不思議(ふしぎ)とは

不思議」は、もともと仏教の言葉で、不可思議ともいいます。
不思議というのは、思議することができないということで、想像もできないことです。
世間では、よく分からないとか、思いもよらないことを不思議といわれますが、浄土真宗ではそれだけではありません。
ある一つの重要なことを不思議といわれます。
それは一体どんなことでしょうか?

この世の5つの不思議

親鸞聖人は、ご和讃に、5つの不思議があると教えられています。

いつつの不思議をとくなかに
仏法ふしぎにしくぞなき
仏法不思議ということは
弥陀の弘誓になづけたり
(高僧和讃)

いつつの不思議をとくなかに」というのは、お釈迦さまは、世の中に不思議なことが5つあると説かれている、ということです。
その5つの不思議とは何かというと、親鸞聖人は主著の『教行信証』に、曇鸞大師の『浄土論註』を引用されて、こう教えられています。

諸経にときてのたまわく、五種の不可思議あり。
一には衆生多少不可思議(しゅじょうたしょうふかしぎ)、
二には業力不可思議(ごうりきふかしぎ)、
三には龍力不可思議(りゅうりきふかしぎ)、
四には禅定力不可思議(ぜんじょうりきふかしぎ)、
五には仏法力不可思議(ぶっぽうりきふかしぎ)なり。
(教行信証)

色々なお経に5つの不思議があると説かれていると教えられています。
それぞれどんな不思議かというと、
1つ目の「衆生多少不可思議」は、大宇宙に衆生が数限りもなくいて、絶えることがないことです。

2つ目の「業力不可思議」は、因果応報の不思議です。
自分の行いが、目に見えない業力となって、運命を生み出します。
すべては業力によって生み出されている不思議です。
みんなそんなことがあるものかと思っていますので、業力不可思議です。

3つ目の「龍力不可思議」は、天候の不思議です。
現代の天気予報でも、1週間後の天気は予測できません。
天気は複雑系ですので、最初のほんの少しの違いが大きな違いを生み出します。
どんなに科学が進歩しても、デジタルの計算機では、原理的に予測できないのです。

4つ目の「禅定力不思議」というのは、高いさとりを開くと、精神集中によって不思議な力を発揮します。
神通力の不思議です。

5つ目の「仏法力不思議」は、この5つの中でも一番の不思議です。
世の中で一番不思議なことだといわれていますが、それは一体どんなことなのでしょうか?

世界で最も不思議なこと

親鸞聖人は、この世で最も不思議なことを
いつつの不思議をとくなかに仏法ふしぎにしくぞなき
と言われています。

世界で一番不思議なことは、仏法力不思議である、ということです。
では仏法力不思議とは何かといいますと、親鸞聖人は次に
仏法不思議ということは弥陀の弘誓になづけたり
と教えられています。
この世で一番不思議な仏法力不思議というのは、「弥陀の誓願」である、ということです。
これを『歎異抄』の最初には、こういわれています。

弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて
(歎異抄)

弥陀の誓願とは、阿弥陀如来の本願のことです。
阿弥陀如来の本願に助けられたことを親鸞聖人は、不思議と言われています。
仏法力不思議とは、阿弥陀如来に救われたことの不思議をいうのです。

では、なぜ阿弥陀如来の本願に救われたことを不思議といわれるのでしょうか?

想像もできない驚天動地の世界

なぜ阿弥陀如来の本願に救われたことを不思議というかというと、それは阿弥陀如来に救われた世界が、想像もできない驚天動地の世界だからです。
阿弥陀如来の救いは一瞬です。
救われた瞬間に、2つのことがハッキリします。
これを「二種深信(にしゅじんしん)」といいます。

深信」というのは、深く信じると書きますが、信じることではありません。
信じるのはなぜかというと、疑いがあるからです。
明日の天気は晴れると信じているというときは、ひょっとしたら晴れていないかもしれないという疑いがあります。
今の天気なら、晴れだと信じているとは言いません。
今の天気は見ればハッキリ知ることができるからです。
信じるというのは、疑いがあるのです。
疑う余地がなければ、信じる必要はありません。
深信」というのは、ツユチリほどの疑いもなくなったことを言います。
だから親鸞聖人は、「まことに知んぬ」と言われたり、
蓮如上人は「今こそ明らかに知られたり」と言われています。
深信というのは、明らかに知らされることなのです。

では、どんなことがハッキリ知らされるかというと、2つあります。
1つは、真実の自己です。本当の自分の姿が知らされることを「機の深信」といいます。
2つには阿弥陀如来の本願です。阿弥陀如来の本願がハッキリと知らされることを「法の深信」といいます。

2つのことが知らされる

では、まず「機の深信」とはどんな心でしょうか。
阿弥陀如来に救われると、こんな自分の姿が知られされると善導大師が教えられています。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

自身は」とは、私は、ということです。
出離の縁」とは、助かる縁ということです。
有る事無し」ということは、このあともずっとない、永久に助からない、ということです。
阿弥陀如来に救われても、助かる縁は、あることなしです。
それに、ツユチリ程の疑いないのが機の深信です。

阿弥陀如来に救われるまでは、何とかすれば何とかなれると思っています。
現に罪悪生死の凡夫」といわれているように、現在、罪や悪のかたまりの人間とも思っていなければ、
昿劫より已来常に没し常に流転して」といわれているように、果てしない過去から輪廻の迷いを繰り返してきたとも思っていません。
未来永遠に助からないとも全然思えません。
それが、阿弥陀如来に救われた瞬間、絶対助からないことが知らされます。

親鸞聖人はその時のことを『歎異抄』にこういわれています。

いずれの行も及びがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし(歎異抄)

これは、一つの善もできない親鸞、地獄しか行き場のない私でした、ということです。
地獄一定は金輪際、地獄一定です。
そう知らされるのが、機の深信です。

次に法の深信について、善導大師はこう教えられています。

二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す。(法の深信)

この世も未来も永遠の幸せに救うという阿弥陀如来の本願まことだったとハッキリ知らされます。
私が助からないで、誰が助かるかと思います。
親鸞聖人は『歎異抄』にこう言われています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり。
(歎異抄)

阿弥陀如来はすべての人と誓われてはいるが、私一人のための本願だったとハッキリします。

機の深信は「堕ちるに間違いなし
法の深信は「助かるに間違いなし
この2つが同時にあるのが二種深信です。

絶対助からない者が絶対助かる、誰も納得できません。
ところがそれが起きるから、阿弥陀如来の本願を不思議といわれているのです。
ですから、浄土真宗で不思議というのは、分からないという程度のことではないのです。

この二種深信の世界を親鸞聖人は、『教行信証』にこう言われています。

不可称・不可説・不可思議の信楽(教行信証)

信楽」とは、他力の信心です。
不可称」とは、言うことができない、
不可説」とは、説くことができない、
不可思議」は、不思議のことで、想像もできない、ということです。
阿弥陀如来に救われた親鸞聖人は、まさに不可思議の世界であったといわれています。

このように、阿弥陀如来の本願力をあらわす最もふさわしい言葉が「不思議」です。
それは弱いとか強いという相対的な表現では表せない、不可思議なお力です。

ではその不思議の世界に出られるのは、いつなのでしょうか?

不思議を体験できるのはいつ?

阿弥陀如来に救われるといっても、死んでからではありません。
浄土真宗の3代目、覚如上人は、こう教えられています。

本願の不思議をもって、生るべからざるものを生れさせたればこそ、「超世の悲願」とも名け、「横超の直道」とも聞えはんべれ。(改邪鈔)

超世の悲願」も「横超の直道」も阿弥陀如来の本願のことです。
生まるべからざる者」というのは、助かる縁手がかりのない者です。
阿弥陀如来は、五劫という気の遠くなるような長い間考え抜かれて、すべての人は絶対助からない極悪人だと見抜かれているのですが、自分がそうだとは誰も気がつきません。
自分は生まるべからざる者と知らされたのが機の深信です。
絶対に助かる縁手掛かりのない者が、本願の不思議によって、助かるに間違いなしの未来永遠の幸せに生まれさせて頂くのです。
これを蓮如上人は、『御文章』5帖目10通「聖人一流の章」にこう教えられています。

不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。(聖人一流の章)

不可思議の願力」というのは、不思議な本願力のことです。
不思議な本願力によって、阿弥陀如来のほうから、往生を治定(じじょう)して頂くのです。
往生治定というのは、死ねば浄土往生間違いなしですから、未来永遠の幸せということです。

覚如上人は、「生まるべからざる者、生まれさせたれば」で、二種深信をいわれています。
金輪際幸せとは無縁の者が、変わらない幸せにして頂いたので、本願の不思議といわれているのです。
それは、死んでからではありません。
生るべからざるものを生れさせた」と言われていますから、生きている時であることは、明白です。
阿弥陀如来の本願は、生きている時に救うというお約束なのです。
これを平生業成(へいぜいごうじょう)といいます。
生きている平生に救われる、平生業成は、親鸞聖人の教えの一枚看板なのです。

不思議な話

蓮如上人の時代、ある時こんなことがあったと、『御一代記聞書(ごいちだいきききがき)』に記されています。

法敬房、蓮如上人へ申され候、「あそばされ候御名号、焼け申し候が、六体の仏になり申し候。不思議なる事」と申され候えば、 蓮如上人、其の時仰せられ候、「それは不思議にてもなきなり、仏の仏に御成り候は不思議にてもなく候。
悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏になるこそ不思議よ」と仰られ候なり。
(御一代記聞書78)

法敬房は、蓮如上人に非常に近いお弟子です。
ある時、法敬房が「不思議なことがありました」と蓮如上人にお話ししました。
蓮如上人が御下付してくだされた御本尊名号が、火事で、家と一緒に焼けてしまいました。
火事が夜で、取り出すことできなかったので、見ていました。
すると、屋根の上、煙があがって、六体の仏様が、煙と一緒に大空へのぼっていかれるのを見た人があります。
みんなびっくりして、不思議なことがあるものだと話題になっています。
火事場を見ていた人の話を聞いて、法敬房が蓮如上人に報告しました。

蓮如上人は、
そうかー、そんな不思議なことがあったかー
とおっしゃるかと思ったら、そうではありませんでした。
それは不思議にてもなきなり
そんなことは不思議なことではない、当たり前のことだ。
みんな不思議不思議と言っているが、まったく不思議ではない。
蓮如上人はこう言われました。
仏の仏に御成り候は不思議にてもなく候
御名号は阿弥陀仏の大慈悲心だから、仏様だ。
仏様が仏様になられたのは、何が不思議なんだ。
そんなものを不思議だと思うのは、本当の不思議を知らないからだ。

本当の不思議というのはな、
悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏になるこそ不思議よ
極悪人が阿弥陀如来に救われた一念で極楽へ生まれるようになることが不思議なのだ。
極悪人が仏になるというのは、電信柱に花が咲くことよりもありえないことだ。
不思議というのは、世間でちょっと分からないことは不思議でも何でもない、
仏教で不思議というのは、そういうことを不思議というのだ。
このように蓮如上人は、不思議を教えられています。

誰でもできる不思議な体験

このように、浄土真宗では、阿弥陀如来の本願に救われたことを不思議といわれます。
親鸞聖人は、どんな人も、阿弥陀如来の本願に救われれば、想像もできない幸せが、その人の身に満ちあふれると教えられています。

五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
(高僧和讃)

五濁悪世の衆生」というのは、親鸞聖人のことです。
選択本願」とは阿弥陀如来の本願です。
信ずれば」というのは、聞けば、ということです。
不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり
というのは、言うことも説くことも、想像もできない不思議の喜びが全身にみちあふれる、ということです。
これは決して親鸞聖人だけのことでなくて、本願を聞けば、みんなこうなるんだと教えられています。

こんな不思議は、仏教を聞いてない人や、助かってない人は、わかるはずがありません。
一念ではじめて不思議、不思議と知らされるのが、阿弥陀如来の本願なのです。
一念というのは、時剋の極促といわれるように、これ以上速い時間はない何億分の一秒よりも短い時間です。
阿弥陀如来は、一念の瞬間に救ってくだされるのです。
その一念で不可思議の願力と知らされます。
不可思議の願力だったと知らされた時が一念なのです。

その阿弥陀仏の救いにあずかるのが、人間に生まれてきた目的であり、本当の生きる意味なのです。

その不思議な体験をするには、私たちを迷わせ続けてきた苦悩の根元を知り、断ち切られなければならないのですが、その苦悩の根元とは何か、どうすれば断ち切られるのかについては、以下の小冊子に分かりやすくまとめてありますので、今すぐお読みください。

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