浄土真宗の宗派

浄土真宗の一番大きな宗派は、西本願寺と東本願寺です。
明治時代から、それ以外にも8つの宗派ができ、真宗十派といわれます。
さらにそれ以降にはもっと増えて、16になっています。
それらはどんな宗派で、どんな違いがあるのでしょうか?

真宗十派

現在、「真宗十派」といわれる浄土真宗の宗派を簡単に表にまとめると以下の通りです。

1浄土真宗本願寺派 西本願寺 本願寺十一代目法主顕如上人の時、石山戦争の和戦派と抗戦派の対立が原因で、次男の准如が西本願寺となった。
2真宗大谷派 東本願寺 本願寺十一代目法主顕如上人の時、石山戦争の和戦派と抗戦派の対立が原因で、長男の教如が東本願寺となった。
3真宗高田派 専修寺 親鸞聖人が関東でご布教なされた時のお弟子、真仏から始まっている。
4真宗仏光寺派 仏光寺 真仏の弟子、源海の系統。蓮如上人の時代に興正寺と分かれた。
5真宗興正派 興正寺 真仏の弟子、源海の系統。蓮如上人の時代に仏光寺と分かれた。
6真宗木辺派 錦織寺 覚如上人の長男、存覚上人の流れを汲む。滋賀県
7真宗山元派 証誠寺 福井県。高田門徒の流れを汲み、元々1つだった山元派、三門徒派、誠照寺派の3派は、鎌倉時代末に分裂した。
8真宗出雲路派 毫摂寺 元々京都にあった毫摂寺が福井に移転した。
9真宗三門徒派 専照寺 福井県。高田門徒の流れを汲み、元々1つだった山元派、三門徒派、誠照寺派の3派は、鎌倉時代末に分裂した。
10真宗誠照寺派 誠照寺 福井県。高田門徒の流れを汲み、元々1つだった山元派、三門徒派、誠照寺派の3派は、鎌倉時代末に分裂した。

浄土真宗の宗派の違い

それではこれらの宗派にはどんな違いがあるのでしょうか。
一つずつ見ていきましょう。

浄土真宗本願寺派

浄土真宗本願寺派は、正しくは竜谷山本願寺と称し、西本願寺や「お西」とも言われる最大宗派で、親鸞聖人の末娘である覚信尼を開基としています。
1591年に11代目の顕如上人は豊臣秀吉の援助を受けて、京都の六条堀川に本願寺を再興します。その翌年、顕如上人が亡くなると、長男の教如が後を継ぎますが、その翌年には次男の准如が譲り受けます。
その10年後、政権を取った徳川家康が、長男の教如に土地を与え、新たに本願寺を建てることになります。これによって本願寺が東西に分かれたのです。 顕如上人の時代に門跡に列せられてから、寺務を統括していましたが、14代目の寂如上人の時代に制度が完備され、末寺を統括しました。
1639年には学寮を開設し、能化職廃止ののち1824年に勧学職が置かれました。これが現在の龍谷大学に発展しています。
西本願寺は火災に遭うことが少なく、国宝や国の重要文化財に指定されている建造物も多く、親鸞聖人像などの寺宝も数多く残されています。

真宗大谷派

真宗大谷派は、西本願寺に対して東本願寺、大谷本願寺や「お東」とも言われます。本願寺が東西に分かれる前の顕如上人の長男の教如が開基です。
1602年に徳川家康から京都の七条烏丸に土地の寄進を受けた教如は、本願寺を別立します。大師堂や伽藍も整備され、大師堂には木彫の親鸞聖人像が安置されました。
1639年に家康はさらに土地を寄進し、学寮などが整備されましたが、度重なる火災によって堂宇は焼失しました。現在の本堂と大師堂は明治時代に再建されたもので、世界最大の建築物だと言われています。
1875年には大・中・小教校を設けて宗門指定の教育を行い、現在の宗立学校の前身となりました。
寺宝として、親鸞聖人自筆の『教行信証』や国の重要文化財に指定されている本願寺聖人伝絵などがあります。
1981年に宗憲を改めて本願寺を真宗本廟と少呼び、門首制を敷きました。

真宗高田派

真宗高田派は、本山は高田山専修寺で、専修阿弥陀寺や無量寿寺とも言われます。親鸞聖人のお弟子の一人、真仏が栃木県の高田の門徒の中心となって同朋を指導しました。関東を中心に東北地方から東海地方にまで広がり、室町時代までは高田門徒が最大宗派で、高田専修寺は真宗の総本山的な立場にありました。
10代目の真慧は北陸や近畿地方の布教に尽力し、特に伊勢で門徒を集め、寺院が次々と高田派に転宗したため、1465年に伊勢の一身田に本寺を移し、現在の高田派の本山とします。
その後二度の火災によって、寺院のほとんどを焼失しますが、勧学寮を建てて宗学の振興に努め、現在の高田学苑として引き継がれています。
御影堂、如来堂は国の重要文化財に指定されており、寺宝として親鸞聖人自筆の真影、自筆の『三帖和讃』などがあります。

真宗仏光寺派

真宗仏光寺派は、真宗高田派の真仏の流れをくむ7代目の了源が1320年に関東から京都へ上京し、存覚上人の指導を受けて、1324年に山科に興正寺を建て、その後、京都渋谷に移したとき、仏光寺と改めたものです。
光明本尊」「名帳(みょうちょう)」「絵系図(えけいず)」を用いて布教し、多くの門徒を獲得して、一時は本願寺をしのぐほどの勢力を誇りました。
名帳」とは極楽往生が決定した者を、その証明として記録したもので、「絵系図」とは教えが受け継がれた筋道を人物の肖像入りで説明した系図のことです。
しかし、このようなものは親鸞聖人の教えにはないので、本願寺3代目の覚如上人は『改邪鈔』で批判されています。
その後、応仁の乱で寺院のほとんどを焼失し、本願寺8代目の蓮如上人の布教が盛んになると、14代目の経豪は仏光寺の大半の四十二坊を引き連れて本願寺に帰属します。残った六坊は経豪の弟の経誉をたてて堂宇を再建し、経誉の子の経光を跡継ぎにしました。
寺宝として、国の重要文化財に指定されている木像聖徳太子像などがあります。

真宗興正派

真宗興正派は、仏光寺14代目の経豪が本願寺に帰属し、山科に一宇を設け興正寺としました。仏光寺の多くの末寺も経豪に従って本願寺の門下に入っています。
経豪が亡くなると長男の蓮秀が後を継ぎますが、その頃、法華宗徒によって本願寺が焼き討ちにされ、大阪の石山に移ります。それに伴って、興正寺も大阪天満に移り、その後、本願寺が京都に戻ったときにも、興正寺はその南隣である現在地に移りました。江戸時代には幕府の裁定により西本願寺の末寺となりました。
その後、明治政府の宗教政策に巻き込まれ、西本願寺と対立し、1876年に独立して真宗興正派となりました。このとき、二千五百といわれていた末寺のほとんどは本願寺に帰属してしまい、興正寺の勢力は、わずか三百に満たないほどになってしまいました。

真宗木辺派

真宗木辺派は、もとは延暦寺第3代座主の慈覚大師円仁が毘沙門天を祀るために建てた御堂が始まりと言われています。
親鸞聖人が関東から京都へお帰りになる途中、この御堂に一夜の宿をとられ、その縁で多くの人が聖人の教えに感化され、村主の石畠資長が聖人のお弟子となり、木辺門徒の基礎を築いたとされています。
本願寺8代目の蓮如上人の時代に、本願寺が勢力を拡大すると、7代目の勝慧が蓮如上人に帰依し、木辺門徒の多くが本願寺に移り急速に衰退します。その後の石山合戦のときには、織田信長の攻撃を恐れて浄土宗鎮西派に転宗し、宗義は大混乱に陥り、木辺派は荒廃の一途をたどります。
しかし、1702年に徳川5代将軍綱吉の母、桂昌院の援助を受けて御堂を再建し、14代目常慈のときに真宗教団への復帰を果たしました。

真宗山元派

真宗山元派は、本山は山元山護念院証誠寺で、横越本山とも言われます。寺伝によると、親鸞聖人が越後に流されるとき、越前国山元の庄に立ち寄って布教をされたのが証誠寺開山のもとだとされています。
本願寺8代目の蓮如上人が越前吉崎に御坊をつくり勢力を拡大すると、北陸の門徒の大半が蓮如上人の門下に入ってしまったため、門徒が激減し証誠寺の勢力は衰えていきました。
戦国時代には越前の国主朝倉氏に加勢したため、織田信長の攻撃を受け堂宇伽藍がすべて焼き尽くされてしまいます。さらに、1596年に毫摂寺が独立すると、ますます証誠寺の勢力は衰えていきます。
江戸時代には天台宗の所属となり、1878年に許可を得て別派独立し山元派を称するようになりました。

真宗出雲路派

真宗出雲路派は、本山は出雲路山毫摂寺といい、本願寺3代目の覚如上人の高弟で乗専という人が開基です。もとは清範法眼という丹波出身の修行者で、天台密教を学んでいました。しかし、その後覚如上人から親鸞聖人の教えを聞き、1331年に本願寺に帰依します。それ以降は乗専と名乗り、丹波の寺も本願寺に寄進しました。
応仁の乱で堂舎が焼失し、5代目の善幸は越前横越の証誠寺を頼って移転しますが、その後証誠寺と対立し、1596年に現在地に移転して毫摂寺が再建されます。
毫摂寺は、元禄年間には天台宗青蓮院に属し、1872年に本願寺派の所属となったのち、1878年に許可を得て独立しました。

真宗三門徒派

真宗三門徒派は、本山は鹿苑山専照寺で、開基は浄一という人です。宗派名の三門徒とは、室町時代に越前にあった横越門徒、鯖江門徒、中野門徒の総称で、その始祖は如道です。
如道は、真仏の高田門徒の流れをくみ、1290年に越前大町に大町専修寺を建立します。如道の次男の如浄と三男の了泉が専修寺を継ぎますが、了泉の子の浄一が弟の浄光と対立し、弟の浄光は専修寺に残り、兄の浄一は足羽郡蕗野郷中野に移り専照寺を建てました。
こうして浄一は中野門徒を率いることになります。1437年には将軍足利義教の帰依を受け、鹿苑院の領地を賜り、1724年に現在地に移転します。
1585年には正親町天皇から勅願寺の指定を受け、「中野の本山」と呼ばれました。しかし、江戸時代には一時天台宗に所属したこともあります。明治政府が小宗派の独立を禁止したため、1872年に大谷派に所属しましたが、1878年に別派独立の許可を得て、三門徒派を名乗るようになりました。

真宗誠照寺派

真宗誠照寺派は、本山は上野山誠照寺です。上野庄の領主、波多野影之は親鸞聖人が越後へ流刑になるとき、屋敷に招じて聖人から教えを聞いてお弟子となり、空念と称するようになります。その後、空念は親鸞聖人の第5子である益方入道有房と、その子如覚を迎えて鯖江門徒を率い、勢力を拡大しました。
戦国時代には北陸地方を中心に勢力を広げ、織田信長が本願寺と対立したときには信長から助勢を求められています。そして、信長の家臣の柴田勝家に協力して越前の平定に力を貸したため、のちに柴田勝家が豊臣秀吉と戦ったとき、誠照寺に火を放たれ堂宇が焼失しました。15代目の秀誠の活躍で復興し、江戸時代には「鯖江の本山」と呼ばれて隆盛しました。
その後、日光の輪王寺に所属し、1872年の明治政府の小宗派独立禁止の公告によって、一時天台宗に所属しましたが、1878年に真宗誠照寺派として独立しました。

宗派の16種類と割合

真宗十派」というのは明治時代のことで、昭和20年以降にはもっと増えました。
現在では16になっています。浄土真宗の各宗派の平成30年における門徒数の割合は以下の通りです。
NO. 宗派 寺院数 門徒数 割合
浄土真宗本願寺派 10,167 7,908,818 49.093%
真宗大谷派 8,516 7,780,331 48.296%
真宗高田派 626 224,480 1.393%
真宗仏光寺派 357 47,940 0.298%
真宗興正派 499 33,230 0.206%
真宗木辺派 213 50,308 0.312%
真宗山元派 20 1,486 0.009%
真宗出雲路派 57 11,150 0.069%
真宗三門徒派 35 15,500 0.096%
10 真宗誠照寺派 52 13,000 0.081%
11 真宗浄興寺派 15 17,548 0.109%
12 真宗長生派 1 1,456 0.009%
13 真宗北本願寺派 3 435 0.003%
14 浄土真宗同朋教団 3 1,163 0.007%
15 浄土真信宗浄光寺派 4 1,284 0.008%
16 弘願真宗 7 1,666 0.010%

(出典:文化庁 宗教年鑑)

浄土真宗の宗派の歴史

親鸞聖人がお亡くなりになると、末娘の覚信尼がとりしきって葬儀を行いました。
そして、10年後には関東の門徒の援助を受けて、西吉水に六角堂を建て、聖人の遺骨を改葬します。これが大谷本廟です。この大谷本廟は、本願寺3代目の覚如上人の時に寺院化され、本願寺となりました。

親鸞聖人のお弟子の多くは関東布教時代に教化したもので関東に集中しており、それぞれの地域で門徒集団を形成していきます。
有力なのは、真仏を中心とする高田門徒、順信を中心とする鹿島門徒、性信や善性を中心とする横曽根門徒などです。
中でも、茨城県の横曽根門徒は親鸞聖人のご在世中、最も有力な門徒集団でした。しかし、本願寺の継承争いによって、次第にその勢力は衰えていきます。
横曽根門徒に代わって関東の中心となったのが、真仏を中心とする茨城県の高田門徒です。高田門徒は、本願寺8代目の蓮如上人が本願寺の勢力を拡大するまで、浄土真宗の総本山の役割を果たしていました。

そして、浄土真宗の門徒集団は北陸にも広まっていきます。
現在、福井県には誠照寺派、三門徒派、山元派、出雲路派の四派の本山がありますが、出雲路派を除く三派は、高田門徒の流れをくむ門徒集団の分派です。
北陸の布教に大きな役割を果たしたのが、三派の開祖といわれる如道です。如道は福井県大町の車屋道場を拠点に布教を進め、のちに大町専修寺を建立します。
また、如道の弟子の道性は証誠寺を創建しました。道性の率いる横越門徒は、大町専修寺の門徒の中で最も力があり、その勢力は滋賀県や岐阜県にまで及ぶほどでした。
その後、本願寺8代目の蓮如上人が福井県の吉崎で布教をされるようになると、北陸の門徒はこぞって蓮如上人の門下に入ってしまいます。すると、証誠寺の勢力はすっかり衰えてしまいました。

蓮如上人の時代は、戦乱に加えて大飢饉が発生し、各地で土一揆が勃発していました。
そんな中、蓮如上人は時代の動きを読み取り、親鸞聖人の『正信偈』を拝読するお勤めを門徒全員の日課としたり、庶民の中に入って御文章といわれるお手紙や、誰とでも平座で話せる寄り合いを設けるなどして、正しい親鸞聖人の教えを最も多くの人に伝えていかれました。
これにより、本願寺の勢力は大きく拡大し、門徒一千万人を超える現代の浄土真宗の発展の礎となります。

この蓮如上人の精力的な布教活動により、比叡山の反発を招くこととなり、1465年に延暦寺の宗徒が本願寺を襲撃しました。これを「寛正の法難」といいます。その後は各地を転々としながら徐々に門徒の輪を拡大していきます。
1483年には京都山科に本願寺を再興し、76歳で隠退して五男の実如に本願寺住職を譲った後、大阪石山に御坊を建立して隠居所としました。のちにこの御坊は石山本願寺として発展します。

それに対し他派では、内部抗争が次々と起こりました。
そして、1481年には仏光寺の経豪が、翌年には毫摂寺の善鎮が、1493年には錦織寺の勝慧が末寺や門徒を率いて本願寺に帰属します。これにより、高田派を除く真宗諸派のほとんどは本願寺に吸収されました。

そんな本願寺の強大な勢力は、天下統一を目指す織田信長にとっても目障りな存在となっていました。信長は本願寺に巨額の援助金を要求したり、明け渡しを要求したりしたため、11代目の顕如上人は各地の門徒に呼びかけ、1570年10年にも及ぶ石山合戦が始まりました。
10年目に和議を結ぶと、顕如上人は石山本願寺を明け渡し、和歌山県に移りました。
その後、豊臣秀吉が天下を統一すると、秀吉は本願寺と手を結ぶ政策を選び、1585年に顕如上人は本願寺初の大僧正に任ぜられます。さらに、1591年には京都六条堀川に寺地を賜り、本願寺が再興されました。これが現在の西本願寺です。
顕如上人の没後は、次男の准如が本願寺12代目に任命されました。

秀吉が亡くなり、政権が徳川家康に移ると、家康は本願寺の勢力を二分しておくことがよいと考えます。そして、顕如上人の長男の教如に、京都七条烏丸の土地を与え、もう一つの本願寺を建てさせました。これが現在の東本願寺です。こうして、本願寺の勢力は東と西に二分されることになりました。

明治時代になると、浄土真宗の門徒は十派に分かれ、各派は、ともに親鸞聖人を宗祖と仰ぎながら、それぞれ独自の布教活動を展開しています。
その後も宗派は増え、1969年(昭和44年)、明治時代にあった真宗十派は真宗教団連合を結成していますが、現在、文化庁の宗教年鑑では16の宗派があります。

このように現在、浄土真宗には色々の宗派ができ、教義も同じとは言えませんが、そもそもの本当の親鸞聖人の教えとはどんなものなのでしょうか?
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