西本願寺と東本願寺の違い

よくある西本願寺と東本願寺の違いの質問

文化講座を開いた休憩の時間などに、
何かご質問はありませんか?」と聞くと、
西本願寺と東本願寺はどう違うのでしょうか?
という質問は結構あります。
ずっと疑問に思っておられたのでしょう。

織田信長に10年間引けを取らない信の力

本願寺が東西に分裂した原因は、1570年から1580年までの10年間、織田信長と石山本願寺が間戦った石山戦争までさかのぼります。

桶狭間の奇襲によって、戦えば勝ち、攻めれば落ち、朝に一城、夕に一国と領土を拡げ、群雄草の如くなびかせ、五畿内の猛将を馬前の塵に蹴った織田信長も、
進めば極楽、退けば地獄
と書いたムシロ旗をかかげて一死報恩の覚悟で戦った「南無六字の城」の為に、実に前後十数年の持久戦を続けざるを得ませんでした。

頼山陽は

豈はからんや、右府千軍の力、抜き難し、南無六字の城

と驚いています。

信長が天下統一のチャンスを失ったのは、実にこの無用な戦の為だったといわれます。

和戦派と抗戦派の分裂

信長は最後は正親町天皇を仲裁にたてて和議を求めて来たのですが、この時開城するか抗戦するかで本願寺内の議論は真っ二つに分かれたのです。

それが、東西本願寺分裂の遠因となりました。

時の11代宗主、顕如上人と次男の准如とは和解の勧めに従おうとしたのに対し、長男の教如は籠城して徹底的抗戦を主張してゆずらず、きびしく両派は対立することになりました。

一朝の思いつきで叡岳三千坊を焼き払い、高僧から美女小童に至るまで数千人を火中に投げ込んだ織田信長。
またすでに和解したにもかかわらず、残虐非道な大量殺りくが行われた長島一揆などを知っていた教如は、信長のやり方がどんなものであるか骨身に沁みていたに違いありません。

そこで顕如上人は己に順わない教如を義絶し、弟の准如をたてて御真影と共に和歌山の鷺の森別院へ移ったのです。

ところが果して、姦雄信長の軍勢は、その後間もなく雑賀騒動を機として、浄土真宗殲滅を期して追撃して参りました。

その時の総軍師が明智光秀だったのです。

明智光秀の三日天下

1582年6月、暁の風を切って粛々と進む光秀の大群が大江山にさしかかるや、右すれば備中に走る道を
敵は鷺の森の本願寺に非ず、本能寺にあり
と馬首一転、鬢髪をふり乱した美少年の森蘭丸に護られた織田信長が49才の生涯を火中に葬るという一大悲劇があったが為、危く本願寺は救われたのです。

だから三日天下の明智光秀は浄土真宗にとっては大恩人ということになります。

後日かかる事変を知った顕如上人は教如の義絶は解きましたが、親子の溝は深まるばかりで、やがて教如をおいて弟の准如へ本願寺12代目の宗主の職をゆずることになりました。

これが今日の西本願寺です。

その後、戦乱はおさまって、利口な秀吉は、さわらぬ本願寺にたたりなしの態度で一生終わりましたが、徳川家康は天海僧正の謀略によって、この不遇をかこっていた教如に目をつけ、本願寺勢力の分割を謀って、寺地を寄進して東本願寺を別立させることに成功しました。

そのため、江戸時代は東本願寺が主流となりました。
明治時代に入ると天皇家と仲良くした西本願寺が勢力を伸ばし、東本願寺は分裂して勢力を弱めます。

東西本願寺の冷戦の現状

こうして浄土真宗の勢力は真っ二つに分断され、東西両本願寺は冷戦を続けるようになりました。
西が御影堂を南に置けば、東は北に建てる。
片方が『御文章』と言えば一方は『お文さま
一方が『領解文』といえば片方は『改悔文
西が報恩講を正月に勤めると、東は十一月に変える。
その他、僧侶の位階、学階、仏前の荘厳、『正信偈』の読みぐせまで一々変えて、互いにいがみ合うようになったのです。

まことに愚にもつかない意地を張っているとすれば、情けないかぎりです。

現在の浄土真宗は、葬式法事仏教となり、東西本願寺はじめ真宗十派は日に日に衰退しています。そんないがみ合っている場合ではありません。
親鸞聖人のみ教えのもとに団結して、一人でも多くの方と浄土真宗の教えを学ばせていただきましょう。

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