南無阿弥陀仏の意味

お寺へ行くと、仏像に向かって南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と称(とな)えたり、葬式法事で南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えている人があります。
南無阿弥陀仏にはどんな意味があるのでしょうか?浄土真宗に明らかにされた南無阿弥陀仏の深い意味を分かりやすく簡単に説明します。

南無阿弥陀仏は最高の宝

南無阿弥陀仏は「名号(みょうごう)」ともいいます。
名号というのは、名前のことですが、阿弥陀如来の名号といえば南無阿弥陀仏です。
親鸞聖人は、『唯信鈔文意』に名号のことを「尊号」といわれ、こう教えられています。

尊号というは南無阿弥陀仏なり(唯信鈔文意)

では南無阿弥陀仏とは何かというと、親鸞聖人は和讃に「無上宝珠の名号」といわれています。
無上宝珠(むじょうほうじゅ)」とは、この上ない宝ということですから、南無阿弥陀仏は最高の宝です。
正信偈』には「功徳の大宝海」といわれています。
大きな宝の海にたとえられています。
ですから、100万円や200万円で買えるものではありません。
1億円や2億円で買えるものでもありません。
大きな宝の海ですから、世界中のお金を集めても買えません。
大宇宙に、南無阿弥陀仏以上の宝はないのです。
では宝とはどんなものでしょうか?

宝とは

」というのは、私たちを幸せにするものです。
人それぞれ、色々な宝物がありますが、みんなどんなものを宝物にしているでしょうか。

ある人は、恋人の写真を宝物にしているそうです。
恋人が自分を幸せにしてくれるからです。
ダイヤの婚約指輪を宝物にしている人もあります。
それが自分を幸せにしてくれると信じています。
お金をたくさん稼いだ人の中には、お金はインフレが来ると価値が下がるといって、お金を金の延べ棒に変えて宝にしている人もいます。

また、山上憶良という人は、『万葉集』に
(しろがね)も (こがね)も玉も 何せむに
 まされる宝 子にしかめやも

と歌っています。
金銀財宝がなんだ、子供に勝る宝があるかぁ、そんな子宝以上の宝なんてあるはずないね、ということです。

このように、みんな思い思い、自分を幸せにしてくれそうなものを宝にして、大切にしています。

ところが、そんな大事な大事な宝物でも、火事で焼けたり、泥棒に盗まれたりします。
恋人なら結婚できても、やがて離婚する可能性もあります。
子宝にしても、事故で亡くしたり、大きくなって自分が年を取ると、裏切られて施設に入れられたりします。
このような宝は、変わらない幸せにしてくれるわけではありません。
続かないのです。

では、この世に変わらない幸せにしてくれるものがあるのでしょうか。

変わらない幸せにしてくれる宝

そんな変わらない幸せにしてくれる宝を、蓮如上人は『御一代記聞書』にこう教えられています。

当流の真実の宝というは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なり
(御一代記聞書)

真実の宝」の「真実」とは、いつまでも変わらない、ということです。
そのいつまでも変わらない幸せにしてくれる宝を「真実の宝というは南無阿弥陀仏」である、と教えられています。
私たちを変わらない幸せにしてくれるのが南無阿弥陀仏なのです。

そして、一度変わらない幸せになれば、どんなことがあっても二度と崩れることはありませんから、蓮如上人は、こうも言われています。

焼けども失せぬ重宝は南無阿弥陀仏なり。
(御一代記聞書)

私たちを、焼けもせず、流されも、盗まれもしない、いつも満ちている無上の幸せにしてくれるのが南無阿弥陀仏なのです。

南無阿弥陀仏の凄さが分からない理由

このように、南無阿弥陀仏には、私たちを変わらない幸せにする働きがあるのですが、そのことを蓮如上人は『御文章』にこう教えられています。

南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。
(御文章)

南無阿弥陀仏」といえば、漢字でいえばわずか6つだから、そんなにすごい力のあるものとは思えないだろう、といわれています。
南無阿弥陀仏を大宇宙最高の宝だなんて、誰も知りません。
南無阿弥陀仏と、一万円札が並んでいたらどちらをとるでしょうか?
一万円くらいなら南無阿弥陀仏をとる人がいても、一億円ならどうでしょうか。
南無阿弥陀仏には、世界中のお金を集めても買えない値があるのに、私たちにそれが分からないのは、知恵がないからです。
豚に真珠、猫に小判」だからです。

真珠の価値は豚には分かりません。
真珠よりも、隣のバケツの残飯に頭をつっこみます。
小判の価値は猫には分かりませんから見向きもしません。
それより魚があれば、飛びつきます。

小判の値が分かる人間からみれば、小判があればそんな魚は毎日食べられるのに、分からないんだな、かわいそうだなと思います。
それは、猫には知恵がないからです。
真珠や小判のあたいは豚や猫の知恵では分かりません。

それと同じように、私たちも知恵がないから、南無阿弥陀仏よりも1万円札が有り難いのです。
仏の智慧からすれば、南無阿弥陀仏には、私たちを変わらない幸せにする働きがあるのに、私たちは知恵がないので見向きもしません。
それよりも目の色を変えて追いかけているのは、お金や財産、地位や名誉です。
それらのものに私たちを幸せにする力はありませんから、幸せになれずに死ぬまで苦しみ続けるのです。

南無阿弥陀仏の限りない凄さ

この南無阿弥陀仏のものすごい働きを知らされた蓮如上人は、
この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり
と教えられています。
功徳利益」とは、私たちを幸せにする働きのことです。
それが「無上甚深」ですから、その働きは、この上なく、甚だ深いということです。
私たちを最高無上の変わらない幸せにする大変な働きがあるのです。
その「広大なること、更にその極まりなきものなり」といわれるように、南無阿弥陀仏には、広くて大きいこと決して極まることのない、ものすごい働きがあると言われています。
極まることがないということは限りないということです。
南無阿弥陀仏には、私たちを幸せにする、無限の力があるのです。

このことは、もともと地球上でただ一人、仏のさとりを開かれて、仏智を体得されたお釈迦さまが、大宇宙で一番の功徳利益のある宝は南無阿弥陀仏だとハッキリ知られて、教えられたことです。

一切経は南無阿弥陀仏におさまる

お釈迦さまが35歳で仏のさとりを開かれて80歳でお亡くなりになるまで説かれた教えを仏教といいます。
それは、一切経七千余巻といわれるたくさんのお経となって書き残されています。
この一切経は南無阿弥陀仏一つを説かれたものです。
このことを蓮如上人は、『御文章』にこう教えられています。

一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり。
(御文章)

一切の聖教とは、一切経のことです。
一切経は、ただ私たちに南無阿弥陀仏の功徳を教え、南無阿弥陀仏を受け取らせるために説かれたのだ、ということです。
南無阿弥陀仏一つ説かれたのが七千余巻の一切経ですから、一切経は、南無阿弥陀仏の六字におさまるのです。

ところがお釈迦さまは、この南無阿弥陀仏の偉大な力は、一生かかっても説き尽くせないとこう言われています。

もし広説せば、百千万劫にも極め尽くすこと能わじ。
大無量寿経

広説せば」とは、詳しく説けば、ということです。
もし詳しく説けば、百千万劫かかっても説き尽くすことはできない。
百千万劫」とは、1劫(こう)は4億3200万年ですから、その百千万倍です。
南無阿弥陀仏には限りない功徳がありますから、お釈迦さまは45年間説き続けられたのですが、45年間どころか、どれだけかかっても説き尽くすことはできないのです。
一切経は南無阿弥陀仏におさまりますが、南無阿弥陀仏の功徳は、一切経におさまりきれないということです。

世界の四大聖人、三大聖人といわれてもトップにあげられるお釈迦さまが、一生かかってもその功徳を説ききれない南無阿弥陀仏ですが、それは一体どなたが作られたのでしょうか?

南無阿弥陀仏を作られた方は?

お釈迦さまは、南無阿弥陀仏を作られたのは、阿弥陀如来だと教えられています。
阿弥陀如来は、大宇宙の諸仏の先生の仏です。
地球上では、仏のさとりを開かれた方は、お釈迦さまただ一人ですが、
大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどありますので、
仏様もたくさんおられます。
その大宇宙の諸仏の先生が、阿弥陀如来です。

その阿弥陀仏が、すべての人を救うために、四十八の願いをおこされています。
これを阿弥陀仏の四十八願といいます。
その四十八の中で、阿弥陀仏の本心を誓われているのが、18番目に誓われた十八願です。
阿弥陀仏は十八願に、「すべての人を必ず絶対の幸福に助ける」とお約束されています。
絶対の幸福とは、最高無上のいつまでも変わらない幸せのことです。

阿弥陀仏の本心が誓われていますので、阿弥陀如来の本願といえば、この十八願のことをいいます。
その十八願の約束を果たすためには、すべての人を絶対の幸福にする働きのあるものを造らなければなりません。それを阿弥陀仏がお約束されたのが、17番目に誓われた十七願です。

阿弥陀如来の17番目の願いとは?

その十七願に、阿弥陀仏はこうお約束されています。

たとい我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して我が名を称せずば、正覚を取らじ。

たとい我仏を得んに」とは、私が仏になったならば、ということです。
これは阿弥陀如来がまだ仏のさとりを開かれる前に誓われたことですから、私が仏になったならばといわれています。
選挙のときに、候補者が、私が議員になりましたならば、というようなものです。
ところが、阿弥陀如来はすでに仏のさとりを開かれて久しく経ちますので、このお言葉はもう問題になりません。
次の「十方世界の無量の諸仏」とは、大宇宙にまします数え切れないほど仏方のことです。
ことごとく」とありますから、大宇宙の仏すべてです。
大宇宙のすべての仏が「咨嗟(ししゃ)」するとは、褒め讃えることです。
次の「我が名を称する」とは、阿弥陀仏の名号を褒め讃えて、称(とな)えることです。
阿弥陀仏はすごいものをつくられたなぁ
と大宇宙の仏方がほめて、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
と称えない仏が一仏でもあったら、
正覚(しょうがく)を取らじ」といわれています。
正覚」とは仏のさとりのことですから、大宇宙の無数の諸仏が一仏も残らず、私の作る名号を褒め讃えて称えないようなら、私は仏になりません、ということです。
阿弥陀仏はもう仏になっておられますので、仏になったからには、もしできなければ仏のさとりを捨てる、ということです。
仏のさとりは仏様にとって命ですから、もし大宇宙のすべての仏がほめたたえる名号を作れなければ、命を捨てるというお約束が十七願です。

では大宇宙のすべての仏が褒め讃えるとは、どういうことでしょうか?

大宇宙のすべての仏がほめたたえるとは?

大宇宙の諸仏がほめたたえるのはなぜかというと、自分に作れないものを作られた、ということです。
大宇宙の仏方は、私たちを助けようとされたのですが、とても手に負えないと見捨てたのです。そのことを蓮如上人はこう教えられています。

十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願にもれて、捨て果てられたる我らごときの凡夫なり。(御文章)

十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人」とは、すべての人のことです。
すべての人は、むなしく皆、十方三世の諸仏の悲願にもれたと教えられています。
十方三世の諸仏」とは、大宇宙のすべての仏のことです。
仏様には、慈悲の心がありますから、苦しんでいる人を見ると、じっとしてはいられません。
私たちが、生まれてから死ぬまで苦しみの連続で、死ねばまた苦しみの世界へ沈んで行く、かわいそうだ、何とか助けたいと慈悲の願いである「悲願」をおこされます。
ところが、あまりに罪が重すぎて、もうどうにもならないと見捨てられたのです。

そんな大宇宙のすべての仏が見捨てた者を、助ける働きのある名号を作ろうとお約束されたのが阿弥陀仏なのです。

それで、大宇宙のすべての仏が、自分にはできない、ものすごいものを作られた、とほめたたえるのです。

南無阿弥陀仏は完成したの?

ではそのような名号はもう完成したのかと言いますと、お釈迦さまが「十七願成就文」に、
大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほどの仏方が、皆共に、阿弥陀仏の作られた名号の不可思議な大功徳を褒め讃えておられる
と説かれています。

大宇宙の仏方が
いやすごい力がある、すべての人を絶対の幸福にする力のある名号を作られた。
約束通りの南無阿弥陀仏を作られた。
阿弥陀仏は、私たちの先生だ

とほめたたえておられます。

たとえるなら、阿弥陀仏が、十七願に大きな船の設計図を書かれて、
私はどんな人も乗せて生きているときに絶対の幸福にする働きのある大きな船を造ってみせる
とお約束されています。
それをお釈迦さまが、その大きな船はもうできていると私たちに教えられているのです。

仏教を聞いて、南無阿弥陀仏を頂いたとき、この大きな船に乗せて頂いて、苦しみ悩みの絶えない人生の海を、明るく楽しく渡して頂くことができるのです。

弟子の使命は先生の御心を伝えることだけですので、阿弥陀如来の弟子であるお釈迦さまが、先生である阿弥陀如来のつくられた南無阿弥陀仏の名号一つを一生涯ほめたたえ、教えられたのが仏教です。

南無阿弥陀仏を頂くとどうなるの?

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を頂いたらどうなったか、こう告白されています。

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、
至徳の風静に、衆禍の波転ず。
(教行信証行巻)

大悲の願船(だいひのがんせん)」とは南無阿弥陀仏を親鸞聖人は船にたとえられています。
阿弥陀如来の大慈悲の願によって作られた船ということです。
親鸞聖人は、「大悲の願船に乗ったぞ」とハッキリおっしゃっています。乗ったかどうか自分で分からないようなあいまいなものではありません。ハッキリします。
大悲の願船に乗った」とは、南無阿弥陀仏を頂いたということです。
親鸞聖人は29歳のときに、大悲の願船に乗られたのです。

大悲の願船に乗ったらどうなったかというと、
光明の広海に浮かんだ」と言われています。
暗くて苦しい人生が、光明輝く明るい人生に転じた、ということです。
広海」とは、それまで親鸞聖人は、狭い苦しい海で、あっちへぶつかり、こっちへぶつかり 、さわりだらけで苦しんでおられたのです。
それが、さわりとなるものが一切ない広い海になったといわれています。

沈んでいた人にのみ、浮かんだという喜びがあります。
それまで何のために生まれてきたのか、生きる意味がわからず、真っ暗なさわりだらけの人生に苦しんでおられた親鸞聖人が、一切がさわりとならない明るく楽しい人生になったといわれています。これを『歎異抄』の言葉では「無碍の一道(むげのいちどう)」といわれています。

至徳(しとく)の風静かに」とは、順境のときです。
順境のときは、ばかり作ってきた私がこのように恵まれすぎるのは仏祖のおかげであると感謝せずにおれなくなってきます。
衆禍(しゅうか)の波転ず」とは、逆境のときです。
衆禍」とは色々の災いのことで、次々と不幸や災難がくるときです。
南無阿弥陀仏を頂いても、不幸や災難が来なくなるのではありません。
因果応報ですから、まいたたねは必ず生えます。
ところが、その衆禍の波が転ずるのです。
これを「転悪成善」とか「煩悩即菩提」ともいいます。
転ずるとはどんなことかというと、自分の種まきを懺悔せずにおれなくなります。
ということは自分の恐ろしい姿を知らされる、ということです。
同時に、そんな私がどうして今この大悲の願船に乗せて頂き、光明の広海に浮かばせて頂ける身になれたのかと喜ばずにおれなくなるのです。

このように、順境には感謝、逆境には懺悔となり歓喜となります。
順境でよし、逆境でよし、順逆共によしの絶対の幸福です。

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