蓮如上人の御遺言

御文章」4帖目15通は、蓮如上人が85歳でお亡くなりになる前年の秋に書かれたものです。
今日の浄土真宗が日本最大の宗派といわれる基礎を一代で築き上げた蓮如上人の最後の筆の跡ということで、蓮如上人の御遺言といわれています。一体どんなことが書かれているのでしょうか?

遺言とは

遺言というのは、人生の最後に言い残す言葉です。
世間でも、いい加減なことは言い残したり書き残したりしません。
例えば、
「冷蔵庫の納豆の賞味期限が迫っているから、早めに食べておいてくれ」とか、
「玄関の前の石は邪魔だから、向きを変えておいてくれ」
というどうでもいいことは、わざわざ遺言に書き残されることはないのです。
どんなことが遺言されるかというと、これだけは言い残さなければ死んでも死にきれない、
人生の最後に、これだけは分かってもらいたい、ということです。
人生の総決算として、命と引き換えに言い残す言葉が遺言ですから、一番大事なことを言い残すのです。

蓮如上人は43歳で本願寺を継がれてより、日本全国津々浦々に親鸞聖人の明らかにされた本当の生きる意味を伝えられ、わずか一代で、浄土真宗が今日、日本最大の仏教の宗派になる基礎を築かれました。
その蓮如上人の壮絶な人生の最後に、一体どんなことを書き残されたのでしょうか?

御文章4帖目15通

蓮如上人が最後に書かれた筆の跡、御遺言がこの御文章4帖目15通です。

いよいよ貴賤・道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあいかない、別しては聖人の御本意に足りぬべきものか。
それについて、愚老すでに当年は八十四歳まで存命せしむる条不思議なり。
まことに当流法義にもあいかなうかのあいだ、本望のいたりこれに過ぐべからざるものか。
然れば愚老、当年の夏頃より違例せしめて、今に於て本復のすがたこれなし。
ついには当年寒中には、必ず往生の本懐を遂ぐべき条、一定と思いはんべり。
あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり。
まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし。

これは一体どういう意味なのでしょうか?

私たちの生まれてきた目的は?

まず「いよいよ貴賤・道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあいかない、別しては聖人の御本意に足りぬべきものか」と言われています。

金剛堅固の信心」とは、ダイヤモンド(金剛石)のように固い信心ということで、他力の信心のことです。
貴賤・道俗をえらばず」とは、身分の高い人も、そうでない人も、僧侶も在家の人も、どんな人もということです。
すべての人が、信心決定することが、阿弥陀如来の本願にかなうのですよ、といわれています。

そして、聖人一流の章でも教えられているように、親鸞聖人の教えは信心をもって本とされていますから、信心決定することが、親鸞聖人の御心にもかなうのだといわれています。
私たちが生まれてきた目的は、信心決定して絶対に変わらない幸せになるためなのです。

では、蓮如上人はどうされたのでしょうか?

蓮如上人のご生涯は?

次に「それについて、愚老すでに当年は八十四歳まで存命せしむる条不思議なり。
まことに当流法義にもあいかなうかのあいだ、本望のいたりこれに過ぐべからざるものか

といわれています。

愚老」とは、蓮如上人ご自身のことです。この愚かで年老いた蓮如は、といわれています。
当年は八十四歳まで存命せしむる条不思議なり」といわれるのは、当時の室町時代の平均寿命は15歳といわれますので、6倍近くの長生きです。現代の平均寿命は80歳とすれば450歳にあたりますので、当時としては大変な長命です。
朝には紅顔あって、夕には白骨となる儚い命を持ちながら、こんなにも長生きできたことは不思議なことだと言われています。

それというのも、親鸞聖人が、他力の信心を決定すれば、若死にを免れるといわれている。
そういわれている親鸞聖人のお言葉はこちらです。

南無阿弥陀仏をとなうれば
この世の利益きわもなし
流転輪廻のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ

南無阿弥陀仏をとなうれば」というのは、他力の信心を決定して、お礼の念仏を唱えればということ。「中夭(ちゅうよう)」とは若死にのことです。

まことに当流法義にもあいかなうかのあいだ、本望のいたりこれに過ぐべからざるものか
信心決定した人は若死にすることはない、といわれる親鸞聖人の教えにもかなうから、幸いにも長生きできたその間、蓮如は一人でも多くの人に、この他力の信心を決定してもらいたいと、親鸞聖人の教えを伝えてきた。
自らも信心決定でき、人にもお伝えして、これまで全力でやってきたから、これ以上の望みはない。この蓮如は幸せであった。もういつ死んでも悔いはない、ということです。

夏頃から調子を崩してもう治る見込みはない

次に「然れば愚老、当年の夏頃より違例せしめて、今に於て本復のすがたこれなし。
ついには当年寒中には、必ず往生の本懐を遂ぐべき条、一定と思いはんべり

と言われています。

然れば」とはけれども、ということです。
愚老、当年の夏頃より違例せしめて」とは、このお手紙は11月の秋頃に書かれたものですが「この愚かで年老いた蓮如は、今年の夏頃から、具合が悪くなってきた」といわれています。
今に於て本復のすがたこれなし」ということは、今となっては回復の兆しは見えない、ということです。
ついには当年寒中には、必ず往生の本懐を遂ぐべき条、一定と思いはんべり
この分では、今年の冬を越すことはできないだろう。
自分の体のことは、自分が一番よく知っている。
ついに今年の寒い中には、弥陀の浄土へ往生することだろう。
現代でさえも風邪やインフルエンザが流行して、夏よりも冬の死亡率は高くなります。
昔の暖房は今とは比較になりませんので、冬を越すのはそれだけ大変だったのです。

しかし蓮如上人は、親鸞聖人の教えを聞いて、信心決定しておられましたので、死ねば往生することは間違いないといわれています。
往生」とは、極楽へ往って、仏に生まれることです。
一定」とはハッキリしているということです。
信心決定すれば、死ねば必ず、弥陀の浄土へ往って仏に生まれるのです。

いよいよ皆さんともお別れの時がくる。
最後にこの蓮如、皆さんに言っておきたいことがある、とこう書き記されています。

最後に言わねば死んでも死にきれないこと

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり。
まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし

あわれあわれ」とは、「もののあわれ」ということではありません。
かわいそうだな、不憫だなということです。
何がかわいそうなのかというと、次に「存命のうちに」といわれています。
命のある間ですよ、死んでからでは間に合いませんよ、ということです。
何が死んでからでは間に合わないのかといいますと、「皆々信心決定あれかし」と言われています。
すべての人が、死後に後生の一大事という大問題を抱えていますから、 どうか皆さん、すべての人に、後生の一大事を解決してもらいたい、信心決定してもらいたい、ということです。

朝夕思いはんべり」とは、朝な夕な、ということです。
朝から晩、晩から朝まで、24時間ぶっ通しで思わずにおれないのだ、ということです。
私たちが朝から晩まで考えていることは何でしょうか?
お金が欲しいとか、評価されたいとか、好きなことがやりたいとか、自分の欲望を満たすことばかりです。
ところが蓮如上人が一日中思っておられることは、私たちに後生救われてもらいたい、信心決定してもらいたいということなのです。

まことに宿善まかせとはいいながら」とは、信心決定は、宿善まかせといわれます。
まかせ」というのは、船に乗ったら船頭任せ、病気になったら医者任せ、農家の方は天候任せと言われます。
信心決定は宿善任せですから、宿善で決まるということです。
では宿善とは何かといいますと、仏縁ということで、それは聞法心となって表れます。
宿善の厚い人は、仏教を聞きたいという気持ちが強く、宿善の薄い人は聞法心は弱いのです。
蓮如上人が御文章4帖目8通に、「無宿善力及ばず」と言われるように、仏教を聞かなければ、絶対に信心決定できません。

まことに宿善まかせとはいいながら
間違いなく宿善が一番大事だということは、この蓮如よく知ってはいるけれど、仏教を聞かなければ助からないとはいいながら、「述懐のこころ暫くも止むことなし
どうか仏教を聞いて、信心決定してくれよ、という心は片時も忘れることができないんだ。
言わずにおれないんだ、叫ばずにおれないんだ。
どうかあなたも仏教を聞いて、信心決定してもらいたい。

こう書き記されて、蓮如上人は、ついに浄土へとかえってゆかれたのでした。
これが、末代の人たちに、どうしてもこのことを書き残さなければ死んでも死にきれないという蓮如上人の御遺言です。

では、どうすれば信心決定できるのかについては、浄土真宗の本質ですので、以下の講座をご確認ください。

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