親鸞聖人

親鸞聖人安城御影
親鸞聖人安城御影

現代日本の最大宗派である浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、生きている人にとって、最も大切なことを教えられた方です。
それは、分かりやすく言うと、本当の生きる意味です。
親鸞聖人は、どのように本当の生きる意味にたどりつかれ、教えられたのでしょうか?
そこには仏教の原点があり、現代人にも必要なことが教えられています。

親鸞聖人の出家の動機

親鸞聖人は 平安時代の末期の1173年に、京都にお生まれになりました。
お父さんを藤原有範(ふじわらのありのり)、お母さんを吉光御前(きっこうごぜん)といいます。

ところが4歳でお父さんを亡くされ、お母さんが女で一つで育てられます。
その杖とも柱ともすがっておられたお母さんがまた8歳の時に病気で亡くなられます。
一番頼りにしていたお母さんも亡くされて、親鸞聖人の悲しみは大変なことであったろうと想像できます。

お父さんもお母さんも亡くされた親鸞聖人は、「次に死ぬのは自分の番だ」と強く無常を観じられます。

これを「無常観」といいます。
無常観」とは、無常を見つめることです。
仏教では「諸行無常」と教えられるように、この世に頼りになるものは何もありません。
みな裏切って行くものばかりです。
頼りにならないものの中でも最たるものは、自分自身が死んで行かなければならないということです。
自分もやがて死んで行かなければならない、死んだらどうなるのだろう」と、自分の死を見つめることを無常観といいます。

お母さんの葬儀が済んで火葬をすると、一条の煙が立ち上り、最後に白骨だけが残ります。
お母さんの一つまみの白骨を手に取られた幼い親鸞聖人は、生きておられた時のお母さんと亡くなって一つまみの白骨になられたお母さんとのあまりの落差の大きさに、驚かれたのでしょう。
こんなに儚いものが人間なのか。
自分もいつどうなるか分からない。
生まれて間もなく死ぬ人もいれば、子供でも死ぬ人がいますので、親鸞聖人は、「今度死んで行くのは自分の番だ」と思われたのです。
この無常観が深い人ほど、早く生きる意味を知ることができる、非常に大事なことです。

9歳になられた親鸞聖人は、死んだらどうなるかハッキリしたい、これは一番大事な問題だと思われます。
これを「後生の一大事」といいます。
私たちは、やがて100%死んで行かなければなりません。死ぬことは絶対に間違いない未来ですから、死んだらどうなるかが真っ暗で、安心して明るく幸せな生き方ができるはずがありません。
この後生の一大事の解決以上に大事なことはないと気がつかれた親鸞聖人は、これをハッキリさせるには、仏教より他にはないと、仏門に入ることを決意されました。

当時、仏教の中心は、比叡山の天台宗、その次が高野山の真言宗でした。
そこで親鸞聖人は、比叡山の僧侶になりたいと希望されたのです。

明日ありと思う心のあだ桜

ちょうどこの比叡山には、親鸞聖人の親戚にあたる慈鎮和尚という人がありました。
慈円僧正ともいわれます。
その慈鎮和尚を頼って、9歳で得度(とくど)を願い出られました。
得度とは、在家の人が僧侶になる時に受けなければならない儀式のことです。

わずか9歳で僧侶になりたいと聞いて驚いた慈鎮和尚は、
あなたはまだそんなに幼いのに、どうして僧侶になろうとされるのか
と尋ねると、親鸞聖人は、無常を強く観じて、
死んだらどうなるかハッキリしたいのです
とありのままに自分の心境を述べられます。
慈鎮和尚は「そんなにまで言うなら、明日、得度の式をあげよう」と言うと、親鸞聖人は、一首の歌を詠まれます。

明日ありと 思う心の あだ桜
 夜半に嵐の 吹かぬものかは

みんな明日もある、明後日もあると思っているけれど、それはあてにならないことです。
今を盛りと咲く桜の花も、夜中に吹く嵐で散ってしまいます。
人の命は桜の花よりも儚いものです。
今晩無常の嵐がやってくると、今晩死ななければなりません。
明日という日はないのです。
今しか私の命はありません。
どうか今日、得度して頂けないでしょうか。
慈鎮和尚は、赤面して、
そんなにまで無常を観じておられるのか。では今すぐ得度の式をあげよう
と言ったのでした。
こうして親鸞聖人は、9歳のときに、比叡山天台宗の僧侶となられたのです。

比叡山天台宗の修行

天台宗というのは、お釈迦さまの説かれた七千余巻の一切経の中で、法華経こそが一番大事なお経だと思って天台大師が開いた仏教の宗派です。
法華経の中でお釈迦さまは、悪いことをやめてに向かうように、厳しい修行を教えられています。
そのためには、普通一般のように、結婚して肉を食べる、肉食妻帯の生活をしていてはとてもできません。
周りの影響で、色々なことに煩わされて、悪いことをしてしまったり、善いことをしようとしてもできないので、一般の生活を離れます。これを出家といいます。
出家の家というのは、欲望のことです。
食べたい、飲みたいと欲のままの気ままな生活を離れて、山に入ります。
すると、周りには木や石しかありませんから、欲を起こしたり、腹を立てる縁が少ないだろうということです。

そこで、この比叡山を開いた最澄は、女性は絶対入ってはいけないということにして、女人禁制にしました。
男でも、弓矢や刀を持った武士や侍のような、血なまぐさい職業の人は、絶対入ってはならないことになっていました。
現代では、観光のために誰でも入れますが、当時は、法華経の通りに修行をして仏道を求める人しか入ることはできませんでした。
それは当時の比叡山を、をやめて善に向かうのを妨げるようなもののない環境にしたわけです。

その中で親鸞聖人は、あの今晩死ぬ覚悟で、来る日も来る日も仏道修行に打ち込まれました。
朝早くから起きられて、法華経に説かれている通りの修行をされました。
ところが、5年経っても6年経っても死んだらどうなるか真っ暗がりで、心に明かりがともりません。
親鸞聖人は、10年間、力一杯修行に打ち込まれてもそういう状態でした。

やがて17年の歳月が過ぎて親鸞聖人は、今死ぬと思うと、安心と満足のかけらもないまま、もう26歳になってしまった。
もうそろそろ心に明かりがついても良さそうなものだけど、ひょっとしたら求める方向が間違っているのではないかと思われて、26歳の正月に、そのとき京都におられた慈鎮和尚に相談に行かれました。

慈鎮和尚への相談

新年の挨拶をした後に親鸞聖人は、
私はこの17年間、法華経の教えの通りに精一杯修行して参りましたが、いまだに心は真っ暗がりで、明かりがつきません。
私が進んでいる方向はひょっとしたら間違っているのではないでしょうか?

と慈鎮和尚にお尋ねします。

すると慈鎮和尚は、「何を言うか親鸞、後生の一大事の解決は、生涯かけての最大事。
だからこそ、我々の先達はこの解決のために修行に生涯を捧げてきたのではないか。
どれだけ難行苦行して、できずじまいで死んで行ったか。
龍樹菩薩も、仏道を求めることは、大宇宙を持ち上げるよりも重いぞと言われている。
それほど大変な問題なのだ。
10年や20年で解決のできることばてない。そなたはまだ若いのだからより一層修行に励むがよい

と諭されています。

親鸞聖人は、「そうでありました、私の心得違いでありました。
私は後生の一大事を軽く見ていたのです。
今後は、今まで以上に真剣に修行に打ち込みます

と答えて、比叡山へ帰って行かれるのでした。

美しい女性との出会い

比叡山に戻ろうとされた親鸞聖人が、赤山明神の前を通りかかられたとき、後ろから呼び止める人がありました。
親鸞さま、親鸞さま
振り返ると、美しい女性でした。
私を呼ばれたのはそなたですか
はい親鸞さま、今からどこへ行かれるのですか
私は天台宗の僧侶ですから、これから比叡山に帰って難行苦行をする所です
それなら親鸞さま、私には深い悩みがございます。
どうか私もお山にお連れ下さい。
私にできることなら何でもします

それはとてもできないことです。
比叡山は、伝教大師がお山を開かれてより、女人禁制です。
無理なことを言わないでください

親鸞さま、親鸞さままでそんな悲しいことを言われるのですか。
伝教大師ともあろう方が、『涅槃経』を読まれたことがないのでしょうか?

涅槃経』?
はい、『涅槃経』には、山川草木悉有仏性、と説かれています。
すべての者に仏性があると、お釈迦さまはおっしゃっているではありませんか。
それなのにこのお山の仏教は、なぜ女性だけ差別するのでしょうか

伝教が比叡山を女人禁制にしたのは、女は仏になれる器ではない、汚れた存在だからだというので、それはおかしいではないかとこの美しい女性は言ってきたのです。

これには親鸞聖人も答えられずに口ごもっておられると、さらに美しい女性は続けます。
もし女が男よりも汚れ、罪が重いとするならば、仏様は罪の重い者にこそ、余計に慈悲をかけられるのではないでしょうか
人間の親でも、できのよい子供より、できの悪い子供に親の慈悲は余計にかかります。
できのよい子供なら、一人で生きていけるだろうと思いますが、出来の悪い子供は、将来どうするのだろうと心配になります。
女の子なら器量の良い子供なら、将来どこにでも嫁に行けるだろう。
しかし、そうでない子供なら、嫁のもらい手があるだろうかと心配します。
人間の親の慈悲でさえも綺麗な子供より醜い子供に親の慈悲は傾くのに、仏様が綺麗な子供にばかり慈悲をかけられるはずがありません。
伝教は、本当に仏の御心が分かっているのでしょうか、という質問です。

親鸞聖人も、確かにそうだと納得されます。
今までもうすうすおかしいとは思っていたけど、昔からそうなっているからそんなものだろうとあまり考えてこなかった。
しかし今改めて聞かれてみると、まったくその通りだ。これはおかしいぞ、という疑問が、親鸞聖人の胸に広がっていきました。

美しい女性はさらに続けます。
この山に、鳥や獣の雌はいないのでしょうか。
人間の女を山にいれないのは汚れているからだとすれば、この山はすでに鳥や獣の雌で汚れています。
その汚れている山に、なぜ人間の女だけ入れないのでしょうか

仏教からいうと人間も動物も同根です。
私たちも、人間に生まれる前は、生まれ変わり死に変わりしていますので、過去世には、鳥だったこともあれば、動物だったこともある、色々な姿に生まれていたと教えられています。
親鸞聖人は、ますますこの女性の言う通りだと、この女性に興味を持ち始めます。

美しい女性は、最後に、「親鸞さま、いつの日か、すべての人が救われる、真実の仏教を明らかにしてくださいませ。
今日お会いできたご縁に、これをお受け取りください

親鸞聖人が玉手箱を受け取って開けてみられると、中には美しい玉が入っていました。
これを私に?」と顔を上げられたときには、もう美しい女性の姿は見えなくなっていました。

にわか坊主との修行

当時、世の中では、源氏と平家が戦って、壇ノ浦で平家が滅ぼされたときでした。
その平家の落ち武者の中には、源氏の目を逃れるために、にわか坊主となって、比叡山に逃げ込む者がありました。
比叡山は、武士は入ってはならないことになっていましたので、源氏は平家を根絶やしにしようとしていたのですが、手出しができませんでした。

平家の落ち武者は、比叡山に逃げ込んで、頭を剃って衣を着て、手に数珠を持っていれば、命だけは心配ありませんでしたので、にわか坊主になる者がたくさんありました。

平家の落ち武者たちの目的は、親鸞聖人のような死んだらどうなるかの後生の一大事の解決ではなく、源氏の追究を逃れるためですから、まじめに修行をするつもりはありませんでした。
平家にあらずんば人に非ず
とおごり高ぶっていた平家全盛時代の酒池肉林が忘れられず、夜になると息抜きに山を降ります。
それで今はなくなりましたが、比叡山の麓には遊郭がありました。
そして一晩遊んで朝帰りします。
そんなことばかりしていましたので、日中は修行のまねごとをしていても居眠りばかりして、たまに目を覚ますと、夕べの女はよかったとか、酒はまずかったという話ばかりしています。
親鸞聖人はそんなにわか坊主の言動が見えたり聞こえたりする所で一緒に修行しなければならなかったのです。

それを見られた親鸞聖人は、「あれでは一般の生活と同じで、山へ入っている意味がないではないか。
情けない奴らだ。源氏の目はごまかすことができても、仏様のまなこはごまかせないのだ。
この親鸞だけは、法華経に説かれている通り、戒律を保って、仏道修行をやり遂げるぞ、後生の一大事を解決するぞ

と思っておられました。
仏さまは、「見聞知(けんもんち)」の方です。
見聞知」とは、見ておるぞ、聞いておるぞ、知っておるぞ、ということです。
人の目や耳はごまかせても、仏様をごまかすことはできません。
すべてお見通しです。
だからこの親鸞は、仏様相手の求道をするぞ
と思って、にわか坊主たちを見下しておられたのです。

ところが、仏様相手に法華経の修行に打ち込んでおられた親鸞聖人が気づかれたことは、
確かにあいつらのように、口や身体ではやっていないが、心では、それだけ強く思っているのではないか。
欲望を抑える心が強ければ強いだけ、強く思っていることではないか

ということです。

仏教では、口と身体の行いよりも、口や身体を動かす心をはるかに重く見られます。
平家の落ち武者たちは、一回遊びに行ってくると、2、3日はぼーっとしていますが、親鸞聖人は遊びに行かれない上に、この間出会った美しい女性に恋煩いに落ちて、いつも思い浮かべては抑えようとしておられました。
常に抑えよう抑えようと思い通しだということは、それだけ彼らよりも罪を造っているのではないか。
情けないと思っていた親鸞こそが、あいつらよりももっと浅ましい醜い心で罪を造っているではないか

と気づかれたのです。
その上、自分のほうが上だと落ち武者たちを見下している。
この親鸞のほうが余計悪いではないか
」と愕然とされたのでした。

親鸞聖人は、戒律を守っておられましたので、口や身体では、言ったりやったりしないようにされていました。
ところが、心だけはどうにもなりませんでした。
噴き上がってくる思いはどうすればいいのか、どうにもならない心に親鸞聖人は、泣かれたのです。

比叡山を下山

親鸞聖人は、天台宗の教えの通り実行しようとされたのですが、現実には、お経を読んでいても、修行に打ち込んでおられても、あの美しい女性の顔が浮かび、苦しんでおられました。
その時の苦しい心境を、『歎徳文』にこう記されています。

定水を凝すと雖も識浪しきりに動き、心月を観ずといえども妄雲なお覆う。
しかるに一息追がざれば千載に長く往く。
何ぞ浮生の交衆をむさぼって徒に仮名の修学に疲れん。
すべからく勢利をなげうって直に出離をねがうべし。(歎徳文)

親鸞聖人が夜中に修行をしておられるとき、比叡山からすぐ下をご覧になると、琵琶湖があります。
この日の琵琶湖の水面は、波一つない鏡のように見えました。
それを親鸞聖人は「定水(じょうすい)」と言われています。
あの静かな水のように、親鸞の心もなぜしずまらないのだろうか。
静かな心になりたいと親鸞聖人は、定水をこらされたのですが、しずめようとすればするほど、思ってはならないことが思えてきます。
識浪」とは心の波です。考えてはならないこが次から次へと浮かんでくることを識浪しきりに動きと琵琶湖を眺めながら泣かれたのです。

その親鸞聖人が、今度は空を見上げられると、月がこうこうと冴えわたっています。
心月」というのは心の月ということで、悟りのことです。親鸞の心の中に悟りの月をハッキリと拝みたいと思われたのが、「心月を観ず」ということです。
ところが、「妄雲」というのは、みだらな雲ということです。
思ってはならないこと、考えてはならないことが、みだらな雲のように湧き上がってきて、どうしても悟りの月を拝むことができない、妄雲なお覆うといわれています。
一体この心どうすればいいのか。
こんなことをしている間に、今一息切れたら、後生は地獄だ

と思われた時、親鸞聖人は、居ても立ってもおれなくなったのです。
どうして世間の交わりや、儚い修行や学問に無駄なときを流せるだろう、この世の一切をなげうって、一刻も早く後生の一大事を解決しなければならないと、29歳のときに泣く泣く比叡山を下りられたのです。

29歳・絶対の幸福に

どこかに後生の一大事の解決を教えてくだされる方はないかと京都を夢遊病者のように彷徨い歩かれた親鸞聖人は、聖徳太子の建立された六角堂に100日の参籠をされたこともありました。
そして、京都の四条大橋の上で、かつての比叡山の法友、聖覚法印にめぐりあい、吉水の法然上人にめぐりあわれました。
法然上人は、「私たちの後生の一大事を解決してくだされる仏は、本師本仏の阿弥陀如来しかないのだ。
私たちの苦悩の根元を断ち切って、煩悩あるがままで後生の一大事を解決するとお約束されたのが阿弥陀如来の本願だから、それ以外に私たちの救われる道はないのだ
」と、親鸞聖人は初めて阿弥陀如来の本願を聞かれたのです。
それから親鸞聖人は、雨の日も風の日も、火のつくような聞法をされました。
そして29歳のとき、阿弥陀如来の本願によって苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福に救い摂られたのです。
これを「信心決定」といいます。

親鸞聖人は、主著の『教行信証』の最初にも、
ああ、何たる不思議、生まれ変わり死に変わり迷い続けてきた親鸞は、多生の間あえなかったことに今あうことができた。
億劫の間求め続けてきたものを得ることができた。深く感謝せずにおれない
」といわれています。
正信偈』の最初にも、「親鸞救われたぞ、親鸞助けられたぞ」と繰り返し叫ばれています。

親鸞聖人は「もしまた今生も、苦悩の根元が断ち切られなければ、また永遠に迷いの世界をさまよい続けなければならなかった。危ないところを救われた」と言われています。
後生の一大事は100年や200年、1万年や2万年、1億年や2億年ではありません。
もし今生に救われなければ、未来永劫苦しみ続けなければならなかったのです。
それが阿弥陀如来の本願によって、後生の一大事を引き起こす苦悩の根元が断ち切られた瞬間、この世は絶対の幸福、死ねば浄土へ往って仏に生まれる未来永遠の無上の幸せにして頂けます。

私たちが人間に生まれてきたのは、この身になるためであった、生きているときに、この幸せの身になることが、本当の生きる意味であったとハッキリ知らされた親鸞聖人は、この阿弥陀如来の大恩は、身を粉にしても骨を砕いても報いずにはおれないと、29歳から90歳でお亡くなりになるまでの61年間、本当の生きる意味を教え続けて行かれたのです。
その親鸞聖人が生涯説き続けられた教えが、今日、浄土真宗といわれます。

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