歎異抄(たんいしょう)とは

歎異抄』は、『徒然草』、『方丈記』と並ぶ三大古典の一つで、ふりがなを文字で書くと「たんいしょう」ですが、口で発音するときは「たんにしょう」といわれます。
親鸞聖人のお言葉を美しい文章で書き残された本で、日本で最も読まれる仏教書といわれています。一体どんなことが書かれているのでしょうか?

歎異抄を褒め讃える知識人たち

歎異抄』は大変多くの人から褒め讃えられていますが、特に知識人に多くあります。

西田幾多郎

例えば、日本の三代哲学者の一人、西田幾多郎という人は、
一切の書物を焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる
と言いました。

三木清

また、同じく三代哲学者の一人といわれる三木清もこう言います。
万巻の書の中から、たった一冊を選ぶとしたら、『歎異抄』をとる
たくさんの本を読んだ人ですが、1万冊の本のトップにあげられるのが『歎異抄』です。

司馬遼太郎

また、多くのベストセラーを書いた作家で、司馬遼太郎という人があります。
この人も、「無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」と言っています。また、
読んでみると真実のにおいがするのですね。
人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、
何かうそだなと思うことがあります。
歎異抄』にはそれがありませんでした

とも言っています。

マルティン・ハイデッガー

20世紀最大の哲学者の一人といわれるドイツのハイデッガーも、こう言います。
「今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の『歎異鈔』を読んだ。
弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり
歎異抄後序)とは、何んと透徹した態度だろう。
もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを生きがいにしたであろう。
遅かった」

このように、最も多くの人に読まれる仏教書である上に、日本や世界を代表する多くの知識人が褒め讃える『歎異抄』とは一体どんな本なのでしょうか?

歎異抄が書かれた理由と構成

歎異抄』は、親鸞聖人がお亡くなりになった後に書かれた本です。
親鸞聖人がお亡くなりになると、親鸞聖人の教えと異なることを、親鸞聖人の教えだという者が現れてきました。
そこで、お弟子の一人が、親鸞聖人から直接聞いたお言葉を書き記し、間違いを正そうとしたものです。

歎異抄』に著者の名前は記されていませんが、親鸞聖人のお弟子の唯円(ゆいねん)であろうといわれています。

歎異抄』は全部で18章からなっています。
1章から10章までは、親鸞聖人がある時こんなことおっしゃったという親鸞聖人のお言葉をそのまま書き残されています。
11章から18章までは、10章までの親鸞聖人のお言葉をものさしとして、当時よくあった誤解を正したものです。

歎異抄』の全体の原文と現代語訳は以下にあります。
歎異抄』の原文
歎異抄』の現代語訳
歎異抄』のオススメの解説書について

ところがこの『歎異抄』はいわくつきの秘蔵の書でした。

門外不出の秘本

歎異抄』は、明治時代に清沢満之(きよざわまんし)という学者が紹介し、今でこそ日本で最も読まれる仏教書といわれるほど多くの人に読まれているのですが、江戸時代までは門外不出の秘本とされて、ほとんど知られていませんでした。
それはなぜかというと、室町時代に、浄土真宗の8代目の蓮如上人が『歎異抄』の最後に、ご縁の浅い人に見せてはならないと記されたからです。このようにあります。

右この聖教は、当流大事の聖教たるなり。
無宿善の機に於ては左右無くこれを許すべからざるものなり。釈蓮如
歎異抄・奥書

聖教(しょうぎょう)」とは、仏教の本のことです。
右この聖教」ですから、歎異抄のことです。
歎異抄は、「当流大事の聖教」である、というのは、浄土真宗で大事な本だ、ということです。

無宿善の機」とは、「宿善」は仏縁のことですので、仏縁のない人のことです。
親鸞聖人の教えを余り聞いたことのない人には、「左右無くこれを許すべからざるものなり」ということは、誰にでも拝読させていいというものではありません、と言われているのです。

それというのも、『歎異抄』は非常に美しい文章で書かれているのですが、反対の意味に誤解しやすいところがたくさんあります。
まるで、大人が使えば便利ですが、子供が使えば怪我をするカミソリのようなものだということで、『歎異抄』は「カミソリ聖教」ともいわれています。

それほど、自分一人で理解しようとすると大変な危険のある本なのです。

悪人のほうが救われる?悪人正機

その一番有名なところが、このお言葉です。

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
歎異抄第3章

これは、簡単にいえば、善人でさえ助かるのだから、ましてや悪人は、なおさら助かる、ということです。
これは、悪人正機(あくにんしょうき)といわれます。
悪人正機とは、悪人が正客であり、お目当てだ、ということです。
普通「悪人でさえ助かるのだから、ましてや善人はなおさら助かる」なら分かります。
それがこのように、善人よりも悪人のほうが助かるとなれば、善いことをせずに悪いことをしたほうがいいと誤解してしまいます。

これは、自分が善人だと自惚れている人にとっては、もっと悪いことをしようと思わせますが、自分が悪人だと知らされている人にとっては、救いの言葉にもなるでしょう。
しかし、『歎異抄』第3章の真意は、その程度の救いではありません。

そもそも自分が悪人と知らされているといっても色々な人があります。

ある浄土真宗の法話で、悪人こそ救われるという説法がありました。
それを聞いていたある年配の女性が、話をされた仏教の先生の所に行って、
おっしゃる通り、私ほど極悪人はありません
と言いました。するとその先生は、
そうか、聞くところによれば、確かにあんたほど極悪人はないと聞いている
と言います。びっくりしたその女性は、
えっ!?誰がそんな悪口言ってたんですか。教えてください、誰ですか
と凄い剣幕で詰め寄ったそうです。それを見た仏教の先生が、
冗談だよ、あんたほど良くできた人はないと有名だよ
と言うと、女性は胸をなで下ろして、
ああそうなんですか、そんなに驚かさないでください
とにっこりしたそうです。

このように「自分は悪人だ」と口では言っていても、心では全然そう思っていないのです。
このような本当の自分の姿を知らず、自分ので助かると自惚れている人を、仮に善人といわれているのです。

では悪人とはどんな人かといいますと、仏教では、すべての人は悪人だと教えられています。
なぜなら、すべての人は、怒り愚痴煩悩でできているからです。
そんな煩悩の塊で救われようのない悪人が、そのまま本当の幸せになれるのが仏教ですから、悪人正機とは、すべての人が本当の幸せになれるということです。
自分の善で助かると自惚れている善人でも、自惚れ心に驚き、真剣に仏教を聞き分ければ、真実の自分の姿がハッキリ知らされ、絶対の幸福になれるのです。

このように、本当の幸せに救われた世界ばかりが教えられ、誤解されやすい『歎異抄』ですが、『歎異抄』の18章全体は、第1章におさまります。

歎異抄は第1章におさまる

歎異抄』は第1章におさまるということは、第1章がよく分かれば、あとの17章は読まなくても全部分かります。
それほど第1章に書かれていることは深く、歎異抄のすべてが凝縮されています。
その第1章の中でも、この書き出しのお言葉にすべてがおさまります。

「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり。(歎異抄第1章

これが、『歎異抄』全体がおさまる、エキスの中のエキスです。
この中でも「摂取不捨の利益(せっしゅふしゃのりやく)」が、『歎異抄』のすべてです。
この「摂取不捨の利益」のことばかり書かれているのが『歎異抄』ですから、「摂取不捨の利益」が分かれば、『歎異抄』はすべて分かったということです。

では「摂取不捨の利益」とはどんなことなのでしょうか?

すべての人が求めているもの

では「摂取不捨の利益」とはどんなことかというと、まず「利益(りやく)」とは仏教で幸せのことです。
人は誰でも、幸せを求めて生きています。
中学生や高校生が志望校を目指して勉強するのも幸せになりたいからです。
好きな人と一緒になりたいというのも、幸せになるためです。
家が欲しいと思っていた人が、家を建てるのは幸せになるためです。
子供が欲しいと思っていた人が子供ができたときが幸せになったときです。

このように私たちは、幸せになりたい、幸せにおさめとられたいと思って生きています。

次に「摂取不捨の利益」の「摂取(せっしゅ)」とはおさめとる、ということです。
絶対変わらない幸せにガッチリおさめとるということで、絶対の幸福になるということです。

摂取」の「」とは、逃げ回っているものを追いかけて追いかけて、どこまでも追いかけて、もう逃げ場のない所まで追い詰めるということです。
」は、とるということで、とらえるということですから、
摂取」は、逃げ回っている者をどこまでもどこまでも追いかけて、逃げ場のない所まで追い詰めて、がっちりと救いとるということです。

決して捨てられない幸せ

次に「摂取不捨の利益」の「不捨(ふしゃ)」とは捨てずということで、捨てられないということです。

私たちは、人それぞれこれがあれば幸せだと信じているものがあります。
信じているというのは、頼りにして、心の支えにしているということです。
お金や財産、地位や名誉、妻や子供など、人それぞれ好きなものを、心の支えにし、生きがいにしたり、生きる希望にして生きています。
ところがこの世は無常の世界ですから、それらのものは続きません。
やがて私たちから離れて行く時がきます。
そんなとき、それまで信じていたものに裏切られて苦しむのです。
たとえしばらく続いたとしても、死んで行くときには、すべてに裏切られて、一人ぼっちで死んで行かなければなりません。
蓮如上人はこのように教えられています。

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。
(御文章)

蓮如上人は、「妻子も財宝」もといわれていますが、今まで頼りにし、信じていた健康も恋人も家族も、仕事も趣味も、これがあれば幸せだと思っていた生きがい全部が含まれます。
死んで行く時には、健康にもお金にも家族にも、夢や希望にも、すべてに見捨てられるので、ただ一人になってしまいます。
そして、死後の世界へ旅立って行くのです。
もし私たちが、自分を裏切るようなものを求めて一生を費やしているとすれば、それは悲劇以外の何ものでもありません。
私たちが求めているのは、自分を捨てるようなものではないのです。

すべての人が求めているのは、いよいよ死ぬ時でも、自分を捨てない幸せを求めているのです。
これがすべての人にとって本当の生きる目的であり、その絶対変わらない絶対の幸福の身になることが、本当の生きる意味です。
歎異抄』は、この本当の生きる意味一つを教えられているのです。

私たちを絶対捨てないもの

では私たちを絶対に捨てないものとは何かというと、『歎異抄』の最初に記されている「弥陀の誓願」です。
自覚するしないにかかわらず、この弥陀の誓願こそ、人類の求めているものなのです。

弥陀の誓願」とは、阿弥陀仏の誓願ということで、阿弥陀如来のなさっておられるお約束のことです。
これを阿弥陀如来の本願ともいいます。

阿弥陀如来はどんなお約束をなされているかといいますと、
すべての人に摂取不捨の利益を与える
とお約束されています。

では、私たちは摂取不捨の利益をいつ阿弥陀仏から頂くことができるのでしょうか。

いつ絶対の幸福になれるの?

いつ摂取不捨の利益を頂けるのかというと、親鸞聖人は『歎異抄』に、
念仏申さんと思いたつ心の発るとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり
といわれています。

摂取不捨の利益を頂けるのは、念仏称えようと思いたつ心のおこる時です。
すなわち」とは、その時、ということです。

念仏を称えようと思いたつ心のおきる時ですから、死んでからではありません。
生きている時です。
念仏を称えたらでもありません。まだ一度の念仏も称える前、称えようと思い立つ心が問題です。

念仏称えようと思う心といっても色々あります。
肉身が亡くなって、葬儀のときに南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えている人もあります。
受験前に、お仏壇の前で、「試験がうまく行きますように」と念仏を称えている人もあるかもしれません。
ドラマを演じる俳優が、台本にある念仏を仕事のために称える時もあります。
このように、念仏称えようと思う心にも色々ありますが、どんな心でもいいから念仏を称えようとさえ思えば救われるのではありません。

念仏申さんと思いたつ心の発るとき、すなわち」とは、たのむ一念のことです。
このたのむ一念について、蓮如上人はこう教えられています。

たのむ一念の所肝要なり。
(御一代記聞書)

肝要とは、要の中の要のことです。
」はいくつかあっても、「要の中の要」は、一つしかありません。
これ以上大切な所はない、もっとも大事な所を仏教で肝要といわれます。
この一念を抜かしたら、浄土真宗になりません。
一念とは、親鸞聖人が「時剋の極促」といわれていますように、「念仏申さんと思いたつ心」の起こる何億分の一秒よりも短い時間のことです。
念仏称えようという心は、一念に起きるのです。
生きている平生の一念に、摂取不捨の利益を頂けるのです。

では、「念仏称えようと思いたつ心」とはどんな心なのでしょうか。

念仏称えようと思いたつ心とは?

念仏申さんと思いたつ心」とはどんな心なのかについて、その少し前に「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さん」と思いたつ心、と教えられています。
それは「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じた心です。

弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて」とは、阿弥陀如来の本願によって、不思議と助けられまいらせて、ということです。
この世で絶対の幸福になれるなんて、人間の頭では想像できないことですから不思議といわれています。
そして次に「往生をば遂ぐるなりと信じた心」だと教えられています。
往生」とは死んで阿弥陀仏の浄土へ往って仏に生まれること往生といいます。
往生をば遂ぐるなりと信じた心というのは、死ねば弥陀の浄土へ往って仏に生まれると明らかになった心のことで、間違いなく往生できるとハッキリした心のことです。

この3つの心に前後はありません。
弥陀の誓願不思議に助けられたという心も、死ねば必ず往生できると明らかになった心も、念仏称えようと思いたつ心も、同じ心ですので、一念同時に起きます。
その心が起きた一念に、摂取不捨の利益を頂いて、死が来ても崩れない絶対の幸福になれるのです。
これを教えられたのが、『歎異抄』の冒頭のお言葉なのです。

「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり。(歎異抄第1章

そしてこのことを広げたのが『歎異抄』18章の全体です。
要約すれば、この最初のお言葉におさまります。

この摂取不捨の利益、絶対の幸福を親鸞聖人が一生涯かかって説き明かされたのが『教行信証』6巻です。
それをもっと広げたのが、お釈迦さまの一切経七千余巻です。
だから一切経は『教行信証』におさまり、『教行信証』はこの『歎異抄』第1章におさまり、『歎異抄』第1章は、摂取不捨の利益を頂く一念におさまるのです。

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