往生とは?

往生」という言葉は仏教の言葉ですが、世間では「往生際が悪い」とか、「往生せいや」など、ほとんどの場合、意味を誤解して使われています。
仏教では、本来どんな意味なのでしょうか。
そして、親鸞聖人が明らかにされた往生の真意とはどんなことなのでしょうか。

往生の世間の誤解

世の中では、往生をほとんど本来と違う意味で使われています。
こういうことがあって「往生こいた」と言うと、行き詰まったとか困ったということで、
そんなことしたら「往生しまっせ」と言うと、困りますよ、
という意味です。

また、隣のお婆さん、「往生したそうな」というと、死んだそうなということで、「往生せいやー」というと、死ねやー、という意味です。
この意味では、長生きして老衰で静かに亡くなった人を、眠るがごとく「大往生した」ということもあります。

このように、世間では、「往生」を、ほとんどの場合、困ったとか、死んだという意味に使います。
ところが「往生」は、もともと仏教の言葉です。
仏教では、困るという意味も、死ぬという意味もありません。
往生を困るとか死ぬことに使うのは、仏教の教えを誤解した使い方なのです。

往生」の漢字を見ても、「往く」という字と「生まれる」という字ですから、困るとか、死ぬという意味はありません。
その反対です。

ところがこの「往生」の意味は、僧侶や学者でも間違うことがあります。

岩波仏教辞典vs西本願寺

1989年(平成元年)、岩波書店が、有名な岩波仏教辞典を出しました。
それを読めば、仏教用語の意味が分かるというものです。

その岩波仏教辞典の中で、親鸞聖人の主著の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の項目に、「この世での往生成仏を説いた」とありました。

それを読んだ西本願寺の人たちは、親鸞聖人は現世での往生、成仏を説かれていない、間違っていると抗議しました。

では、西本願寺の言う往生はどんな往生かというと、この世のことではないので、死んでからのことだ、ということです。

岩波書店も、仏教辞典を出すからには、仏教を詳しく勉強しているはずです。
なぜこの世で往生成仏できると書いたのでしょうか。
それは、岩波書店では、東本願寺の学者の意見を載せたからです。
岩波書店では、東本願寺の有名な学者なので、解釈を間違うはずがないと思って載せたのです。

それで『朝日新聞』平成2年7月21日に、このように出ました。

浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市)は二十日、岩波書店から去年十二月に発行された「岩波仏教辞典」に「不適当かつ誤った記述」があるとして、同社に文書で訂正を申し入れた。
 同派が誤りを指摘しているのは、「親鸞」の項目にある「他力信心による現世での往生を説き」の記述と、「教行信証」の項目の「この世での往生成仏を説いた」の二カ所。同派によると、親鸞は「命終わって浄土に往生し、成仏する」と説いたのであって、現世での往生、成仏は説いていない、という。(朝日新聞)

浄土真宗の宗派というと、東本願寺か西本願寺でほとんどです。
それが、往生の解釈で反対になってしまいました。
往生は、親鸞聖人の教えの中でも重要な言葉です。
その意味を、片方では生きているときのことだと言い、
片方では死んでからのことだと言います。

みんなどっちが正しい浄土真宗の教えだろうと思います。
それからこの論争は、新聞の投書欄も賑わせました。

このような往生についての論争を聞くと思い出されるのが、親鸞聖人の「体失不体失往生の諍論(じょうろん)」です。

往生についての親鸞聖人の大げんか

親鸞聖人が34歳で、法然上人のお弟子であったとき、往生について大げんかをされたことがあります。
相手は、同じく法然上人のお弟子の、善慧房証空です。
善慧房証空は、後に浄土宗の一派を開いた人で、法然上人のお弟子の中でも親鸞聖人と首席を争う優れた人でした。

親鸞聖人も善慧房証空も、お釈迦さまが説かれたのは、阿弥陀如来の本願ただ一つであったということでは意見が一致していました。
阿弥陀如来の本願とは、阿弥陀如来が私たちとなさっておられるお約束のことです。
その阿弥陀如来のお約束の内容で、親鸞聖人と善慧房の意見が対立したのです。

阿弥陀如来の本願のどこで意見が分かれたかといいますと、ある時善慧房は、阿弥陀如来の本願は、死んだら助けるお約束だと説法していました。
これを「体失往生(たいしつおうじょう)」といいます。
体失」とは、体を失ってですから、死んでからということです。
善慧房は、死んだら往生させるのが阿弥陀仏のお約束だと言っていたのです。

それを聞かれた親鸞聖人は、「それは間違いです。阿弥陀如来の本願は、不体失往生です」と言われます。
不体失(ふたいしつ)」とは、体を失わずに、ですから、生きているとき、ということです。
生きているとき往生させるというのが阿弥陀如来のお約束だ、ということです。

死んでから助ける人いる?

この争いをわかりやすく言いますと、親鸞聖人はこう言われたのです。
善慧房殿、あなたは阿弥陀仏は死んでから助けるとお約束されていると言われていますが、それは間違いです。
今みんな苦しんでいるんですから、今助けてもらいたいではありませんか。
世間のことでもそうです。
今、腹痛で転げ回っている人に、「苦しいでしょう。しかし今はどうにもなりません。死んだら助けてあげましょう」
という医者がいるはずがありません。

今、水に溺れてもがいている人に、船に乗った人が近づいて、
「だいぶ水を飲んで苦しんでいるな。
土左衛門になったら船に乗せてやるから安心しろ」
という人がいるはずがありません。

ましてや大慈悲を持たれた本師本仏の阿弥陀如来が、死んだら助けると言われるはずがないのです。
阿弥陀如来は、生きているときに助けるとお約束されているのです。

こうして阿弥陀如来のお約束について、親鸞聖人の不体失往生か、善慧房の体失往生かで争われたので、「体失不体失往生の諍論」といいます。

対立の原因

なぜ、同じ法然上人のお弟子で、しかも首席を争う2人の意見が、こんなにも180度違ってしまったのでしょうか?
それは、阿弥陀如来が命をかけて「必ず生まれさせる」と誓われた「生まれる」の受け止め方の違いによるものです。

善慧房は、生まれるというのは、死ななければ生まれられないのだから、死んだら極楽へ生まれさせるということで、肉体のことだと心得たのです。

ところが親鸞聖人は、「生まれるというのは肉体のことだけではありますまい。
生きているときに暗い心を明るい心に、
不満な心を大満足の心に生まれさせるということです

と受け取られたのです。

この「生まれさせる」を肉体のことと受け取るか、魂のことだと受け取るかによって、体失往生と不体失往生が分かれるのです。

阿弥陀如来の本願の「生まれさせる」が肉体のことなのか、心のことなのかを知るには、阿弥陀如来の本願一つを一生涯解説されたお釈迦さまに聞いてみなければなりません。
お釈迦さまは、どちらが正しいと言われているのでしょうか?

お釈迦さまの判定

善慧房は、「「生まれさせる」というのは、確かに、心のことと解釈することができるかもしれませんが、普通は肉体のことです。勝手な解釈はいけません。これが心のことだという根拠が、お経のどこにあるのですか」と親鸞聖人に詰め寄ります。

すると親鸞聖人は「ありますよ」と言われ、おもむろに『大無量寿経』を開かれて、善慧房に静かに見せました。
それを見た善慧房は、真っ青になって絶句します。

それは、お釈迦さまが阿弥陀如来の本願を解説された「本願成就文」でした。
そこにはこう説かれていたのです。

即ち(その時)往生を得て、不退転に住す。
(即得往生 住不退転)

お釈迦さまは、不退転に住するのはこの経を聞いた時だと言われていますから、これで往生は生きているときのことだとハッキリしました。
お釈迦さまが、親鸞聖人に軍配をあげられたのです。

往生の親鸞聖人の解説

このお釈迦さまのお言葉を、親鸞聖人はこのように明快に教えられています。

本願を信受するは前念命終なり
即ち正定聚の数に入る
即得往生は後念即生なり
即時に必定に入る(愚禿鈔)

本願を信受するは」とは、本願に救われた時、ということです。
本願に救われた時というのは、阿弥陀如来のお約束の通りになって「阿弥陀仏の本願まことだった」とハッキリ知らされた時、ということです。

前念命終」とは、「前念」は心のこと、「命終」は死ぬということですから、心が一度死ぬということです。
即ち正定聚の数に入る」とは、その時、絶対の幸福になれるのだ、ということです。

即得往生」とは、お釈迦さまの説かれた「本願成就文」の「即得往生」です。
その時、往生できるんだ、ということです。
阿弥陀仏に救われたとき、すなわち往生をうるということですから、
親鸞聖人の往生は、阿弥陀仏に救われたときを言われるのです。
なぜなら「後念即生なり」その時心が生まれ変わるのだ、といわれています。
阿弥陀仏に救われた時と暗い心が死んだ時が同時です。
その時、明るい心に生まれ変わるのだ、大安心の心に生まれ変わるのだ、それを往生というのだ、と言われています。

これは暗い魂が死んだ時ですから、肉体は元気な時です。
阿弥陀如来に救われた時、暗い心が死んで明るい心に、不満足な心が死んで、大満足の心に生まれ変わるのです。
これを親鸞聖人は往生といわれています。
これは肉体は生きている時ですから「不体失往生」です。

このお釈迦さまの本願成就文の「即得往生」のお言葉を親鸞聖人が解説されたところはたくさんあります。
例えば『一念多念証文』にはこうあります。

「即得往生」というは「即」はすなわちという、時を経ず日を隔てぬなり。
(一念多念証文)

他にも『唯信鈔文意』にはこうあります。

「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、
「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。
「不退転に住す」というは、すなわち正定聚の位に定まるなり、
「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。
「即」はすなわちという、
「すなわち」というは時をへだてず日をへたてぬをいうなり。(唯信鈔文意)

お釈迦さまが「即得往生」といわれているのは、不体失往生のことだ、ということです。

このように、親鸞聖人は、生きている時の往生を言われていますので、西本願寺が、「現世での往生は説いていない」と言っているのは間違いです。
浄土真宗で言われる往生は死んでからではありません。

では、岩波仏教辞典は正しいのでしょうか?

岩波仏教辞典の往生は?

岩波仏教辞典の『教行信証』の項目に「この世での往生成仏を説いた」とあるように、まず『教行信証』にこの世での成仏が説かれていると書かれています。しかも死んでからの往生は一切書いてありません。

まず、親鸞聖人は一貫して、この世では成仏できないと教えられています。
教行信証』には、こう書かれています。

安養浄刹は真の報土なることをあらわす。
惑染の衆生、此に於て性を見ること能わず、煩悩に覆わるるが故に。
(教行信証真仏土巻)

これは、私達のように煩悩に汚れている者は、この世では、真実に仏性を見ることは不可能であると明言なされたものです。
この意味を和讃にはこのように教えられています。

如来すなわち涅槃なり
涅槃を仏性となづけたり
凡地にしてはさとられず
安養にいたりて証すべし(浄土和讃)

安養」とは阿弥陀如来の浄土のことですから、親鸞聖人は、この世では成仏はできず、浄土へ生まれてはじめて、成仏できると教えられているのです。
ですから、岩波仏教辞典のこの世での成仏を説いたというのは間違いです。

次に、岩波仏教辞典の教行信証の項目に、死んでからの往生が一切書かれていないのはどうでしょうか 。

ところが親鸞聖人は、体失往生も至る所に説かれています。
わかりやすいところで、例えば『末灯鈔』にこう記されています。

この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて往生し候わんずれば、浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし。(末灯鈔)

これは、「親鸞はいよいよ歳が極まった。間違いなく先立って極楽浄土へ往くだろう。
極楽浄土で必ず待ってるぞ。
待っていたのに『なんだ来なかったのか…』ということのないようにな
」ということです。

ですから、この「往生」は、心のことではなく、肉体のことです。
生きているときのことではなく、死んでからの不体失往生のことです。
ですから、親鸞聖人の言われる往生を生きているときだけとするのも間違いです。

このように、親鸞聖人が「往生」といわれたときには、不体失往生の意味もあれば、体失往生の意味もあります。

ですから、東本願寺の学者を参考に、往生を生きているときだけにした岩波仏教辞典も間違いです。

では、岩波仏教辞典はその後、どうなったのでしょうか。
この論争から12年後の2002年(平成14年)に発行された岩波仏教辞典第二版では、『教行信証』の項目の記載は「親鸞」の項目へ移動し、「親鸞」の項目はこうなっています。

浄土真宗本願寺派や髙田派の教義では、命終って浄土に往生し、ただちに成仏すると説くが、真宗大谷派では、信心決定後の生活が往生であり、その帰着点が成仏であると説く。(岩波仏教辞典第二版)

これでは残念ながら「往生は死んでから」という間違いと、「この世で往生成仏する」という間違いを、2つ並べただけです。

このように親鸞聖人の教えは、僧侶や学者でも分かっていない人がたくさんあるのですが、親鸞聖人の説かれる往生は死んでからだけでもなければ、生きているときだけでもありません。
往生に2つあるのです。

ではなぜ親鸞聖人は、「体失往生」も教えられているのに、「体失往生」を主張した善慧房と争われたたのでしょうか?

親鸞聖人が往生で大げんかをされた理由

親鸞聖人が、体失往生も教えられているのに、善慧房を撃破された理由は、生きているときに心の往生ができなければ、死んで肉体の往生はできないからです。

現在の延長が未来ですから、
生きているときの往生ができれば、必ず死んで往生できます。
だから阿弥陀如来は、生きているときの往生をさせることに命をかけておられるのです。

それを善慧房証空は知らずに、死んでからの往生だけを教えていましたから、
親鸞聖人は争いをされてまで、生きているときの往生ができなければ、死んで往生できませんよと、体失往生だけを教えていた善慧房としのぎを削って大論争をされたのです。

生きているときに体験できる往生

このように、阿弥陀如来の本願は、生きているときに往生させるというお約束です。
これを明らかにするために親鸞聖人は、善慧房と大論争されたのです。
暗い心が死んで、明るい心に生き返るというのは、絶対の幸福になるということです。
私たちが生きているのは幸せを求めて生きています。
幸せといっても、続かない儚い幸せではなく、変わらない幸せになるのが目的です。
どんなことがあっても変わらない、死が来ても崩れない幸せは、この絶対の幸福しかありませんから、私たちが人間に生まれてきたのは、この身になるためです。
私たちが人間に生まれてきた目的であり、本当の生きる意味がここにあります。
この目的を果たすために私たちは人間に生まれてきたのです。

この不体失往生の体験を業成ともいいます。
それが平生、生きているときですから、平生業成といいます。
阿弥陀如来の本願のねらいは、平生業成にあるのです。
親鸞聖人は阿弥陀如来の本願一つを一生涯教えて行かれた方ですから、親鸞聖人の教えを平生業成の教えというのです。

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