信心決定とは?

信心決定」は浄土真宗の言葉で「しんじんけつじょう」と読みます。
信心獲得(しんじんぎゃくとく)」と同じ意味で、浄土真宗で一番重い言葉です。
この信心決定が、親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗の目的なのです。
信心決定とは一体どんなことなのでしょうか?

信心決定の意味とは?

信心決定」は、「しんじんけつじょう」と読みます。
世間では、「決定」を「けってい」と読みますが、浄土真宗では「けつじょう」と読みます。
読み方は違いますが、意味は同じです。
決まる、定まると書くように、信心が決まるということで、ハッキリするということです。

この「信心決定」の漢字4字は、浄土真宗で最も大事な、最も重い言葉です。
蓮如上人は、御文章に「一日も片時も急ぎて信心決定しなさい」と勧められています。
蓮如上人は御遺言にまで「皆々信心決定あれかし」と朝夕思い続けていると書き残されています。
これは皆さんにお伝えしたいことは、これ一つだ、信心決定してもらいたい、ということです。

なぜ一日も早く信心決定しなければいけないのかというと、蓮如上人は、こう言われています。

信心を決定せずは、今度の報土の往生は不定なり
御正忌の御文章)

報土」とは、極楽浄土のことです。信心決定しなければ、死んで極楽へ往くことはできない、ということです。
このことを親鸞聖人は、このように言われています。

賢愚をえらばず、緇素をえらばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問わず、ただ信心を決定せしむれば、すなわちこれ往生の因種なり。(教行信証)

往生」とは、極楽に往って仏に生まれることです。
極楽へ往って仏に生まれるたねは、賢いか愚かかということではありません。
僧侶か在家かも関係ありません。
どれだけ修行したかも関係ありません。
どれだけ罪を造ったかも関係ありません。
死んで極楽へ往けるかどうかは、ただ一つ、信心決定したかどうかで決まるのだ、ということです。

ですから親鸞聖人は、私たちが生きているのは、信心決定するためなのだと教えられています。
私たちは信心決定するために生まれてきたのであり、信心決定することこそが、生きる意味なのです。

だから蓮如上人は、このようにも教えられています。

まことにもって、人間は出ずる息は入るを待たぬならいなり。
相構えて油断なく仏法を心に入れて、信心決定すべきものなり。(御文章)

人間は、そんなに長い間生きていることはできませんよ、吐いた息が吸えなければ、もう人生は終わる、はかない命を生き長らえているのですから、油断せずに一刻も早く信心決定しなさいよ、ということです。

では信心決定とはどんなことでしょうか。
それを知るには、浄土真宗でいわれる信心とはどんなことかを知らなければなりません。

世間でいわれる信心

世間では、「鰯の頭も信心から」といわれますように、「信心」というと何かを心で信じている状態だと思っています。

ところが、浄土真宗で信心決定といわれる信心は、漢字も読み方も同じですが、意味は全く違います。
世間でいわれる信心は、仏教では自力の信心のことです。
それに対して信心決定といわれる信心は、他力の信心のことです。
この自力の信心と他力の信心の違いをよく知らなければ、信心決定は分かりません。

まず、世間の信心というのは、「あの人は信心深い人だ」というときの信心です。
これは私たちの心で何かを信じている信心で、これを自力の信心といいます。
自分の心で信じているのが、自力の信心の特徴です。
この自力の信心は、大きく分けると3つあります。

世間ごとを信じる信心と、や仏を信じる信心と、阿弥陀如来の本願を聞くと出てくる信心の3つです。

1.世間ごとを信じる信心

まず1つ目は、私たちは何かを信じなければ生きてはいけません。
信じるというのは、たよりにするということで、心の支えにしたり、生きがいにしたり、生きる希望にしたりすることです。
まったく無宗教の人でも、何かを心の支えにしたり、生きる希望にして生きています。
そういう心の支えや、生きる希望がなければ生きていけませんので、信じているものは色々あります。

おおまかにいうと、妻子とか財宝です。家族や財産、あるいは自分の命です。
明日も生きていられる、明後日も生きていられると信じて生きています。

このような、心の支えや生きる希望は、すべての人が持っている信心です。

2.神や仏を信じる信心

2つ目は、神や仏を信じる信心です。
何か特定の宗教でいわれる神や仏を信じています。
例えば「私は観音様を信じている」という人もいますし、「キリスト教の神を信じている」という人もあります。
仏や神、観音菩薩、地蔵菩薩を信じている信心です。

これは、神や仏を信じれば、何かご利益あるだろう、いいことあるだろうと思っている信心です。
世間で信心といったときにイメージするのは、たいていこの信心です。

浄土真宗でいわれる信心

信心決定といわれる信心は、世間でいわれる世間ごとを信じる信心でもなければ、神や仏を信じる信心でもありません。

次の自力の信心の3番目は、浄土真宗の教えを聞かなければ、出てこない信心です。
これは、阿弥陀如来の本願を聞いてはじめて起きてくる信心です。

3.本願を信じようとする信心

お釈迦さまの説かれた教えを仏教といいますが、お釈迦さまが仏教を説かれたのは、阿弥陀如来の本願一つを説かれるためでした。
仏教とは、阿弥陀如来の本願一つを説かれたものです。
ですから仏教を聞くということは、阿弥陀如来の本願を聞くということです。

阿弥陀如来の本願とは、「本願」とはお約束のことですから、阿弥陀如来という仏様のなされといるお約束のことです。

お釈迦さまが一切経を説かれたのは、阿弥陀如来という仏のましますことと、阿弥陀如来のなさているお約束一つを教えるためだったのです。

では、阿弥陀如来はどんなお約束をされているかといいますと、わかりやすく現代の言葉で言いますと、こうなります。

どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に

どんな人をも」ですから、この中に入らない人はありません。
すべての人です。
すべての人を必ず絶対の幸福に救うとお約束されているのが阿弥陀如来の本願です。

この阿弥陀如来の本願を私たちが聞くと、はじめて起きてくる信心が、3つ目の自力の信心です。
では、阿弥陀如来の本願を聞くと、どんな心が起きてくるのでしょうか。

素直にその通りでございましたとは聞けません。
どんな人もとおっしゃるが、本当に私のような者でも、助けてもらえるんだろうか」と必ず疑いの心が起きてきます。
絶対の幸福といわれているが、絶対の幸福とはどんな幸福だろうか
そんな幸福があるんだろうか
いつ助けてもらえるんだろうか?
そんな疑問も起きてきます。

そして阿弥陀仏のお約束を信じようという心も起きてきます。
阿弥陀仏のお約束だから間違いないだろう
お釈迦さまが一生涯説かれたのだから間違いなかろう」と信じようとします。
そして「どんな人もというのは私も入っているのだろう
絶対の幸福とはこんな心だろう
と想像して信じようとします。

これを自力の信心といいます。

これは阿弥陀如来の本願を聞いてはじめて起きてくる信心ですから、阿弥陀如来の本願を聞かない人はありません。
阿弥陀如来のお約束を聞いてはじめて「本当だろうか」という疑いの心や、「間違いない」と信じようとする心が起きてきます。

このような阿弥陀如来の本願を疑う心、阿弥陀如来の本願を信じようとする心を自力の信心といいます。

自力の信心の特徴

このように、自力の信心には、世間ごとを信じる信心と、神や仏を信じる信心と、本願を信じようとする信心の3通りあります。
これらの自力の信心には、決定ということがありません。
決まることもなければ、ハッキリすることもありません。

なぜなら、自分の心で信じているからです。
私たちは、妻子や財宝、お金や財産、命などを固く信じて生きていますが、決定することはありませんから、信じているものが次から次へと崩れていきます。
この世は自分の思い通りにならないことばかりですから、信じたものがいつ崩れはしないかと不安におののいています

それで、神や仏を信じたら、幸せになれるだろうと思います。
しかしそれも決定ということはありません。
私たちの心で信じている信心を自力といわれます。
私たちの心が、ころころ変わりますから、決定ということはありません。

阿弥陀如来の本願を信じようとする信心も崩れます。
阿弥陀如来の本願を聞くと本当だろうかと疑います。
ほとんどの人は阿弥陀如来のお約束を聞き誤って、死んだら極楽へ連れて往くというお約束だと思っています。
本当に絶対の幸福になれることなんてあるんだろうかと思います。

みんな今苦しんでいるのに、死んだら助けるというお約束を阿弥陀如来がされるはずがありません。
絶対の幸福をみんな知りませんので、死んだら極楽へ往くことに感謝しようという程度に信じています。
このような私たちの心で信じている信心に決定はありません。
私たちの心は変わり通しですので、何かをどんなに固く信じていても、必ず崩れていきます。
常に崩れて行き、死ぬまで決定はありません。
これが自力の信心の特徴です。

決定とは

次に、他力の信心が自力の信心と違うところは、決定ということがあることです。
決定というのは、決まるということで、ハッキリするということです。
ハッキリ救われるということがあります。

それが信心決定したときです。
阿弥陀如来の本願を聞かずに信心決定するということはありません。
必ず阿弥陀如来の本願を聞き始めたときがあります。
阿弥陀如来の本願を聞きますと、自力の信心が起きてきます。
阿弥陀如来の本願、本当だろうかというどうもハッキリしない心です。

そのような自力の信心が起きて、「本当だろうか」「本当だろうか」と聞いていきますと、その疑いがはれるときがあります。

ここが信心決定です。
阿弥陀如来が、どんな人をも必ず絶対の幸福に助けるとお約束された本願まことだったとハッキリ知らされます。
絶対の幸福になったときに、本願まことだったとハッキリします。
ハッキリ知らされたときが信心決定です。

これは死んでからではありせん。 生きている今、苦しみの人生が、絶対の幸福にガラリと変わります。
決定というのは、だんだん疑いはれるのではありません。
水際だって一瞬で疑いはれます。

この疑いはれた一瞬を「一念」といいます。
親鸞聖人は、「時剋の極促」といわれて、何億分の一秒よりももっと短い時間です。

その一念で信心決定して、阿弥陀如来の本願まことだった、本当だった、弥陀の誓いにはなかったとハッキリします。
これを信心決定といいます。

他力の信心とは

どうして他力の信心には決定ということがあるのかというと、他力の信心は、私たちの心で信じるのではないからです。

他力の信心は、阿弥陀如来の心です。
阿弥陀如来の心を頂くのです。
他力というのは他人の力のことではありません。
阿弥陀如来のお力のことですから、他力の信心とは阿弥陀如来から頂く信心を他力の信心といいます。
蓮如上人はこのように言われています。

信心という二字をばまことの心とよめるなり。
まことの心と読む上は、凡夫自力の迷心にあらず、まったく仏心なり。(帖外御文)

信心という二字は、「」はまことということで、「信心」はまことの心となります。
まことの心と読むのは、信心という二字が、まことの心ということなんだよ。
凡夫」とは仏教で人間のことです。大変浅ましいので泥凡夫ともいわれます。
その人間の心を自力といいます。
これを迷いの心ともいわれます。 「凡夫自力の迷心」とは、人間の迷っている心ということです。
人間の心は全部迷っているのです。

信心というのは、まことの心ということだから、「凡夫自力の迷心に非ず
人間の迷っている、迷心ではないんだよ。
まことの心ですから、私たちの人間が持っている迷いの心ではありません。
自分の心で何かを信じているのを自力の迷心といいます。

お金や財産、妻子、神や仏、など、私たちの心で信じている自力の信心ではありません。
他力の信心は、まことの心だから「まったく仏心なり」と言われています。

この仏というのは阿弥陀仏のことですから、まったく阿弥陀仏の心なんだよ。
ということです。

自力の信心というのは、私たちの心で信じている信心ですが、他力の信心は、阿弥陀仏の心を私たちが頂くのです。
その一念で、絶対の幸福に決定します。
これが信心決定です。

信心決定する方法

このように、信心決定するには、本願を聞いて、阿弥陀仏の心を頂かなければなりません。

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