「現代人の仏教教養講座」

 

「浄土真宗」入門講座

浄土真宗の大切な所をわかりやすく解説

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生きる意味を、知ろう。

因果応報とは

因果応報」とは、「因に応じて果が報う」ということで、原因に応じた結果が現れることです。
類語としては「自業自得」も同じ意味です。
世の中では、悪いことをしている人が、その悪い報いを受けることがあるのか、ないのか、因果応報は本当にあるのか、それともないのかが議論されています。
因果応報は本当にあるのか、仏教を教えられた親鸞聖人に聞いてみましょう。

因果応報の意味

因果応報」は、生きる意味を知る上で非常に重要です。
因果応報が分からないと、私たちは何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、なぜ生きねばならないのか。
本当の生きる意味は分かりません。
本当の生きる意味も、因果応報も、非常に大切なことですが、それが教えられているのが仏教です。

因果応報の由来

因果応報は、因果の道理ともいいますが、仏教には、因果の道理を根幹として、本当の生きる意味一つを教えられています。

仏教とは、約2600年前、お釈迦さまが説かれた教えです。 35歳で仏のさとりを開かれて、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、お釈迦さまが説かれた教えを仏教といいます。

その仏教をそのまま教えられたのが親鸞聖人です。
親鸞聖人の教えとか浄土真宗といいますと、仏教とは少し違う教えのように思う人がありますが、そうではありません。
親鸞聖人は、常に仏教以外に教えられたことはありませんでした。
そのことは、親鸞聖人自ら、このように言われています。

更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。
御文章

珍しき法」とは、今まで誰も説かなかった新しい教えです。
親鸞聖人は、この親鸞は決して、新しい教えを広めているのではないと言われています。
では誰の教えを説かれたのかというと、「如来の教法」といわれています。
如来」とは、釈迦如来のことで、お釈迦さまのことですから、「如来の教法」とは、釈迦の教え、仏教です。
仏教を、私も間違いないとハッキリ知らされ、皆さんにもそのままお伝えしているだけなんだ、といわれていのが、「われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」ということです。
ばかりなり」ですから、それ以外にありません。
親鸞聖人が教えられたことは仏教以外にないのです。
ですから浄土真宗イコール仏教です。

仏教は、お釈迦さま45年間の教えですが、それは今日たくさんのお経に書き残されています。
その全体を「一切経」といわれ、その数七千余巻といわれる膨大な経典です。

その一切経を一貫して教えられているのが因果の道理です。
七千余巻のどれを選んでも説かれているのは因果の道理です。
ですから因果の道理は、仏教の根幹といわれます。

ですから因果の道理が教えられていなければ、仏教ではありません。
外道といわれます。
因果の道理が説かれているかどうかで、仏教かどうかを区別することができます。
親鸞聖人が教えられたことは仏教以外にありませんから、因果の道理が説かれているのです。

では因果の道理とはどんなことなのでしょうか?

因果の道理とは?

道理とは

まず、因果の道理の「道理」とは、三世十方を貫くものということです。
三世とは、過去、現在、未来のことで、いつでも、ということです。
十方とは、東西南北上下四維しゆいのことで、どこでもということです。
いつでもどこでも成り立つものを仏教では道理といわれます。
昔は正しかったけど今日はそれは正しくなくなったというものは道理ではありません。
お釈迦さまの2600年前も、現代の日本でも間違いないことが道理です。
また、インドでは成り立っても、日本では成り立たないものは、道理ではありません。
日本でも中国でもインドでも、どこでも成り立つものが道理です。
いつでもどこでも変わらない大宇宙の真理を教えられたのが仏教なのです。

因果とは

次に、因果の道理の「」とは原因で、「」とは結果のことです。
因果の道理とは「すべての結果には必ず原因がある」ということです。
原因なしに起きる結果は万に一つ、億に一つもありません。
わかりやすくいいますと、「まかぬたねは生えぬ、まいたたねは必ず生える」ということです。

例えば、飛行機が墜落して、太平洋の底深く沈んでしまったという傷ましい事件があったとします。
フライトレコーダーが深さ何千メートルの海底に沈んでしまい、生存者が一人もいなければ、原因を解明することはほとんどできません。
しかしそれは、原因が分からないということであって、原因がない、ということではありません。
エンジンが故障したとか、何か原因があって、墜落という結果が起きたのです。

原因が分からないことと、原因がないこととはまったく異なります。
この世のことすべては、どんな小さな結果にも、必ずそれに応じた原因があるのです。この因果の道理に立脚して、合理的に教えられているのが仏教なのです。

因果の道理が分からない人は?

この因果の道理を否定するのは、仏教ではありません。
仏教では、仏教以外の宗教を「外道」といいますから、親鸞聖人はこう言われています。

仏言を取らざるを「外道」と名づく。因果を撥無する見を「空」とす。
教行信証

仏言を取らざるを外道と名づく」とは、仏教ではない教えを外道という、ということです。
撥無(はつむ)」とは、はねつけることです。
原因がないときもあるとか、結果がないときもあるとか、「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理をはねつける考え方は「」といわれる外道だ、と教えられています。

では、原因と結果には、どんな関係があるのでしょうか?

原因に応じた結果とは?

原因と結果にはこのような関係があるとお釈迦さまは教えられています。

善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあっか)
自因自果(じいんじか)

善因善果」とは、善い原因は善い結果を生じる、善い結果は必ず善い原因に引き起こされるということです。
悪因悪果」とは、悪い原因は悪い結果を引き起こす、悪い結果は必ず悪い原因に引き起こされる、ということです。
自因自果」とは、自分のたねまきは、自分に結果が現れてくるということです。

善い原因が悪い結果を引き起こすこともなければ、悪い原因が善い結果を引き起こすこともありません。
自分のまいたたねは、自分が刈り取らなければならないということです。

わかりやすくいいますと、大根のたねをまけば、大根が出てくる。
かぼちゃのたねをまけばかぼちゃが出てくるということです。
大根のたねをまいてかぼちゃが出てくることもなければ、かぼちゃのたねをまいて大根が出てくることもありません。

この「たね」というのは「行い」のことです。
善いたねというのは、善い行い、悪いたねとは、悪い行いのことです。
結果とは、運命のことです。

この原因と結果の関係を、『大無量寿経』には、こう説かれています。

善悪報応し禍福相承く。
身自らこれに当たる、誰も代わる者なし。(大無量寿経)

善いこと、悪いこと、それぞれに応じた幸せや不幸を受ける。
自分がまいたたねは、誰も代わって刈り取ってくれる人はなく、すべて自分が刈り取らなければならない、ということです。

親鸞聖人は、このように教えられています。

善き事ことに行えば
幸い来たると思うべし
悪しき事を行えば
災いことに来たるなり
(大日本国粟散王聖徳太子奉讃)

善いことをすれば幸せが生じ、悪いことをすれば、災いを引き起こすのです。

すべての人は、何のために生きているのかというと、幸せになるためです。
不幸になるためという人はありません。
生きる目的は幸福であり、幸福になることが、生きる意味なのです。

幸福というのは善い運命で、不幸というのは、悪い運命のことです。
善い運命や悪い運命は、何によって起きてくるのかというのは、すべての人が一番知りたいことです。
この善い運命や悪い運命がどうして造られたのかを徹底的に教えられたのが仏教です。

お釈迦さまも親鸞聖人も、善い行いをすれば幸せが生じ、悪い行いをすれば不幸や災難が引き起こされる、善いのも悪いのも自分のまいたたねまきの結果なのだと教えられているのです。
これを「因果応報」といいます。

因果応報の具体例

例えば、学生なら、勉強をすれば、成績が上がります。
勉強をせずにマンガばかり読んでいれば、成績は上がりません。
これも因果応報です。

お酒を飲めば、酔っ払ってふらふらになるのは自分ですし、餅を喉に詰まらせて苦しむのも、自分があわてて餅を食べたからです。
これも因果応報です。

ところが、自分に都合のよい、幸せな運命が来たときには、これは自分のたねまきの結果だ、因果応報は間違いないと思うのですが、自分に悪い運命が来たときには、なかなか自分のたねまきだと思えません。
自分が苦しんでいるのは、あいつのせいだ、こいつのせいだと思います。
例えば、こんな人と結婚したからだ。
こんな子供のために苦しんでいるのだ、と思います。
では、そんな人と結婚したのは誰か。
そんな子供を産んだのは誰か。
自分がそんな相手を選んで結婚して、そんな子供を産んだのです。
やはり自分の行いに原因があります。

自分の都合のよい時は因果応報を認められるのですが、都合が悪いときは認められないというのは、一貫していません。
因果の道理は宇宙の真理ですから、いつでもどこでも成り立ちます。
自分に都合の悪い結果が来たときに、自分の行いをよく反省しなければならないのです。

因果応報が知らされると?

この因果応報がよく分かり、因果の道理が真理と知らされますと、必ず「廃悪修善(はいあくしゅぜん)」の心が起きてきます。
廃悪とは、悪いことをやめようという心です。
修善とは、善いことをしようという心です。
因果の道理が知らされると必ず廃悪修善の心が起きることを、お釈迦さまは『涅槃経』にこう説かれています。

善因より善果を生ずと知り、悪因より悪果を生ずと知り、果報を観じおわりて悪因を遠離す。
(涅槃経)

悪因悪果が知らされますと、みんな悪い運命は来て欲しくないので、悪い行いをやめようという心になります。
善因善果が知らされますと、みんな幸せな運命を求めていますから、善い行いをしようという心になります。
善因は善果、悪因は悪果ということが知らされれば、自分の受けた報いを反省して、悪い行いをやめて、善い行いをしようと思わずにおれなくなる、ということです。

因果応報が深く信じられれば信じられるほど、廃悪修善の心が強くなってきます。

因果の道理は仏教の根幹ですから、仏教をどれ位信じているか知りたければ、廃悪修善の心がどれくらいあるかを見ればわかります。
どけだけ悪をおそれ、善に向かおうという気持ちがあるかは、信仰のバロメーターになります。
信仰は進んでいるけど、廃悪修善の心はないということはありません。
仏教は分かったけど、善いことしようとは思わない」という人は、仏教も因果応報も、分かったことにはなりません。全然分かっていないのです。

因果応報が深く知らされるほど、必ず悪をやめて善に向かおうという心が起きてきます。

因果応報と生きる意味の関係

因果応報が分かって、悪をやめようとすればするほど、悪ばかり思えてくる自分の心です。
廃悪修善の気持ちが強くなるほど、見えて来るのは自分の本当の姿です。
仏教に教えられている本当の生きる意味を知り、達成するには、この自分の心を知ることは非常に大切なことなのです。
お釈迦さまも親鸞聖人も、因果の道理を根幹として、本当の生きる意味を教えられていますので、因果応報が分かってはじめて本当の生きる意味が知らされ、達成できるのです。

では本当の生きる意味とは何かについては、以下の小冊子に分かりやすくまとめてありますので、今すぐお読みください。

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著者紹介

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生おさなみみずき

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。何とか仏教に関心のある人に知らせようと10年ほど失敗ばかりした後、インターネットの技術を導入し、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者3千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらおうと奮戦中。

仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能