白骨の章の意味

白骨の章」は、日本最大の宗派である浄土真宗の葬式で読まれるので、浄土真宗でなくても聞いたことのある人は多くあります。
蓮如上人が、せつせつと無常を訴えられた心に染みるお手紙です。
そこには一体どんな意味がこめられているのでしょうか?

白骨の章の由来

浄土真宗葬式で必ず読まれる「白骨の章」は、親鸞聖人から200年後、親鸞聖人の教えを正確に、日本全国津々浦々に広められた蓮如上人が書かれたお手紙である「御文(おふみ)」の1つです。

どんな人も胸に迫るような人間の真実の姿が綿々と書かれていますので、非常に有名です。
なぜそんな御文が書かれたのでしょうか。

蓮如上人75歳の時、下級武士の青木民部(みんぶ)という人の清女(きよめ)という17歳の美しい娘と、位の高い武家との縁談が調いました。民部は喜んで、先祖伝来の武具を売り払って、嫁入り道具をそろえたのですが、清女は結婚式の当日に急病で亡くなってしまいました。
その翌日、野辺送りをして、白骨を持って帰ってくると、民部さんもこれが待ちに待った娘の嫁入り姿かと深く歎き、51歳で亡くなってしまいます。
そして、その翌日、今度は民部さんの奥さんが37歳で亡くなってしまいました。
そのまた2日後に、本願寺の土地を布施した海老名五郎左衛門という人の17歳の娘さんが亡くなってしまい、海老名さんからの依頼によって書かれたのが白骨の章といわれます。

それで、切々と胸に迫るお言葉が書かれているのです。

白骨の章の全文

こちらが「白骨の章」の全文です。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
あなかしこ あなかしこ

蓮如上人はこのお手紙の中に、どのようなことを教えられているのでしょうか?

あなたはどんな姿をしているの?

まず「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり」と教えられています。

最初に「人間の浮生なる相」とあります。
人間の一生というものは、どういうものなのか。
それは、浮生なるすがただと言われています。

浮生とは、浮いた生ということで、水に浮かんだ根無し草のようなものが人間の一生だということです。
根っこがないということは、頼りになるものがないということです。
人間の一生は、最後まで間違いないと安心できるものがない。
この世は無常の世界ですから、すべてのものが移り変わって行きます。
たまたまこれだと信じたり、頼りにするものがあっても、やがて必ず裏切られます。
結局最後まで、このために人間に生まれてきたんだという生きる意味が分からないのが人間の一生だ、というのが、人間の浮生なるすがたということです。
一生の間、何をやっても、何を手に入れても心からの安心も満足もない原因はそこにあるのです。

つらつら観ずるに」というのは、そんな私たちの姿をよくよく見てみると、ということです。
現実から目をそらさず、しっかりと直視することが大切なのです。

おおよそはかなきものは」とは、儚いものはどんなことかというと、ということです。

この世の始中終」とは、私たちの一生を始め、中、終わりで教えられています。
禅宗僧侶一休は、
世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶としぼんで 婆と散りゆく
と歌っているように、私たちの人生は一方通行です。
戻ることも、止まることもできません。
幻の如くなる一期なり」とは、「一期」も一生のことですから、人間の一生は、幻のようなものだということです。
あっという間に年を重ねていって夢幻のように儚く過ぎていくのです。

人間は何年生きられる?

次に「されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや

と教えられています。

未だ万歳の人身をうけたりという事を聞かず」とは、考えてみると今までに1万歳、2万歳と生きていた人があるだろうか、そんな人は聞いたことがない、ということです。
死なない人はどこにもいないのです。

一生過ぎ易し」とは、あっという間の人生だということです。
今から40年50年と言うと相当あるように思いますが、過ぎ去った40年50年はあっという間です。
どんなに平均寿命が延びたといっても、80年か100年です。
人間の一生はあっという間に終わってしまった、ということです。

誰か百年の形体を保つべきや」とは、誰か100年生きたという人があるだろうか、ということです。
現代は、100歳以上の方も何人もありますが、蓮如上人の時代は人生50年の時代です。
今でいえば「誰か200年生きたという人があるだろうか」ということです。
悠久の時間の流れからすれば、80年か100年くらいは瞬きするような一瞬のことです。

先に死ぬのは他人と自分のどっち?

次に「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり
と教えられています。

我や先、人や先」とは、死と聞くと、「人や先、我や先」、他人が死んで、自分が死ぬとしか思えません。
なかなか死を自分のこととは思えないのが私たちです。
実際には自分が死ぬとは思っていないので、「人や先、人や先」と、死ぬと言ったら常に人のことしか思えません。
私たちはそんな迷った考えを持っていますので、蓮如上人は、「死ぬのは他人ではない、私なのですよ」と教えるために、「我や先、人や先」と言われているのです。

次に「今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり」と教えられています。
今日とも知らず、明日とも知らず」とは、私たちは、頭では、いつかは死ぬと分かっていても「今日は大丈夫だろう、明日は大丈夫だろう」と思って生きています。
ですが「今日、明日は死なないだろう」と思っている心は、永遠に死なないと思う心です。
なぜなら、明日になれば、また「明日は死なないだろう」と思います。
その明日になれば、また「明日は死なないだろう」と思います。
後ろから光をあてられて、前にできた影をふもうとしても、どんどん逃げて行って踏めないように、 「明日は死なない」という心は、永遠に死なないということになってしまいます。
これは迷いですから、蓮如上人は、今日とも知れず、明日とも知れない露のように儚い命だと教えられています。

おくれ先だつ人」とは、先に死んでゆく人、遅れて死んでゆく人のことです。
散る桜 残る桜も 散る桜
と歌われるように、前後があっても、必ず最後は散っていかなければならないのです。

次の「本の雫」とは、雨が降ったときに、木の幹からから滴り落ちる水滴のことです。
末の露」とは、葉から落ちる水滴のことです。
そんな雫や露よりも激しくたくさんの人が死んでいるということです。

お釈迦さまに、あるお弟子が、
お釈迦さまは、大宇宙最高の悟りを開かれたお方ですから、苦しみなどはないのでしょう
とお聞きしたところ、お釈迦さまは、
人々が、まるで雨が降るように死んで地獄に堕ちていくのが心眼にみえる。それが私の苦しみじゃ
とおっしゃったといわれています。
地球上何十億の人からすれば、一秒間に何人もの人が死んでいます。
まさに今日とも知らず、明日とも知らず、雨が降るように激しく人が死んでいるのです。

あなたの命はいつまで?

朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」とは、朝、「いってきまーす」と元気に出掛けていった者が、夜には変わり果てた姿となって帰ってくることもあるということです。
そんな人が、朝、今日が最後の日だと思って洗顔しているかというと、そうではありません。
みんな、私たちと同じように思っています。
そんな今日死ぬと思っていない人が死んでゆくのだということです。

お釈迦さまはこれを
出息入息 不待命終
と教えられています。
これは、出る息は入る息を待たずして命終わると読みます。
死と聞くと、まだまだ20年も30年も先のことだと思います。
しかし、命はいつ終わるとも知れません。
息を吸った時、何かの拍子で息を吐くことができなかったら、もうその時が、後生です。
息を吐いたとき、何かの拍子で息を吸うことができなかった時が、もう後生なのです。
後生は、吸う息吐く息に触れ合っているということです。
死はいつやってくるか分かりません。
今に触れ合う問題が死なのです。

葬式での遺族のありさま

次に「既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず
と教えられています。

無常の風来りぬれば」の「無常の風」とは、死のことです。
どんな人も無常の風に吹かれたら、ひとたまりもありません。
どんな死に方をするかは、過去の行いによるので、一人一人違いますが、死はいつやって来るか分からない100%確実な未来なのです。

すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは」とは、無常の風に吹かれて、死んでしまったら、目は閉じたまま、もう二度と開くことはありません。
吸う息吐く息は後生に触れ合っていますから、その最後の一息がふっと途絶えたならば、桃やすもものように血色のよかった顔から血の気が引いていきます。

六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず」の「六親」とは父母妻子兄弟、「眷属」とは親戚のことです。
子供や兄弟、親戚が遺体に取りすがって、「もう一度目を開けてー。もう一度何かお話ししてー。何か反応してー」とどれだけ泣き叫んでも、どれだけ悲しんでも、二度とその人が起き上がって話すこともなければ、笑うこともない。決して生き返ることはないのです。

さてしもあるべき事ならねばとて」とは、そうやってずっと悲しんでもいられないので、ということです。
野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり」とは、外で死んだ人の肉体を燃やすと、火葬場から立ちのぼる一条の煙、一つまみの白骨だけになってしまう、ということです。

亡くなった方の人生を思い返してみると、あれだけ馬車馬のように働いて、お金や財産、地位、名誉をかき集めたのに、何一つ持って行くことはできません。
この儚い私たちの一生を
財産も名誉も一時の稲光 後に残るは 夢のため息
と言われます。
死んで行くときには何一つ頼りになるものはありません。
今まで信じていたものすべてに裏切られて、一人で死んで行かなければならないのです。

あわれというも、なかなかおろかなり
本当の生きる意味がわからないで、死んで行くときに置いていくものばかりを求めて生きていたら、白骨になる為に、生まれてきたようなものではないか。
それではあまりにも哀れではないか、それではあまりにも愚かではないか。
哀れというもなかなか愚かなり、といわれています。

白骨の章の結論

されば」というのは、だから、ということです。
ここから白骨の章の結論です。

人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば」の「老少不定」とは、老いた人が先に死んで、若い人が後に死ぬと 決まっているわけではない、ということです。
人の命の儚さは、年老いた者も若い者も変わらないから、「誰の人も」と言われています。
これは、年老いた人だけのことでもなければ、若者だけのことでもありません。
すべての人に関係のあることなのです。

すべての人にどうしなさいと言われているかというと、「はやく後生の一大事を心にかけて」と言われています。
後生の一大事」とは、死んだらどうなるかの一大事です。
死んだらどうなるかは、すべての人が直面する大問題ですから、常に忘れず心にかけなさい、そして解決してもらいなさい、ということです。

では、後生の一大事はどうすれば解決できるのでしょうか。
蓮如上人は、次に「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」と教えられています。
阿弥陀仏という仏様は、「すべての人を必ず変わらない幸せに助ける」と誓われています。
これを「阿弥陀如来の本願」といいます。

たのむ」とは、今の意味とまったく違います。
現代ではお願いするという意味ですが、当時は、あて力にする。あてたよりにする。
あて力になったということです。
ですから、「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」とは、阿弥陀仏の本願に救われたことをいいます。

蓮如上人が、阿弥陀仏に助けてもらいなさいといわれているのは、私たちの後生の一大事を救う力のある仏は、阿弥陀仏しかないからです。
ですから、仏教を説かれたお釈迦さまも、仏教の結論として、「一向専念無量寿仏」と教えられています。
無量寿仏」とは、阿弥陀仏のことです。
一向専念」とは、阿弥陀仏一つに向きなさい、阿弥陀仏だけを信じなさい、ということで、阿弥陀仏に助けてもらいなさい、ということです。

阿弥陀仏に救われた人は、阿弥陀仏にお礼を言わずにおれなくなります。その阿弥陀仏に対するお礼の言葉が南無阿弥陀仏です。
最後の「念仏申すべきものなり」とは、お礼の念仏を称える身になりなさい、ということです。

ですから、蓮如上人は、後生の一大事を解決できる仏は阿弥陀仏しかないのだから、阿弥陀仏の本願を聞いて、いつ死んでも極楽参り間違いなしの身にしていただきなさいよ、と教えられているのです。

白骨の章の現代語訳

これらのことから、白骨の章を現代語訳すると、このようになります。

さて、水辺に浮かぶ根なし草のように頼りになるものの何もない、私たち人間の姿をよくよく見つめてみると、色々考えて合わせてみても、この世の始めから終わりまで、夢幻のように儚い一生である。
だからいまだ千年万年生きている人を聞いたことがない。一生はあっという間に過ぎ去ってしまう。
今日まで誰が100年200年も生きたという人がいただろうか。
死と聞くと、みんな他人のことだと思って自分のことと思っていませんが、死ぬのは他人事ではありませんよ、私が先ですよ。それは今日かも知れない、明日かも知れない。後から死ぬ人、先立って死ぬ人は、雨の日に木の幹を流れ落ちる雫や、枝の葉よりしたたり落ちる露よりも激しく人は死んで行く。
だから、朝、元気に「いってきまーす」と出ていったのに、夕方には変わり果てた姿になって帰ってくる人の身なのである。
一度無常の風に吹かれたならば、2つのまなこはすぐに閉じてしまい、最後の一息は永久に途絶えて、微動だにもしなくなってしまう。血色のよかった顔色も失われてすっかり白くなってしまい、父母や妻子が遺体に取りすがって「なんで死んじゃったのー、もう一度目をあけてー、お話ししてー」といくら泣き叫んでも、もう二度と返らない。永遠の別れとなってしまう。
いつまでもそのままにしておけないので、野辺送りにして火葬にすれば、夜中に立ち上る一条の煙となり、ただ白骨だけが残される。
あれだけ必死にかき集めたお金も財産も何一つ持って行くことはできない。
これでは一体何の為の人生であったのか。人はこれを哀れというが、むしろおかしなことではないか。
人生を最後まで見通すとこういうことになるのである。
私たち人間のはかない命は、いつ死ぬか分からないのだから、これに関係がない人はありませんよ。あなたも早くこの100%直面する後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏の本願に救われ、その喜びからお礼の念仏を称えずにおれない身になりなさい

ではどうすれば、後生の一大事を解決して、変わらない幸福に救われるのでしょうか。
それには、苦悩の根元を知り、断ち切られなければなりません。
それは浄土真宗の本質ですので、以下の講座をご確認ください。

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