慈悲とは

慈悲(じひ)」は、世間でも「情け」や「あわれみ」という意味で使われます。
慈悲深い人」といえば、情け深い人、あわれみ深い人です。
それはいい人であり、徳のある人格者です。
逆に「無慈悲な人」になると、情け容赦のない冷たい人で、人間的にはどうかと思われてしまいます。
このように、慈悲は世間でもよく使われる言葉ですが、もともとは仏教の言葉です。
仏教では慈悲は非常に重要な意味を持つのですが、それはどんな意味でしょうか?

慈悲の大切さ

慈悲」について、お釈迦さまは、こう教えられています。

仏心とは大慈悲これなり。
(観無量寿経)

慈悲とは、仏の心なのです。
仏教というのは、仏の教えであり、仏になる教えです。
慈悲の心がないのに仏ということはありませんから、仏教では慈悲は非常に重要なのです。

七高僧の一番最初にあげられる龍樹菩薩も、『大智度論(だいちどろん)』にこう教えられています。

慈悲はこれ仏道の根本なり
(大智度論)

慈悲の心を持つことが、私たちにとっても非常に重要なのです。
では、慈悲の心とはどんな心でしょうか?

慈悲とは

慈悲」とはどんな心かというと、「抜苦与楽(ばっくよらく)」の心です。
七高僧の3番目の曇鸞大師はこう教えられています。

苦を抜くを「慈」という。
楽を与うるを「悲」という。
(浄土論註)

」は苦しみを抜く働きですから、抜苦です。
」は楽しみを与える働きですから、与楽です。
慈悲というのは、「抜苦」と「与楽」の心です。

抜苦」というのは、親の慈悲でいえば、苦しんでいる子供を見ると、捨てておけない心です。
子供の苦しみを何とかなくしてやりたいという親心が出てきます。
子供が夜中にお腹が痛いと苦しみ始めると、親は眠たいのですが、そのままにしてはおけません。
お金も必要ですが、夜中に起き出して、病院に連れて行って治してやりたいというのが抜苦の心です。

与楽」というのは、親の慈悲でいえば、子供に喜びを与えてやりたいという心です。
よそへ行って美味しいものや珍しいものが出されると、自分も食べたいのですが、子供に食べさせてやったらどんなに喜ぶだろうかと思います。
それで自分が食べたいのを我慢して、子供に持って帰ることがあります。
それは、子供に楽しみを与えてやりたいという親の慈悲の心です。

このように、慈悲というのは、抜苦与楽の心です。
一言でいうと、助けるとか、救うということです。
ところが、親鸞聖人は、慈悲に2つあると『歎異抄(たんいしょう)』に教えられています。

2種類の慈悲とは

2種類の慈悲について、親鸞聖人は、『歎異抄』4章にこう教えられています。

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
歎異抄4章

これは、慈悲といっても、聖道(しょうどう)と浄土の2つあるということです。
聖道の慈悲と、浄土の慈悲です。

慈悲というのは、人を救うことですから、人を救うことに、聖道の助け方と、浄土の助け方の2種類の助け方があるということです。
これを知らないと親鸞聖人の教えは分かりませんし、自分自身も救われません。

聖道の慈悲にも、浄土の慈悲にも、抜苦与楽の働きがあるのですが、それぞれどのような抜苦与楽なのでしょうか?
次に親鸞聖人は聖道の慈悲について教えられています。

1つ目の慈悲とは

親鸞聖人は、聖道の慈悲について、こう教えられています。

聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛(かな)しみ育むなり。
(歎異抄)

聖道の慈悲というのは、苦しんでいる人を、憐れんで、かなしんで、育むものだと教えられています。

例えば地震や津波などの自然災害があった時、気の毒だと憐れんで、悲しみます。
そして何とか早く立ち直って欲しいと、義援金や食べ物や毛布などの生活物資を送ったり、ボランティアに行ったりします。
他にも、お金に困っている人に経済的に援助してあげるのも聖道の慈悲です。
病気で苦しんでいる人の病気をお医者さんが治してあげることもそうです。

この聖道の慈悲は人間の慈悲ということです。
これがなければ無慈悲です。
自然災害にあって苦しんでいる人を見て、憐れむ心もなければ頑張って欲しいという気持ちもなければ、人間とは言えません。
そんな無慈悲な冷たい心は鬼の心です。
鬼というのは、もともと「遠仁(おに)」から来ています。
仁というのは、人であり、慈悲です。
慈悲から遠ざかっているのが鬼ですから、人間の姿をしていても、心は人間ではないのような心の持ち主ということです。
ですから、聖道の慈悲は、非常に大切なことです。
ところが親鸞聖人は、聖道の慈悲には欠点があるといわれます。

人間の慈悲の欠点

続けて親鸞聖人は、聖道の慈悲についてこう教えられています。

しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。
(歎異抄)

これは、聖道の慈悲は大事なことではあるけれども、思った通りに助け切ることはほとんどありえない、ということです。
それは、聖道の慈悲は、苦しみを抜くといっても、一時的で、続かないからです。
お金がない人にお金を援助すると、その時は助かるかしれませんが、お金がなくならなくなったわけではありません。
またお金がなくなって困ることがあります。
病気で苦しんでいる人の病気を治しても、死ななくなったわけではありません。
一時的に、命が延びただけです。
聖道の慈悲は、大切なことではありますが、満足に助け切ることはできないのです。

このような人間の慈悲を仏教では小慈悲といわれ、仏の慈悲を大慈悲といわれます。
この2つの慈悲にはどんな違いがあるのでしょうか?

小慈悲と大慈悲の違い

なぜ人間の慈悲を小慈悲といわれ、仏の慈悲を大慈悲といわれるかというと、人間の慈悲には3つの欠点があるからです。
3つの欠点というのは、
1つ目は続かない
2つ目は差別がある
3つ目は盲目であるということです。
それぞれどんな意味でしょうか?

1.続かない

1つ目の続かないというのは、災害に遭われた方のことがニュースで流れていますと、その時は気の毒だな、義援金を出したいと思いますが、翌朝になるとその気持ちも薄らいで、義援金を出すほどでもないかなと思い始めます。
そして何年も経つとすっかり忘れてしまいます。

ところが仏の慈悲は変わりません。
いつまでも変わらない慈悲が大慈悲です。

2.差別がある

2つ目の差別があるというのは、親は子供のためなら、自分は苦しくてもどんなことでもしてやろうと思います。
ところが子供は子供でも、隣の家の子供になるととてもそこまでは思えません。
ましてや外国の子供になると、自分の子供より苦しんでいても仕方がないと思います。
このように、自分の縁がある人だけに起きてくる狭くて差別のある慈悲です。

ところが仏の慈悲は無縁の慈悲といわれ、すべての人にかかる平等の慈悲です。
狭い相手にしかかからない慈悲よりも、すべての人にかかる慈悲は大きいので、仏の慈悲を大慈悲といわれるのです。

3.盲目

3つ目の盲目の慈悲というのは、よかれと思ってやったことが裏目に出ることがある、ということです。
親は子供がかわいいので、何とか喜ばせてやりたいという気持ちで、欲しいものがあれば何でも買い与え、やりたいことは何でもやらせて、過保護になってしまいかねません。
このように溺愛すると、子供を堕落させてしまって、将来、子供を苦しませることになります。
これは私たちには先を見通す知恵がないからです。

ところが仏の慈悲は智慧に裏付けられた慈悲ですから、結果的に悪くなることは絶対にありません。
永遠に変わらない幸せにする働きがありますから、仏の慈悲を大慈悲といわれます

このように、人間の慈悲は、続かない、差別のある盲目の慈悲なので小慈悲といわれますが、仏の慈悲は、いつまでも変わることのない、平等の、智慧に裏付けられた慈悲なので、大慈悲といわれます。

では、慈悲に2つあるうちの2番目、浄土の慈悲とはどんな慈悲なのでしょうか?

2つ目の慈悲とは

浄土の慈悲について、親鸞聖人は次にこう教えられています。

浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。 (歎異抄)

この浄土の慈悲には注意が必要です。
まず「念仏して」といわれていますが、これはただ単に口で南無阿弥陀仏と称えることではありません。
私たちの苦しみの根元を破って頂いて、ということです。
南無阿弥陀仏の名号には、苦しみの根元を断ち切る働きがありますから、名号を頂いた瞬間、苦悩の根元が断ち切られ、絶対変わらない絶対の幸福になれます。
絶対の幸福になると、救われた喜びから、念仏を称えずにおれなくなりますから、「念仏して」というのは、救われて称えずにおれない念仏です。
生きている時に絶対の幸福になった人は、死ねば浄土へ往って、仏に生まれます。
仏に生まれれば、仏の大慈悲心によって、思う存分、すべての人を救う大活躍ができます。

ただ絶対の幸福になった人でも、死ななければ仏のさとりはえられないのですが、「急ぎ仏になりて」とあるのは、もちろん急いで死んでということではありません。
急いで仏になる身になりて、ということで、早く絶対の幸福になって、ということです。

絶対の幸福になれば、仏の慈悲を頂きますので、苦しんでいる人を放っておくことはできなくなります。
必ず、一人でも多くの人に絶対の幸福になってもらいたいと、本当の仏教の教えを伝えずにおれなくなります。

実際、29歳のときに苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福になられた親鸞聖人は、急いで自殺されることなく、90歳でお亡くなりになるまでの61年間、本当の仏教を明らかにし、多くの人々を絶対の幸福へ導く大活躍をされています。
同時に親鸞聖人は、絶対の幸福に救われた時に知らされた真実の自己について、衝撃の告白をされています。

私たちに慈悲はある?

仏教では人間の慈悲を小慈悲と教えられています。
ですから私たちも、苦しんでいる人を見ると助けてやりたいと思いますし、続かない、差別のある、盲目の慈悲といわれても、小慈悲くらいはあるだろうと思っています。
慈悲は仏道の根本ですので、親鸞聖人も9歳から29歳までの20年間、比叡山で修行しておられたときは、慈悲の心はあると思われて、慈悲の心になろうとしておられたのです。

ところが29歳のとき、阿弥陀如来の本願に救われた時、真実の自己がハッキリ知らされて、それはとんでもない自惚れであったと知らされたのです。
親鸞聖人は、こう告白されています。

是非しらず邪正もわかぬこの身なり
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり

是非しらず」というのは、善悪を知らないということです。
邪正もわかぬこの身なり」とは、何が正しくて何が間違っているか、正邪も分からない親鸞であった、ということです。
小慈小悲もなけれども」の「小慈小悲」とは小慈悲のことです。
人間の慈悲もない親鸞だった、と告白されています。

小慈悲くらいはあると自惚れていたけれど、そんな心は親鸞にはなかった
といわれています。
ところが親鸞にあるのは、『名利に人師を好むなり』
名利に人師を好む心ばかりだった」といわれています。
名利(みょうり)」とは、名誉欲と利益欲です。
人師(にんし)」というのは人から先生と言われたいという心ですから名誉欲です。

私たちが何かするのは、確かに利益欲や名誉欲もあるけど、それは相手も喜ぶことだから、ウィンウィンの関係にあるんです、と言いますが、親鸞聖人は、
相手の幸せを思う気持ちはまったくないのに、大好きなのは自分の利益や名誉だった
と告白されています。

このように、人間の慈悲である小慈悲もないというのが、阿弥陀如来の本願に救われた時に知らされる、真実の自己なのです。
ではなぜ親鸞聖人は、29歳で救われてから90歳でお亡くなりになるまでの61年間、人々を救う粉骨砕身の恩徳讃の活動をされたのでしょうか?

人々を幸せに導くのは?

親鸞聖人は、無慈悲な私たちが、人々を救う活動ができる理由をこう教えられています。

小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
(悲歎述懐和讃)

ここにも親鸞聖人は、「小慈小悲もなき親鸞」といわれています。
阿弥陀如来の光明に照らし抜かれた真実の自己は、微塵の慈悲もないから、有情利益は思わないといわれています。
有情利益(うじょうりやく)」というのは、「有情」は心のあるもの、「利益」は幸せのことですから、他の人に幸せになってもらいたいという気持ちです。
この仏教の教えを伝えて、みんなに助かってもらいたいという気持ちはさらさらない、自分がかわいくて、人に伝えようという心は微塵もないといわれています。

ところが親鸞聖人は、29歳から90歳まで、身を粉にしても、骨を砕いても伝えずにおれないという恩徳讃の大活躍をされています。
それはなぜかというと、次に「如来の願船いまさずば 苦海をいかでかわたるべき」といわれています。

如来の願船」というのは、阿弥陀如来の本願を船にたとえられて如来の本願の船、「如来の願船」といわれています。
阿弥陀如来の大慈悲の願によってできた船なので、「大悲の願船」ともいわれます。
この「如来の願船」とか「大悲の願船」というのは名号のことです。

名号というのは阿弥陀如来の大慈悲心の現れですので、名号を頂いて苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福に救われた時、阿弥陀仏の大慈悲心を頂くのです。
阿弥陀仏の大慈悲心を頂きますから、阿弥陀如来に救われた人は、必ず他の人にも仏教を伝えて、救わずにおれなくなるのです。
すべての人が救われるのは、その阿弥陀仏の大慈悲心あればこそなのです。

しかしながら浄土の慈悲は、仏になって大慈悲心をもって思う存分衆生を利益することですから、この世で伝えずにおれないのは、あくまでも浄土の慈悲のまねごとです。
本当の浄土の慈悲は、浄土へ往って阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開いてから、人々を救う真の大活躍が始まります。

浄土」には、阿弥陀仏という意味もありますから、浄土の慈悲というのは、阿弥陀仏の慈悲なのです。
その浄土の慈悲の実践には、まず、生きている時に苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福に救われることが先決です。

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