浄土真宗のお墓参りの意味

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、常々「私が死んだら川へ捨てて、魚に与えよ」と言われていました。
川に捨てたら、墓はありません。
このことから、浄土真宗のお墓には、他の宗派にはない特徴があります。
また、そもそも浄土真宗のお墓にはどんな意味があるのでしょうか?

浄土真宗のお墓のタブー

墓相占いを排除

まず、仏教では因果の道理に立脚して、占いは排斥されていますから、墓相や、墓石の向き、場所などはまったく関係ありません。親鸞聖人も、お釈迦さまの教えられたように、こう教えられています。

占相・祭祀をこのむものは外道なり。(一念多念証文)

占いや祭りごとを好むのは、仏教ではない、ということです。

しかもそれらの占いは、主張する人によって、お墓の形や色や大きさ、環境、方角、などの墓相の内容はまったく異なり、因果関係もなければ統計さえもありません。まったく信ずるに足りないことです。単に脅してお金を儲けようとしているだけですので、そんなことに左右される必要はないのです。

卒塔婆を立てない

墓石の後ろに卒塔婆(そとば)を立てることはありません。
卒塔婆とは、梵語の書かれた板です。
もともとサンスクリットの「ストゥーパ」から卒塔婆と音訳されたもので、もともと仏舎利塔(ぶっしゃりとう)という意味です。
仏舎利というのは、お釈迦さまの骨のことですから、卒塔婆を建てるのは、お釈迦さまの骨を崇めることになります。浄土真宗では、すべての人を救うとお約束された阿弥陀如来一仏に向かいますので、浄土真宗では卒塔婆は立てないのです。

墓石に刻む文字

墓石には、他宗のような「先祖代々の墓」や「何々家の墓」とは書きません。
阿弥陀経』の「俱会一処(くえいっしょ)」が刻まれることもありますが、「南無阿弥陀仏」の御名号を刻むのがいいでしょう。
なぜかというと、墓参りに行くと、墓石に手を合わせるからです。

浄土真宗では墓参りは、先祖供養ではないのです。
親鸞聖人は、「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したること未だ候わず」と『歎異抄』に言われています。
これは、親鸞聖人は亡くなられたご両親の追善供養のたに、一回の念仏も称えたことがない、ということです。
浄土真宗では、しかできない私たちに、亡くなられた方にを差し向け、供養することなどできるはずがないということです。

しかしこのことは、親孝行をしなくていいということではありません。
人間に生まれなければ、仏教を聞いて、迷いの根本を断ち切られ、本当の幸せに救われることもありません。
追善供養はできることではありませんが、生まれがたい人間に生まれさせて頂く縁となったご先祖に感謝するのです。

もし家名を入れる場合は「何々家」という文字を、一段下の台石に刻むという方法があります。

こうして浄土真宗の墓石には、私たちを本当の幸せに救う働きのある「南無阿弥陀仏」を刻み、お墓に向かって手を合わせることは、御本尊に対する礼拝となるのです。

浄土真宗のお墓や墓石の種類

お墓には、一族墓、一家一基墓、個人墓などの種類があります。
墓地が狭く、墓石もお金がかかるので、なるべくまとめたい人が多いですがお寺や霊園の規約などもありますので、確認が必要です。
また、失敗したり継承者の問題で整地するのにも大変なお金がかかることがよくあります。

お墓の敷地内には、墓石や納骨棺(カロート)、花立て、水鉢、線香立て、墓碑、物置台、拝石、灯籠、手水鉢、名刺受け、砂利や植木などありますが、浄土真宗では地蔵や水子供養の関係などは絶対におきません。

墓石は、固くて風化に強い花崗岩(かこうがん)、つまり御影石(みかげいし)が一番よく使われます。
他にも、安山岩、閃緑岩なども使われます。
墓石は、丈夫で長い年月が経っても風化しないものがベターです。

墓石の種類は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔(ごりんとう)というものは使いません。これらは卒塔婆と同じように、仏塔だからです。普通の角石で構いません。

では、親鸞聖人が「私が死んだら川へ入れて魚に与えよ」といわれている浄土真宗で、墓参りは何のためにするのでしょうか?

浄土真宗のお墓参りの意味

おそらくほとんどの人は、お墓参りについて意味など考えるわけでもなく、習慣的にお盆の時にすることが多いのではないでしょうか。

お盆になると、何となく雰囲気的に墓に先祖が集まってくる、それでお墓参りする、と思っています。

ところが仏教の根幹である因果の道理から言えば、お盆だからといって、先祖が急に墓に集まって来られるわけではありません。

ではそうなると、墓参りは何のためにするのでしょうか?
浄土真宗では墓参りにまったく意味はないかというと、そんなこともありません。

心がけ次第で、自分の人生を見つめ、本当の生きる意味を知る、大変よいご縁になります。

毎年毎年、月日は飛ぶように過ぎていきます。
お盆ともなれば、年が始まってから、あっという間に8カ月が過ぎています。

ということは、その間、交通事故で亡くなった方も沢山あるのではないでしょうか。

もし自分が車を運転していて事故にあってしまったら、家族を失ったり、自分が死んだり、その日から大変な悲劇になってしまいます。
自分の運転ミスだけでなく、対向車のミスで突っ込んでくる可能性もないとは言い切れません。
いつそんな悲劇がやってくるかも分からないのです。

それなのに、自分が死ぬとはとても思えず、「」と聞いてもマヒしています。

現代の生活は、どんどん加速して、朝から晩まで、忙しい忙しいと自らのの心に追い回されて、静かに自分自身をかえりみる時間が、あまりにも少なくなっているのではないでしょうか。

忙しければ忙しい程、一つ、世間ごとを断ちきって、冷静に自分を反省する時間がほしいものです。

仏教では、無常を見つめることは大変大切なことだと教えられています。

無常を観ずるは菩提心のはじめなり

無常というと、常がないということで、続かないということです。
何が続かないといっても人生で一番大きな影響があるのは、自分の命が続かないことです。ですから「無常を観ずる」というのは、自分の死を観つめる、ということです。自分の死を観つめるというのは、自分の人生にも限りがある、と知らされるほど、限られた人生で何をすれれば、人間に生まれてよかったという人生になるのかと考えずにおれなくなります。それが、仏教を聞いて本当の幸せになる第一歩だと教えられています。

その点、一年に一度くらいは、大自然の中に静かに墓前で手を合わせることは、
私もやがて死なねばならないのか
と厳粛な思いにもさせられ、自分の人生を見つめる貴重な機会です。

浄土真宗の墓参りというのは、亡くなられた方をご縁に自分の人生を振り返り、生きる意味を考える機会とするものなのです。そして、亡くなられた方をご縁に、今まで仏教を聞いていなかった方も、仏縁にあいやすくなります。

そして、本当の生きる意味は、親鸞聖人が明らかにされていますから、ぜひお墓参りをご縁に聞法精進致しましょう。

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