浄土真宗の会合ですべきこと

浄土真宗の会合では、一体どんなことをするべきなのでしょうか?
蓮如上人の当時、福井県にある超勝寺というお寺の会合で、とんでもないことが行われており、蓮如上人は激怒されました。御文章1帖目2通に、それを正され、本来の浄土真宗の会合のあるべき姿を教えられています。

御文章1帖目12通・年来超勝寺

文明5年、蓮如上人59歳のときの9月のある日のことでした。
福井県の吉崎におられた蓮如上人は、福井市にある超勝寺に訪れられました。
ちょうどその日は月に一度、門徒が集まって会合をしていましたが、蓮如上人はそのありさまをご覧になって激怒されます。
反故裏書』によれば、「当住持は、この門弟あずかるべき器にあらず」と、住職を罷免し、追放されたといわれます。

そして、御門徒に対して「御文章」1帖目12通のお手紙が出されています。
そこにはこのように書かれていました。

そもそも、年来、超勝寺の門徒に於て、仏法の次第以てのほか相違せり。
その謂は、まず座衆とてこれあり。
いかにもその座上にあがりて盃なんど迄も人より先に飲み、座中の人にも、またそのほか誰々にも、いみじく思われんずるが、まことに仏法の肝要たるように、心中に心得おきたり。
これ更に往生極楽の為にあらず、ただ世間の名聞に似たり。
しかるに当流に於て毎月の会合の由来は、何の用ぞなれば、在家無智の身をもって徒に暮し徒に明して、一期は空しく過ぎて、終に三途に沈まん身が、一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて、「わが信心は・ひとの信心は如何あるらん」という信心沙汰をすべき用の会合なるを、近頃はその信心ということは、かつて是非の沙汰に及ばざるあいだ、言語道断あさましき次第なり。
所詮、自今已後は、かたく会合の座中に於て、信心の沙汰をすべきものなり。
これ真実の往生極楽を遂ぐべき謂なるが故なり。

これは一体どういう意味なのでしょうか?

心得違いの様子

そもそも、年来、超勝寺の門徒に於て、仏法の次第以てのほか相違せり」とは、
長年、超勝寺で仏法を聞いている人たちは、大変な心得違いをしている。
仏法精神から外れ、聞法姿勢が間違っている。
仏教を聞く目的がまったくわかっていない、ということです。

その謂(いわれ)は、まず座衆とてこれあり」とは、
それはどうしてかというと、まず座長だ。
多くの人達が集まっている中に、大変によく目立って幅を利かせている。
会合をしきっている人がある。

その座長が何をしているかというと、「いかにもその座上にあがりて盃なんど迄も人より先に飲み、座中の人にも、またそのほか誰々にも、いみじく思われんずるが、まことに仏法の肝要たるように、心中に心得おきたり

「よっしゃ、じゃあ一杯行こうか!」
と上座に出てきて、真っ先に
「一気、一気、一気、一気、ぷはーッ」パチパチパチパチ……
と酒を飲み干す。
そして、周りの人から
「すっげー」
「さすがは座長!」
「ありゃまねできないわ」
いかにもすごいと思われるのが、仏教で最も大事なことだと心の中で思っている。
「どうすごいでしょ」と人から目立つことが会合の目的になっているだろう。
そんなことが仏法の肝要か?

これ更に往生極楽の為にあらず、ただ世間の名聞に似たり
一体何をやっているのだ。後生の一大事の解決を完全に見失っている。
単に、みんなからスゴイとかカッコイイとか思われて、人気者になりたいだけではないか。
そんなものは世間の名誉欲に過ぎない。
何のために寺に集まっているのだ。
完全に目的がずれている。

その日の様子をご覧になった蓮如上人はこのように厳しくおっしゃっています。
では、浄土真宗の会合は、本来、何が目的なのでしょうか?

私たちの生きている姿

しかるに当流に於て毎月の会合の由来は、何の用ぞなれば」とは
浄土真宗の毎月の会合の理由は何のためなのか、ということです。
蓮如上人は、これから浄土真宗の会合の目的を教えられます。

次に「在家無智の身をもって徒に暮し徒に明して、一期は空しく過ぎて、終に三途に沈まん身が」とあります。
在家」というのは、「」は煩悩を表しています。
煩悩とは、怒り愚痴の心です。
私たちは毎日、お金が欲しい、自由が欲しい、誉められたい、悪口言われたくない、と思いながら、職場と自宅の往復をして、生きています。
人から悪口言われたり、自由を束縛されたりすると、腹が立ちます。
そして、自分よりすぐれた人を見ると、ねたんだり怨んだりして、煩悩のまま生きています。

無知」というのは智慧がないということです。
どうすれば欲を満たせるか、楽して儲かるか、人から誉められるか、どう生きるかばかり考えて、何のために生きるのか、本当の生きる意味を考えないということです。

そのため、「徒に暮し徒に明して」しまいます。
何もしないうちに、だらだら毎日が過ぎていきます。
そうこうしているうちに、人間に生まれてよかったという喜びがなく、あっという間に人生が過ぎて行きます。

その結果、智慧がないと、先を読むことができないので、「一期は空しく過ぎて、終に三途に沈まん身」と教えられています。
一期」とは、一生のことです。
一生は虚しく、あっという間に過ぎ去ってしまいます。
そして、100%確実に待ち構えているのは死です。
三途」とは、私たちが生まれ変わり死に変わりする6つの迷いの世界の中でも、地獄餓鬼畜生の苦しみの激しい3つの世界です。
畜生界よりも餓鬼界の方が圧倒的に多く、餓鬼界よりも地獄界のほうが圧倒的に多いので、これを「後生の一大事」といいます。

そんな一大事を抱えている私たちですから、「そのままでは危ないぞ」と、次に、浄土真宗の会合の目的を教えられています。

浄土真宗の会合の目的

次に「一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて、「わが信心は・ひとの信心は如何あるらん」という信心沙汰をすべき用の会合なるを、近頃はその信心ということは、かつて是非の沙汰に及ばざるあいだ、言語道断あさましき次第なり。
所詮、自今已後は、かたく会合の座中に於て、信心の沙汰をすべきものなり。
これ真実の往生極楽を遂ぐべき謂なるが故なり

と教えられています。

一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて」とは、真実の仏法を聞いている人は、せめて一ヶ月に一回でも、聞法会場に集まりなさい、ということです。

『わが信心は・ひとの信心は如何あるらん』という信心沙汰をすべき用の会合なるを」とは、 仏法を聞かせて頂く場所に集まって、「私はこのように聞かせて頂きました、あなたはどう聞かれましたか?」と、自分の聞き取った法を、自分の口で語りなさい。
信心沙汰」とは、仏法讃嘆のことであり、仏教の話のことです。
仏法を聴聞して、その復習をしたり、知らされたことを語ったり、仏教の話をしなさい。
そのための会合なんですよ、それが浄土真宗の会合の目的ですよ、と教えられています。

それなのに「近頃はその信心ということは、かつて是非の沙汰に及ばざるあいだ、言語道断あさましき次第なり」とは、昔はあなたも仏教の話をしていたかもしれませんが、最近は、全然しなくなってしまった。
それで、酒を人より先に飲むことが仏教の肝要だと思っている、とんでもない間違いだ。そのひどさは言語道断、とても言葉で言い表せないほどけしからん。何たる浅ましいことか。

これから進むべき道

所詮、自今已後は、かたく会合の座中に於て、信心の沙汰をすべきものなり
これからは、必ず会合の中で、仏教の話をしなさいよ。
これ真実の往生極楽を遂ぐべき謂なるが故なり
それが、後生の一大事の解決の道ですよ。

このように蓮如上人は、浄土真宗の会合は、仏教を聞くのが目的ですよ。
仏教は後生の一大事を引き起こす、苦しみの根元が教えられていますから、それを知り、断ち切って、いつ死んでも浄土往生間違いなしの身になるのが目的ですよと教えられたのでした。

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