阿弥陀如来とは

阿弥陀如来」は、お釈迦さまと同様、非常に有名な仏様です。
欧米でも有名で、スターウォーズの主要キャラクター、アミダラ姫は、阿弥陀如来から命名されています。
阿弥陀如来とはどんな仏様なのでしょうか?
わかりやすく解説します。

阿弥陀如来とは

阿弥陀如来は、阿弥陀仏ともいわれ、お釈迦さまの説かれたお経の至るところに説かれています。
法華経』や『般若経』をはじめ、一番最初に説かれた『華厳経』にも、最後に説かれた『涅槃経』にも説かれています。
天台宗の荊溪湛然(けいけいたんねん)は、『摩訶止観(まかしかん)』の注釈書にこう書いています。

「諸教に讃ずる所、多く弥陀にあり」
(『止観輔行傳弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)』)

色々のお経にほめたたえられている多くは、阿弥陀如来のことである、ということです。

こうして、日本全国の半数以上の寺院は本尊を阿弥陀如来とし、浄土真宗や浄土宗以外でも、阿弥陀如来を念じない宗派はないほど、仏教で最も尊ばれる仏様です。

ではなぜお釈迦さまは、阿弥陀如来についてそんなにたくさん説かれたのでしょうか?

私たちが幸せになれない本当の理由

人間は、どんなに科学が進歩しても、経済が繁栄しても、心から幸せになれずにいます。
私たちは、毎日毎日色々なことに努力していますが、心からの安心も満足もなく、
何のために生きているのか、目先のことに心を奪われ、
不安な毎日を過ごしています。

なぜ私たちが本当の生きる意味が分からず、
不安な毎日を送っているのかというと、
原因は、死の問題にあると仏教で教えられています。
これを「後生の一大事」といいます。

後生」とは、後に生まれると書くように、死んだらどうなるかということです。
死はどんな人にとっても、最も考えたくない問題です。
死ぬほど苦しい」という言葉がありますが、死ぬのが一番苦しいことだから、
死ぬ以外でも、非常に苦しいことを死ぬほど苦しいといわれるのです。
人生に、死ぬ以上の大問題はありませんから、人生最大の問題です。

その最も避けたい、人生最大の問題は、誰も避けることはできません。
死は100%確実な未来です。
その確実な死の先には何が待っているのでしょうか? どうなるか分からないまま、死に向かって生きて行くのは、
真っ暗な中で走っているようなものです。
この後生の一大事を抱えているから、
どんなに科学が進歩しても、どれだけ好きな事をやっても、
心からの安心も満足もないのです。

この後生の一大事を解決して、
本当の幸せになることを教えられたのが仏教です。

仏教の目的

このように、後生の一大事の解決を教えられたのが仏教ですので、
目的はどんな仏教の宗派でも変わりません。
仏教では後生の一大事の解決のために、
瞑想や座禅をするなどの様々な修行が説かれています。

ところが、実際に心を一つにして瞑想しようとしてみると、
心は散り乱れることが知らされるばかりで、
とても後生の一大事の解決どころではありません。

しかし、仏教を聞けば聞くほど
後生の一大事の重さが知らされて来ます。

そこで、色々な仏や菩薩の力添えを得て、解決しようとするのです。
では、後生の一大事は、仏や菩薩の力添えがあれば、解決できるのでしょうか?

諸仏や菩薩の力

後生の一大事の解決は、仏や菩薩の力でもできません。
そのことをお釈迦さまは、『悲華経』にこう説かれています。

煩悩多き衆生は賢劫の一千四仏が放捨する所
(悲華経)

衆生」とは私たちのことです。
賢劫」とは、現在を含む長い期間です。
その間に現れる、一千四の仏に捨てられたのが私たちだということです。

また、『不空羂索神変真言経』にはこう説かれています。

常に十方三世の一劫の如来、一切の菩薩摩訶薩の棄捨する所
(不空羂索神変真言経)

十方三世」とはいつの時代、どこの国でも、ということです。
如来」とは仏のこと、「菩薩摩訶薩」とは菩薩のことです。
いつの時代どこの国でも、常に、一切の仏や菩薩に見捨てられているのが私たちだということです。

蓮如上人はこのことを『御文章』に分かりやすくこう教えられています。

十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしく皆十方・三世の諸仏の悲願にもれて、捨て果てられたる我らごときの凡夫なり。
(御文章2帖目8通)

諸仏にも慈悲がありますから、何とか助けたいと願いを起こされたのが「諸仏の悲願」です。
諸仏も一度は助けようとされたのですが、私たちの罪があまりに重すぎて、とても助けることはできないと、さじを投げて見捨ててしまったということです。

菩薩とは、仏のさとりを開こうと努力している人のことですから、仏に助けられなければ、菩薩に助けられるはずがありません。
仏にも、菩薩にも、もちろん私たち自身にも、後生の一大事を解決する力はないのです。
では後生の一大事の解決はどうすればいいのでしょうか?

後生の一大事の解決の唯一の道

このように、すべての仏に見捨てられ、
永遠に苦しみ続けなければならない私たちがとても見ておれず、
そんな極悪人ならなおさら捨ててはおけない」といういたたまれないお気持ちから、
何とか救わねばならない」と立ち上がって下されたのが阿弥陀如来なのです。

このことを善導大師は、『観無量寿経疏』に
大悲、驚いて火宅の門に入り
と教えられています。

他人に嫌われるような子供は尚可愛いい親心のように、
仏の慈悲は、苦しんでいる人に重くかかります。
この大慈悲を『観無量寿経疏』には、
水に溺れたる人の急にひとえに救うべきがごとし、
岸上の者をば何ぞ救うことをもってせん

岸の上でたわけれている子供よりも、
今溺れて苦しんでいる人を救わなければならないようなものだ、
と教えられています。

このことを蓮如上人は、先ほどの『御文章』の続きにこう教えられています。

しかればここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今のごときの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、
「われひとり助けん」
という超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、無上の誓願を発して、すでに阿弥陀仏となりましましけり。
この如来を一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽往生する道、二つも三つも、あるべからざるものなり。(御文章2帖目8通)

すべての仏に見捨てられた私たちを、阿弥陀如来だけが、「私が助けよう」と立ち上がられたのです。
だから、阿弥陀如来に助けて頂く以外に、後生の一大事の解決の道はない、ということです。

では、阿弥陀如来と釈迦如来は、どんな関係にあるのでしょうか?

阿弥陀如来と釈迦如来の関係

蓮如上人が『御文章』2帖目8通に、
弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば」(御文章2帖目8通)
と言われているように、阿弥陀如来は、大宇宙のすべての仏の本師であり、本仏です。

本師」とは弟子に対して、先生の仏ということです。
本仏」とは分身に対して、根本の仏ということです。

すべての仏の先生

お釈迦さまは、阿弥陀如来が先生であることを、こう説かれています。

三世諸仏
念弥陀三昧
成等正覚(般舟経)

これは、「三世諸仏、弥陀三昧を念じて、等正覚を成る」と読みます。
弥陀三昧を念じて」とは、分かりやすくいえば、阿弥陀仏のお力によって、ということです。
(ちなみに「念弥陀三昧」について『般舟経』には、「阿弥陀仏こたえてのたまはく、来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。
休息することあることなくは、すなはち来生することを得ん。
(中略)念仏をも用いるが故にこの三昧を得ん」と教えられています)
等正覚」とは仏のさとりのことですから、「等正覚を成る」とは、仏になったということです。

すべての仏は、阿弥陀如来のお力によって、仏になったと説かれていますから、阿弥陀如来は、すべての仏の先生なのです。

阿弥陀如来が諸仏の先生であることを、
蓮如上人は『御文章』2帖目9通にはこう教えられています。

「阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師師匠なれば」


阿弥陀如来は、すべての仏の師匠ということは、先生ということです。
釈迦如来も、仏さまの一人ですから、釈迦如来の先生が阿弥陀如来です。

阿弥陀如来と釈迦如来の関係は、師弟関係にあります。

また、お釈迦さまは、『大阿弥陀経』にこうも教えられています。

諸仏の中の王なり。(大阿弥陀経)

阿弥陀如来は十方諸仏の王ということは、釈迦如来も十方諸仏の一仏ですから、阿弥陀如来と釈迦如来の関係は、阿弥陀如来が王で、釈迦如来が家来ということになります。

すべての仏の本仏

阿弥陀如来は本師本仏ですから、諸仏を統括される最高最尊の仏の師匠であると同時に、一切の仏の本仏です。
阿弥陀如来の分身がすべての仏ですから、阿弥陀如来から現れたのが、その他すべての仏なのです。

そのことについてお釈迦さまは『楞伽経(りょうがきょう)』に、こう説かれています。

十方の諸の刹土における衆生と菩薩の中のあらゆる法報身と化身と及び変化とは、みな無量寿の極楽界中より出ず。
(楞伽経)

十方の諸の刹土における」とは、大宇宙の、ということです。
法報身と化身と及び変化」とは、仏や仏の化身のことです。
無量寿の極楽界」とは、阿弥陀如来の極楽浄土のことですから、
すべての仏や菩薩は、阿弥陀如来の浄土より現れ出られたということです。

このように、すべての仏は阿弥陀如来の極楽浄土から現れたので、諸仏に具えていられる功徳の一切は、阿弥陀如来におさまっています。
阿弥陀仏一仏に帰すれば、その他のあらゆる仏や菩薩に帰する功徳の一切が具足されますから、
阿弥陀仏以外には向かないのです。
これを蓮如上人は『御文章』にこう教えられています。

十方諸仏の為には本師・本仏なるが故に、阿弥陀一仏に帰したてまつれば、すなわち諸仏・菩薩に帰する謂あるが故に、阿弥陀一体の中に、諸仏・菩薩は皆ことごとくこもれるなり。(御文章2帖目3通)

もちろん釈迦如来も、すべての仏に含まれますから、釈迦如来も阿弥陀如来の極楽浄土から現れたのです。
このことを、親鸞聖人は、こう教えられています。

久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する(浄土和讃)

久遠実成(くおんじつじょう)」とは、非常に遠い昔に仏になられたということで、
大宇宙の仏の本師本仏ということです。
五濁の凡愚」とは、諸行無常の世界で、本当の生きる意味を知らずに一生涯苦しんで終わって行く全人類です。
迦耶城(がやじょう)」とはカピラ城のことで、お釈迦さまの生まれられた城です。
応現(おうげん)」とは、私たちに応じて人間の姿で現れることです。
お釈迦さまは王様の子として生まれられたのですが、
それは、阿弥陀如来のましますことを地球上の私たちに教える為だったんだ、
ということです。

では、阿弥陀如来はどんな仏だと説かれているのでしょうか?

阿弥陀如来の御徳

阿弥陀如来の御徳は無限にありますが、中でも特記されるのは「光明無量」と「寿命無量」の2つです。
光明無量」をインドの言葉で「アミターバ(阿弥陀婆)」といい、
寿命無量」を「アミターユス(阿弥陀庾斯)」といいます。

光明無量とは空間的無辺のことで、寿命無量とは時間的無限です。
十方普遍と三世常住の真如に名づけられたのです。

1.光明無量

お釈迦さまは、光明無量について『大無量寿経』にこう教えられています。

無量寿仏の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり。
(大無量寿経)

無量寿仏」とは阿弥陀如来のことです。
威神光明」とは、凄い光明ということです。
光明」とは仏さまのお力のことですので、素晴らしいお力ということです。
最尊第一」とは最も尊いということです。
及ぶこと能わざる所なり」とは、遠く足元にも及ばないということです。

阿弥陀如来のすごいお力は、諸仏とはケタ違いなのです。

お釈迦さまは、続けて阿弥陀如来の12の光明をあげてほめたたえ、阿弥陀如来のお力の素晴らしいことはとても説き尽くすことができないと説かれています。

また、『大阿弥陀経』には、こう教えられています。

光明の中の極尊なり、光明の中の最明無極なり。
(大阿弥陀経)

阿弥陀如来のお力は、十方諸仏の中で最も強く尊く、無限である、ということです。

親鸞聖人はこれらを『教行信証』に引用して真実の阿弥陀如来を讃え、『正信偈』にも讃えられています。
この限りない光明の働きがあるからこそ、私たちの心の闇をぶち破り、絶対の幸福にしてくだされることができるのです。

2.寿命無量

次に、「寿命無量」とは、量りなき寿命ということです。
阿弥陀如来の光明がどんなに強力であっても、線香花火のようにはかなく消え失せるようなものでは、変わらない幸せにはなれません。
それが無量寿に続くからこそ、変わらない幸せになれるのです。
阿弥陀如来に限りない命があるからこそ、私たちの後生の一大事を解決して、限りない命を与えてくださることができるのです。

このように、未来永遠、私たちの心の闇を晴らす働きのある阿弥陀如来を光明であると親鸞聖人は教えられています。

しかれば阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧の形なりと知るべし。
(唯信鈔文意)

ところがこう聞くと間違いやすいことがあります。

阿弥陀如来についてよくある2つの間違い

阿弥陀如来について現代人の多くが間違いやすいのは、
阿弥陀如来を単なる大宇宙の真理だと思ってしまうことです。

それというのも、現代人は、頭で考えるだけの観念的な考え方に親しみやすいからです。
阿弥陀如来を単なる大宇宙の真理は観念的な考え方で、ひどくなると、自分の心が阿弥陀如来と理解する人まであります。
それというのも、天台宗や真言宗華厳宗禅宗などの自力の仏教では、万物の本性は自分の心以外にないと考えています。
これを「自性唯心(じしょうゆいしん)」といいます。
これが阿弥陀如来や浄土に向かうと、 私たちの心以外に阿弥陀如来も浄土もなく、私たちの心が阿弥陀如来であり浄土であるという考え方になります。
これが「唯心の弥陀」・「己心の浄土」と呼ばれる考え方です。
この考え方は自分の力に大きな自信を持ち、自分が確認できないと信じない人にはとても分かりやすいのです。
そして、自分の煩悩の奥底にあると考えている仏の性質を磨き出すために修行するのです。

この自性唯心の考え方を、親鸞聖人は『教行信証』信巻別序に徹底的に排斥されています。

末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し
(教行信証)

末代の道俗」とは、「」とは僧侶で、「」とは在家の人です。
世の中には道か俗しかいませんから、この中に入らない人ははありません。
末代の道俗」とは、現在の僧侶も在家の人もということで、日本中の人たちのことです。

近世の宗師」とは、当時の仏教の宗派を開いた人です。
一宗一派を開いた人たちは全員、自性唯心に沈んでいる。
貶し」とは、おとしめ、けなしている、ということで、
真実の仏教が分からず、けなしていると徹底的に排斥されています。

このように、阿弥陀如来や浄土を自分の心と考える、「自性唯心」は、間違いなのです。

そこまで行かなくても、現代人の多くは、阿弥陀如来を大宇宙の真理だと思い、その真理を自覚し体得すればよいとか、自分で気づけばよいと思っている人もあります。
それも間違いです。

親鸞聖人は阿弥陀如来をどのように明らかにされたのでしょうか?

親鸞聖人の明かされた阿弥陀如来

親鸞聖人は、阿弥陀如来について『唯信鈔文意』にこう教えられています。

しかれば仏について二種の法身まします。
一には法性法身と申す。
二には方便法身と申す。
「法性法身」と申すは色もなし形もましまさず然れば心もおよばず語もたえたり。
この一如より形をあらはして「方便法身」と申す。
その御相に「法蔵比丘」となのりたまひて不可思議の四十八願を発しあらはし給ふなり。
(唯信鈔文意)

法性法身」とは、色も形もなく、心も及ばず言葉も離れた真理としての仏です。
心が及ばないということは、私たちには分かりません。
ところが、私たちに分からず、縁がなければ、私たちを救うことはできません。
そこで、その真如から形を現されたのが、方便法身です。
方便法身」とは、私たちに分かる姿を示された仏様です。

このように親鸞聖人は、真如の徳から法蔵菩薩という姿になって本願をおこし、大行を修して阿弥陀如来という方便法身なる仏となられたと教えられています。

同じように『一念多念証文』にはこう教えられています。

一如宝海より形をあらはして法蔵菩薩となのりたまひて無碍の誓をおこし給ふをたねとして、
阿弥陀仏となりたまふが故に「報身如来」と申すなり。
これを「盡十方無碍光仏」と名づけたてまつれるなり。
この如来を「南無不可思議光仏」とも申すなり。
この如来を「方便法身」とは申すなり。
「方便」と申すは、形をあらはし御名を示して衆生に知らしめたまふを申すなり。
すなわち阿弥陀仏なり。
(一念多念証文)

一如宝海」とは真如のことです。
報身如来」とは、方便法身のことです。

真如そのものに私たちを本当の幸せにする働きがあっても、
その働きが事実となって具体的に実現するには
人格的方便法身の尊形となってはじめて可能なのです。

それは、病をいやす道理が大宇宙にあまねく存在していても、
それを人格的に体現した医師があって、その医師が薬を調合しなくては
病人は救われないのと同じようなものです。
宇宙には八万四千の煩悩の病をいやす道理はあったのですが、
それが阿弥陀如来によって体現せられ五劫の思惟と永劫の修行によって、
私たちの後生の一大事を解決する働きのある、
南無阿弥陀仏の六字の妙薬が作られたのです。

阿弥陀如来は大慈悲の方ですので、
苦しんでいる人を見ると、自分が苦しくなられます。
これを「衆生苦悩我苦悩(しゅじょうくのうがくのう)」といいます。
衆生の苦しみ悩みは、我が苦しみ悩み、ということです。

肉体の病気でも、
苦しみを治して欲しければ病院に来なさい、治してあげます
という宅診の医師がほとんどです。
その場合、自分で病院まで行ける人はいいですが、病が重く、
病院まで行く力がない人はどうすればいいのでしょうか。
ではこちらから往って診てあげましょう
という往診の医師が必要になります。

それが『観無量寿経』では、苦しみ悩むイダイケ夫人の所へ、
阿弥陀如来のほうから立ち上がって行かれた「立撮即行(りっさつそくぎょう)」のお姿になったのです。
阿弥陀如来は、冷たい真理ではありません。
立撮即行のお姿は、苦しむ者を救うというせつない親心であり、能動的な働きなのです。
こうして光明無量の智慧が、右手をあげて「そのまま来いよ」の招喚(しょうかん)の姿となり、
寿命無量の慈悲が、左手を下げて「墮としはせぬぞ」の摂取(せっしゅ)の姿となったのです。

では、阿弥陀如来に救われるとどんなご利益があのでしょうか?

阿弥陀如来のご利益

阿弥陀如来は、「すべての人を必ず絶対の幸福に救う」というお約束をしておられます。
これを阿弥陀如来の本願といいます。

この本願によって阿弥陀如来は、生きているときに、後生の一大事を解決して、絶対の幸福にして下されます。
絶対の幸福になれば、親鸞聖人が「この世の利益きわもなし」と言われているように、限りない幸せの身になれます。
この現世利益を「現益(げんやく)」といいます。
現世の利益ということです。

さらに、この世で後生の一大事の解決ができた人は、死ねば阿弥陀如来の浄土へ往って、阿弥陀如来と同じ仏に生まれます。
この死後の利益を「当益(とうやく)」といいます。
当来の利益ということです。

このように、阿弥陀如来は、この世も救い、死後も救う、二度救いたまう仏であることを「現当二益(げんとうにやく)」といいます。
現当二益を蓮如上人は、このように分かりやすく教えられています。

一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。
されば二益なりと思うべきものなり。
(御文章)

一念発起(いちねんぽっき)」とは、後生の一大事が解決できた瞬間のことです。
その瞬間、「正定聚(しょうじょうじゅ)」になります。
正定聚」とは、絶対の幸福のことです。
穢土の益」とは、この世の幸せということです。

次に「滅度(めつど)」とは、仏のさとりのことです。
仏のさとりは浄土で頂く幸せだ、ということは死んでから頂ける利益です。

このように阿弥陀如来のご利益は、この世は絶対の幸福に救われ、死後は仏のさとりを頂ける、現当二益なのです。

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