天上天下唯我独尊の3つの意味

天上天下唯我独尊」は、もともとお釈迦さまの言葉です。
ところが現代では、ヤンキーと、一般人と、浄土真宗で異なる使い方がなされています。
それぞれ一体どんな意味なのでしょうか?
まずは読み方から解説します。

天上天下唯我独尊の読み方

天上天下唯我独尊」には、2つの読み方があります。
1つ目は「てんじょうてんげゆいがどくそん」で、
2つ目は「てんじょうてんがゆいがどくそん」です。

どこが違うのかというと、「天下」を、「てんげ」と読むか「てんが」と読むかです。
これは辞書にもどちらも載っていますので、どちらでも正解です。
メリットとデメリットからすると、「てんげ」と読む場合は、「上下」は「じょうげ」と読むので、「天上天下」とセットで言うときに、言った人の気持ちがスッキリします。
ただ初めて「てんげ」と聞いた人は「天下」をイメージしにくいというデメリットがあります。

それに対して「天下」は単独では「天下一」などのように「てんか」と読み、日常的にはこちらのほうが用例がはるかに多いので、誰にでもわかりやすいというメリットがあります。

話をする時は、何を言っているのか伝わらないといけないので、「てんげ」と「てんが」を相手に応じて使い分けるのがいいでしょう。

しかし、この部分は読み方で意見は割れても、意味は意見が割れずに一致します。
その天上天下の意味は「天の上にも、天の下にも」ということです。
天の上か天の下以外はありませんから、これで大宇宙全部です。
意味としては「この大宇宙で」しかありませんから、「天上天下唯我独尊」の「天上天下」の部分はあまり心配はありません。
意味が3通りに分かれているのは、次の「唯我独尊」の部分です。

唯我独尊」の意味は、大きく分けると、ヤンキーの使う意味と、一般人の使う意味と、浄土真宗の意味の3つに分かれます。
それぞれどんな意味なのでしょうか?

1.ヤンキーの意味

まず最初のヤンキーが、「天上天下唯我独尊」を使う意味は、
この世でおれが一番強いんじゃ」とか、
おれが天下とったる!
という威勢のいい意味です。

そして、昔なら、特攻服の背中に記したり、壁にスプレーしたりしていました。
天上天下唯我独尊」とタトゥー(刺青)を入れている人もあります。

このヤンキーの使う「おれが最強」「無敵」という意味の場合は、「唯我独尊」の「」を偉いという意味だと受け止めたのだと思われます。
これは、「唯我独尊的な人」と言った場合も、独りよがりな人、自惚れた人、という意味で使われますので、あながち間違いではありません。
ただ問題は、この「天上天下唯我独尊」というお言葉が、お釈迦さまが言われたお言葉だということです。
唯我独尊」のオリジナルのお釈迦さまは、独りよがりな人でも、自惚れた人でもありません。
それどころかお釈迦さまは、世界の四大聖人、三大聖人といわれてもトップにあげられる聖者です。

独りよがりで自惚れた人は、聖者どころか人格形成の未熟な不届き者ですから、ましてや人類でも聖人のトップにあげられるお釈迦さまが「おれが一番偉い」などといわれるはずがありません。
唯我独尊」をヤンキー的な意味で使うのは、本来の意味ではないことが分かります。
そこで、2番目の一般人の解釈した意味が出てきます。
お釈迦さまのお言葉を好んで使う尊いヤンキーの皆さんの仏縁を念じつつ、次の一般人の意味を見てみましょう。

2.一般人の意味

次に、「天上天下唯我独尊」を一般人が解釈した場合、独りよがりの自惚れた人が本来の意味ではないことまでは分かります。
ところが、唯我独尊の本当の意味として提唱するのは、「一人一人がかけがえのない命である」という意味です。
世界に何十億の人がいても、自分自身は一人しかいない尊い存在である、という意味です。
生きている命が「そのままで尊い」とか、唯一無二の存在という生命の尊厳を説かれたお言葉と解釈しています。

これは聞き心地のよい意味で、何か自分の存在意義を認めてくれて、応援してくれている癒しのように思いますので、一見そうかなと思いがちです。
ところが、お釈迦さまのこのお言葉の続きは「三界皆苦(さんがいかいく)」と続きます。
これは「三界はみな苦なり」と読みます。
三界」とは3つの世界のことですが、どんな人の人生もということで、「人生は苦なり」ということです。
地震や津波、火事や交通事故、境界争いや遺産争い、仕事の人間関係や家庭の問題など、深刻な苦しみが充満しているので、「三界の獄」ともいわれますし、人生は四苦八苦ともいわれます。
四苦というのは、人間に生まれたからには誰もが直面しなければならない、生、老、病、死のことで、『阿含経』をはじめ、至るところに説かれています。

もし「唯我独尊」の意味が、一般人の解釈のように、一人一人が生きているままが尊いとしますと、苦しみながら、老いて、病にかかり、死ぬことが尊いことになってしまい、これでは話がつながりません。
この解釈をしている人に「なぜ命がそのままで尊いんですか?」と聞いたら、大した答えは返ってこないでしょう。
仏教に何が説かれているかを知らない人には、「天上天下唯我独尊」の本来の意味は分からないので、この「一人一人が尊い」というくらいが限界となります。
そう言われて、「このままでいいんだ」と思ってしまったら、それ以上のことは何もしようとしなくなってしまい、お釈迦さまの意図と反対になってしまいます。
そんなことを仏教の本来の意味と思ったら大きな誤解です。
では、本当は「天上天下唯我独尊」はどんな意味なのでしょうか?

3.浄土真宗の意味

天上天下唯我独尊は、色々なお経に説かれていますが、その代表的なお経は、『修行本起経』です。
それは4月8日のことでした。
お釈迦さまのお母さんのマーヤー夫人が、臨月を迎え、実家に帰省する途中、ルンビニー園という花園で急に陣痛が起き、お釈迦さまを出産されたのです。
その時お釈迦さまは、東西南北の四方に7歩ずつ歩かれ、右手で天を、左手で地をさされると、「天上天下唯我独尊」と言ったといわれます。

これは何を意味しているのかというと、「」というのは、私のことではなく、我々人間のことです。
なぜなら、このお言葉の後には「三界は皆苦なり、吾まさにここに安んずべし」と続くのですが、お釈迦さまご自身のことをいわれる時は、ここでは「」という漢字を使われているからです。
ですから「天上天下唯我独尊」はお釈迦さまだけのことではありません。
我々人間には、天上天下広しといえども、たった一つしかない尊い使命がある。
その使命を果すべく、この世へ生れて来たのだ、ということです。

このような、人間に生まれている間にしか果たせない、生きる目的がある、ということです。
そんな尊い生きる意味を持った命だから、尊いのです。

ではその生きる目的とは何でしょうか。

お釈迦さまの生きる目的

生きる目的というのは、今を生きる目的ではなく、人生究極の目的のことで、人間に生まれた目的、ということです。

まずお釈迦さまがこの世にお生まれになられた目的については、浄土真宗の勤行で朝晩読まれ、親しまれている『正信偈』に親鸞聖人はこう教えられています。

如来所以興出世(にょらいしょいこうしゅっせ)
唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)
正信偈

これは、「如来世に興出したもう所以は、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」と読みます。
如来」とはお釈迦さまのことです。お釈迦さまが「世に興出したもう所以は」とは、お釈迦さまがこの地球上に現れて、仏教を説かれた目的は、ということです。
それは次に「唯説」とあります。
」一つのことを「」かれる為であったということです。
これは、天上天下唯我独尊の「」と同じ意味で、2つも3つもありません。
たった1つです。
それは何かというと、次に「弥陀の本願海」を説かれるためであった、と教えられています。
弥陀の本願」とは阿弥陀如来の本願のことです。
阿弥陀如来の本願とは、阿弥陀如来という仏様のなされているお約束のことです。
そのお約束は、大変広くて深いので、親鸞聖人は海にたとえて本願海といわれています。

ですから、お釈迦さまがこの世にお生まれになられたたった一つの目的は、阿弥陀如来の本願を説くことにあったのです。
どうしてそんなことが言えるのかというと、お釈迦さまが『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』に自ら私がこの世に現れたのは、阿弥陀如来の本願一つを説くためであったと言われているからです。
では、お釈迦さまのただ一つの教えである、阿弥陀如来の本願とはどんなことなのでしょうか?

お釈迦さまのただ一つの教え

阿弥陀如来の本願とは何かといいますと、まず阿弥陀如来とはお釈迦さまの先生の仏です。
蓮如上人は『御文章』に分かりやすくこう教えられています。

弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり
(御文章)

弥陀如来」とは、阿弥陀如来のことです。
三世十方の諸仏」というのは、すべての仏のことです。
地球上では仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまただお一人ですが、大宇宙には、地球のようなものが数え切れないほどありますから、仏様も数え切れないほどおられるとお釈迦さまは説かれています。
その大宇宙の数限りもない仏方を「十方諸仏(じっぽうしょぶつ)」といいます。
その大宇宙のたくさんの仏の「本師本仏(ほんしほんぶつ)」が阿弥陀如来です。
本師本仏」とは、「本師」も先生、「本仏」も先生のことですから、大宇宙のすべての仏の先生の仏が阿弥陀如来という仏様なのです。
地球のお釈迦さまも、大宇宙の仏の一仏ですから、阿弥陀如来は、お釈迦さまの先生の仏です。
弟子であるお釈迦さまが、先生の阿弥陀如来の本願を教えられたのが仏教なのです。

次に「本願」とは、『歎異抄(たんいしょう)』には「弥陀の誓願(みだのせいがん)」といわれていますように、誓いのことです。
分かりやすくいいますと、お約束ということです。
お釈迦さまの先生である阿弥陀如来がなさっておられるお約束を「阿弥陀如来の本願」といいます。

ではどんなお約束をされているのかと言いますと、
すべての人の苦しみの根元を抜き、永遠に変わらない幸せにする
と誓われています。

このすべての人を変わらない幸せにすると誓われた阿弥陀如来の本願によって、どんな人も、そのまま本当の幸せになれますから、お釈迦さまは「天上天下唯我独尊」の次に「三界は皆苦なり、吾まさにここに安んずべし」と言われているのです。
この釈迦は、阿弥陀如来の本願を説いて、苦しみ悩むすべての人を、そのまま大安心大満足になれる絶対の幸福の世界に導くぞ、ということです。
このすべての人が本当の幸せになれる阿弥陀如来の本願を説くという、たった一つの聖なる使命をになって私は生まれてきたという自覚と決意が、お釈迦さまの「天上天下唯我独尊」の格調高い宣言となったのです。

では私たちの生まれてきた目的は何なのでしょうか?

私たちの生きる目的

私たちが生まれてきたのは何のためかといいますと、つきつめていえば幸せになるためだといえば、反論する人はないはずです。
学生が苦しい受験勉強をするのも、志望校に入ったほうが幸せになれると思うからです。
サラリーマンがやりたいわけでもない仕事を毎日こなすのは、仕事をしたほうが幸せになれると思うからです。
そのようにすべての人は、幸せを求めて生きていますから、生きる目的は幸せになるためです。

人はみな、幸せになるために、日々、思い思いの努力をしています。
ところが、好きなことをやっても、好きなものを手に入れても、幸せになれたかというと不幸でもないかもしれませんが、心から幸せともいえません。
どことなく虚しい思いを持っていたり、不安な気持ちを抱えて生きています。
心からの安心や満足はないのです。
それは一体なぜかというと、私たちが本当の幸せになれない根本的な原因があるからです。
私たちが本当の幸せになるには、その苦しみの根本原因を断ち切られなければなりません。
阿弥陀如来の本願には、その私たちの苦しみの根本をなくして、本当の幸せにする力がありますから、私たちが生きる目的は、阿弥陀如来の本願によって、変わらない幸せになることなのです。

それ以外には変わらない幸せになる道はありませんから、「唯我独尊」には、「たった一つの尊い使命」、「独尊」といわれているのです。

お釈迦さまが地球上に現れた目的は、阿弥陀如来の本願を伝えてすべての人を救う為でした。
私たちの人間に生まれた目的も、阿弥陀如来の本願によって救われる為ですから、お釈迦さまと私たちの生きる目的が、ここで一致するのです。

では、「唯我独尊」の「ただ私たちだけが」という「」はどんな意味なのでしょうか?

ただ人間に生まれている間だけ

唯我独尊」の「」は、ただ人間だけがという意味です。
人間だけといっても、動物や虫などの他の生き物を見下しているわけではありません。
仏教では、すべての生命は同根で、上下はありません。
なぜなら私たちは、果てしない遠い過去から、生まれ変わり死に変わり、生死を繰り返しています。

その間には、色々な生き物に生まれ変わりますから、
二十五有生、迷わぬ里もなければ受けぬ形もない
といわれます。
二十五有(にじゅうごう)」というのは、三界をさらに詳しく、25通りの世界に分けたものです。
受けぬ形」というのは、動物でも、犬の形や猫の形、魚の形など、色々な形があります。
私たちは今は人間の形をしていますが、「受けぬ形はない」ということは、どんな生き物にも生まれてきたということです。
迷わぬ里」というのは、三界は迷いの世界です。
迷わぬ里はない」のですから、これまで生まれたことのない世界は一つもなかったということです。
二十五有をぐるぐるへめぐって今日に至っているのです。
これは同じところをぐるぐる回って苦しみ迷い続けますから、「輪廻転生(りんねてんしょう)」ともいいます。
輪廻転生」とは、輪が回るように、生まれ変わり死に変わり、生死を繰り返している、ということです。

その迷いを出る方法は、仏教を聞いて、阿弥陀如来の本願力によって、迷いの根元を絶ちきって頂くしかありません。
ですから仏教を聞ける世界でなければ、この迷いの解決はできないということです。
その仏教を聞ける世界が、人間界だけなのです。
それで、「唯我独尊」の「」は、苦しみ迷いの輪廻の中で、ただ人間に生まれたときだけにしか果たすことができませんよ、ということを教えられているのです。

このように、人間に生まれた目的、生きる意味一つを教えられたのが、仏教であり、浄土真宗なのです。
この仏教の教えを知らないと、「天上天下唯我独尊」とは言えません。
天上天下唯我独尊」と同じことを、お釈迦さまは、このようにも教えられています。

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向って度せずんば、
さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。

人身受け難し」とは、迷いの世界の中で、人間に生まれることは大変難しいということです。
今已に受く」とは、その生まれがたい人間に生まれてよかった、ということです。
ところが人間に生まれても、真実の仏教を聞くことは非常に難しいことですから、「仏法聞き難し」といわれています。
今已に聞く」というのは、その聞き難い仏法を聞くことができてよかった、ということです。
この身今生に向かって度せずんば」というのは、その生まれがたい人間に生まれ、聞き難い仏法を聞けた今生に、迷いの解決をしなければ、ということです。
さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」とは、永遠のチャンスは今しかないのだから、何とか今聞いてくれよ、ということです。

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