大略信心は失われる?

御文章を順番に拝読していきますと、2帖目1通に、大略信心というものが出てきます。
しかも、大略信心は、そのままにしておくと失われると言われるのです。
信心決定した人に、信心が失われることがあるのでしょうか?
一体大略信心とはどんなものなのでしょうか?

御文章2帖目1通・御浚え

御文章」は、蓮如上人の書かれたお手紙です。
その2帖目1通に、このようにあります。

そもそも、今度一七ヶ日報恩講の間に於て、多屋内方もその外の人も、大略信心を決定したまえるよし聞えたり。
めでたく本望これに過ぐべからず。
さりながら、そのまま打捨て候えば、信心も失せ候べし。
「細々に信心の溝を浚えて、弥陀の法水を流せ」といえる事ありげに候。

これは一体どういう意味なのでしょうか?

まず「報恩講(ほうおんこう)」とは、親鸞聖人のご恩に報いる集まりで、親鸞聖人のご命日の前後に営まれる、浄土真宗の年中最大行事です。
文明5年、蓮如上人58歳の時にも報恩講が行われており、このときは親鸞聖人212回忌にあたります。それは、7日間、親鸞聖人の教えを聞かせて頂くご縁ですので、「一七ヶ日報恩講」といわれています。

次の「多屋(たや)」とは宿泊施設のことです。
このとき、福井県の吉崎御坊におられた蓮如上人のご説法を聴聞するために、遠くのほうから御門徒の皆さんが集まってこられたので、吉崎には宿泊所があります。
これを「多屋」といいます。吉崎の門内に9軒、全部合わせると100軒から200軒あったと帖外御文に記されています。

内方(ないほう)」とは、内室のことで、僧侶の妻のことです。
多屋を管理していた僧侶の奥さんを「多屋内方」といわれます。

その多屋内方の方々も、それ以外の人も、報恩講で親鸞聖人の教えを聴聞して、「大略信心」を決定したと聞こえてきた、と蓮如上人は言われています。

めでたく本望これに過ぐべからず」とは、こんな喜ばしいことはない。これ以上の望みはない。みなさんが大略信心を決定されたと聞いて、この蓮如、嬉しい限りである、と言われています。

ところが、
さりながら
けれども、といわれます。

そのまま打捨て候えば、信心も失せ候べし
そのまま放っておくと、信心はなくなってしまいますよ。
そのまま仏法を聞かないでいると、信心は消えますよ、と言われています。

『細々に信心の溝を浚えて、弥陀の法水を流せ』といえる事ありげに候
細々に」とは、しばしば、ということです。
だから、しばしば仏教の説かれている所へ行って、阿弥陀仏の本願を聞きなさい、ということです。

何か問題ある?

普通、真実の信心を決定すれば、摂取不捨の利益にあずかります。
摂取不捨というのはおさめとって捨てられないということで、絶対に変わらない幸せです。
これを「金剛心」ともいわれます。
金剛石というのは、ダイヤモンドのことで、ダイヤモンドのように固い、変わらない信心ということです。
この変わらない幸せになることが、私たちが生まれて来た目的なのです。

蓮如上人はここで、信心を決定したといわれ、本望だといわれているのですから、他力真実の信心のように思えますが、もしそうであれば、「そのまま打捨て候えば、信心も失せ候べし」といわれるのはおかしなことになります。

もし失われるような自力の不実の信心であれば、なぜ蓮如上人は、「決定」とか「めでたく本望これに過ぐべからず」といわれているのかが分からなくなります。

これはどういうことかといいますと、蓮如上人は、他力真実信心を決定した人にも、まだ信心決定していない人にも、相手によってますます仏法を聞くことが大切ですよ、と言われているのです。

すでに信心決定した人へ

信心決定した人にとっては、仏法は自分のこととして聞きますので、大略信心というのは、大方の人が真実の信心を決定したと受け止めます。
このような大略信心を「人大略(にんたいりゃく)」といいます。

一度真実の信心を決定すれば、なくなるということは絶対ありませんから、
さりながら、そのまま打捨て候えば、信心も失せ候べし。細々に信心の溝を浚えて、弥陀の法水を流せ
といわれているのは、「重ねて法縁に遇わずそのままにしておくと信心の妙味も深まらず勿体ないことになりますから、しばしば法縁を重ねて信味を深めなさいよ」という意味になります。
信心決定した人は、信心決定する前よりも、ますます仏法を聞きたい気持ちが強くなりますから、ますます仏法を聞くようになります。

それが真実の信心であれば蓮如上人が「めでたく本望これに過ぐべからず」と仰せの通りです。

まだ信心決定していない人へ

まだ信心決定していない人にとっては、「大略信心」は、まだ理解しただけの信心ということになります。
これを「法大略(ほうたいりゃく)」といい、自力の信心です。

まだ信心決定していない人に対しては、蓮如上人は「大略信心を決定したまえるよし聞えたり。めでたく本望これに過ぐべからず」と言われて、「信心決定を喜んでいると聞こえてきましたよ、親鸞聖人の教えを聞かれて理解を深められたようで、非常に喜ばしいことです、それこそ本当の生きる目的ですよ」と多屋内方の皆さんをほめておられるのです。
しかし、それで終わっては、真実の信心を決定する、本当の生きる目的を果たすところまで導くことはできません。
次に蓮如上人は、「さりながら、そのまま打捨て候えば、信心も失せ候べし。細々に信心の溝を浚えて、弥陀の法水を流せ」といわれて、そのまま放っておいたら失われてしまうのは、まだ信心決定していないのですよ、続けて仏法を聞いて、他力真実の信心を決定するところまで聞き抜きなさいよ、と教えられているのです。

これは、「与奪の論法」といわれる、蓮如上人のよく使われる巧みなお導きです。
最初から、「そんなことではまだまだですよ」と言っては、相手はやる気を失ってしまいますので、蓮如上人は、まずは「すばらしい」とほめて、「与えて」おられます。
そして、後から、真実の信心でなければ失われますから、重ねて重ねて仏法を聞きなさい、と「奪って」しまわれるのです。

このように、相手の仏縁を大切に、一人の落伍者も出さずに何とか真実の信心を決定するところまで導こうと心を砕かれる蓮如上人の御心に、私たちは
どこどこまでも一人の落伍者も出さずに、後生の一大事を解決して、真実の信心決定まで導こうと砕心なされている蓮如上人の御心に、感泣せずにおれないのです。

では、どうすれば信心決定できるのかについては、浄土真宗の本質ですので、以下の講座をご確認ください。

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