善を勧められた理由

イダイケがお釈迦さまに
どうか阿弥陀如来の浄土へ往く方法を教えてください
と言っているのは、自惚れて自分の姿が見えていないので、教えられさえすれば、何でもできると思っているからです。
その自惚れ心を見抜いておられたお釈迦さまは、
そなたに浄土へ往けるたねまきなどできるはずなかろう
とはおっしゃらず、
それならやってみなさい
と実地にやらせたのが定散十六観です。
イダイケが実際にやってみると、何一つできない自分の姿が知らされて来ます。

なぜお釈迦さまは、何一つできないことを見抜かれながら、善を勧められたのでしょうか。
それは、何でもできると自惚れている者に、何もできない者でしたと知らせるには、実際にやらせてみるより道がないからです。

私たちは、本当の自分の姿が見えていないので、
本気になれば少しくらい善ができる
と思っています。
口では「私にはとても無理です
と言っていても、心の中は全然そう思っていないのです。
その気になれば何でもできる
という自惚れ心を打ち砕かれるには、通らなければならない道があるのです。

イダイケ夫人の獲信

イダイケ夫人は、お釈迦さまの教えの通り、定善を1つ1つ実践して行きました。
ところがどれ一つできっこありません。
心は散り乱れ、大宇宙をかけめぐっていますから、定善などできるはずがないのです。
イダイケは、お釈迦さまの教えられた通りに実践して行くとやがてどうにもならない自分の姿が知らされて来ます。
微塵の善もできない、永遠に助かる縁手がかりのない我が身の悪業の怖しさが照らし出され、後生の一大事が知らされて、居ても立ってもおれない苦悶に落ちて行きました。
阿弥陀如来の本願を説く時節到来を感知されたお釈迦さまは、定善十三観のうち7番目の華座観(けざかん)を説かれる直前に、
イダイケよ、明らかに聞くがよい。今よりその苦悩を除く法を説こう
といわれると同時にお釈迦さまは姿を消され、空中に金色燦然と輝く阿弥陀如来が現れたのです。
その仏身を観じた瞬間、イダイケの苦悩の根元が断ち切られ、歓喜胸にみち、心が明るく晴れ渡り、絶対に崩れない絶対の幸福に救われたのでした。

このように、王舎城の悲劇と、お釈迦さまが、イダイケを阿弥陀如来の救いまでどのように導かれたかが説かれているのが『観無量寿経』です。

では、どうすれば阿弥陀如来の本願に救われて、絶対の幸福になれるのかというと、苦悩の根元を知り、断ち切られなければなりません。
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