神社・神棚・神

よく今は家にお仏壇と神棚があるけど、引っ越しをする時に、浄土真宗なのに神棚は必要なのかという質問があります。
浄土真宗では、神棚は必要なのでしょうか?
また、神社に参詣することなど、神に対して浄土真宗を開かれた親鸞聖人はどのように教えられているのでしょうか?

3種類の神の違い

神社のお参りや初詣、神棚はどうしたらいいんでしょうか?
と聞くと、浄土真宗以外の仏教の宗派では、普通、
排他的な姿勢ではお釈迦さまも歎かれるだろう」とか
寛容性が大切だから問題ない」とか
互いに尊重することが大切」といいます。

ついでに浄土真宗の僧侶に聞いても、同じように、神社のお参りや初詣をしても良いと思うという人もあります。
ですが、本当に仏教を説かれたお釈迦さまや、浄土真宗を開かれた親鸞聖人はそんなことを言われているのでしょうか?

まず、親鸞聖人がいわれる神には3種類あります。
これは、キリスト教の神などではなく、日本古来の神で3種類あるのですが、その違いを知らないと、教えが矛盾しているように感じて、混乱してしまいます。
その3つの神が、実社の神、権社の神、仏教の神の3つです。

1.実社の神

まず1つ目の「実社(じっしゃ)の神」とは「実類の神」ともいって、実類を祀った神社の神ということです。
実類というのは、死んだ人間や動物などの霊魂を、神社に祀ると、そこにとどまって、生きている人間に幸せや不幸を与える力を持つと信じている神です。
例えば天照ならオオヒルメムチという人、日光東照宮なら徳川家康、明治神宮なら明治天皇です。
主要な実社の神は、政治家が人々の信仰心を利用して民衆を支配するために作りだしたものです。

ところが仏教では、人間は死んだらそこにとどまることはできません。
死ぬまでの行いによって、因果応報で次の世界に転生します。
このような死んだ人間や動物の霊魂がとどまっているとする神を「鬼神(きじん)」といい、それを信じることを鬼神信仰といいます。

また、山や樹木、岩などにシメ縄をはって神だと信じているものも実社の神です。
現在の日本神道の神は、すべて実社の神です。

2.権社の神

次に、2つ目の「権社(ごんしゃ)の神」というのは、「権化の神」ともいって、仏や菩薩がかりに神として現れていると信じていた神です。
仏教では、神は六道を輪廻している迷いの衆生なのですが、飛鳥時代に日本に仏教が伝わって、奈良時代くらいになると、天照のような国造りの神は、例えば「八幡大菩薩」のように菩薩の敬称をつけて「神仏一体」と言い始めます。
平安時代になると、天台宗や真言宗の僧侶が、仏教に説かれる本地垂迹(ほんじすいじゃく)説によって、理論的な説明を行いました。
本地垂迹」というのは、仏が仮に神となって現れるということで、本地が仏、神が垂迹です。

仏教では、『金光明経』に「世尊金剛体、権りに化身を現す」と説かれるように、仏は色々な化身となって現れると教えられています。
また『涅槃経』には、菩薩が大涅槃に住すると「種々無量の神通変化を示現す」とも説かれています。
これは、神だけでなく、人間や動物としても現れますし、何が仏の化身なのかは私たち人間に分かるものではありません。
ところが、この教えを日本の有力な神社の神にあてはめて、日本の神を仏や菩薩の権現(ごんげん)であるとしたものが、権社の神です。
これには権現をつけて、例えば「八幡大権現」といいます。

日本の神が仏の化身であるとはお釈迦さまは説かれていないのですが、天台宗や真言宗の僧侶は、これら権社の神は、本地が仏なのだから、その神の前で中臣の祓いをよめば、現世利益はもちろん、後生は三悪道をのがれて成仏もできると言うようになってしまいました。

ところが明治時代に神仏分離令が出され、神道のほうでも神と仏は完全に分離しましたので、現在は、権社の神はまったくなくなりました。

3.仏教の神

3つ目の仏教の神というのはお経にお釈迦さまが説かれている六道輪廻している神です。
梵天、帝釈天、四天王等の諸天を天神といいます。
また、堅牢地神、龍王、炎王等を地祇(ちぎ)といいます。
親鸞聖人は、これらを「天神地祇はことごとく善鬼神と名づけたり」といわれて「善鬼神」と言われています。
それに対して、夜叉や羅刹を「悪鬼神」といわれます。

この中には、仏や菩薩が私たちを救うために化現した垂迹の神と、自分のたねまきで輪廻転生している業報の神があります。

このように、お経に説かれている神は、架空のものではなく、因果応報の因果の道理にかなった存在です。

神信心の内容

まず、神に何かをお願いする人は、どんな神にお願いしているのかというと、3通りの神の中では1番目の実社の神です。
何をお願いしているのかというと、例えば神社に行くと、家内安全や合格祈願、無病息災をはじめとして、好きなお願いを叶えて下さいと祈り、お願いしています。
また、家の神棚などに柏手を打った場合には、家族の健康や商売繁盛を祈ったり、自由に色々お願いします。
家を建てる時に地鎮祭をすると、工事の安全や、その家の繁栄を願います。

ほとんどの人はあまり自分が何をしているのか自覚がありませんが、これは一言でいえば、神の力で自分の欲望を叶えてもらえると信じていて、それをお願いするというものです。

仏教で、神に祈ってもいいのかという以前に、そもそも神に私たちの運命を左右する力はあるのでしょうか?

神の力で幸せになれる?

仏教は、因果の道理を根幹として説かれています。
因果の道理というのは、
私たちの運命は、どのように決まるのかを明らかにされた教えで、
それは、このシンプルな法則です。

善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあっか)
自因自果(じいんじか)

善因善果というのは、善いたねをまけば善い結果が作られる。
悪因悪果は、悪いたねをまけば悪い結果が作られる。
自因自果は、自分のまいたたねは自分が刈り取らなければならない、ということです。

この「」というのは、自分の行いのことです。
ですから仏教では、幸せという運命は、善い行いによって作られたもので、不幸や災難という運命は、悪い行いによって作られたものなのです。
自分の運命は、神の力によるのではなく、自分の行いによって作られるというのが仏教の教えです。

実際に、健康になるなら、祈って健康になるよりも、病院に行って治療してもらうほうが簡単ですし、お金を稼ぐのも、祈ってお金を手に入れるより、働いて手に入れるほうが簡単です。
大学受験も、祈りで合格するよりも、勉強して合格するほうがはるかに簡単です。
大学でいえば、勉強ができる人はあまり祈ったりせず、どちらかというと合格できなそうな人が困った時の神頼みで祈るのですが、勉強して入れないような大学なら、祈りで入るのはもっと無理な話です。

因果の道理に外れた教えは?

この因果の道理に立脚して説かれた仏教を内道といい、
因果の道理に外れた教えを、仏教では、外道といいます。
仏教以外の全宗教は、外道ということになります。
ですから、因果の道理に外れた教えを信じていたら、仏教を信じているとは言えません。

このような道理に外れた教えを信じても、幸せになれるはずがありませんから、お釈迦さまは『涅槃経』にこのように教えられています。

一切外学の九十五種は、皆悪道に趣く。
(涅槃経)

一切外学の九十五種」というのは、因果の道理に外れた一切の教えです。
悪道というのは、苦しみの世界です。
仏教以外のすべての宗教は、苦しみの世界へ導くものだとお釈迦さまは教えられています。

ですから親鸞聖人も、こう教えられています。

九十五種世をけがす
唯仏一道きよくます(正像末和讃)

九十五種」というのは外道のことで、仏教以外の教えのことです。
仏教以外の教えは、世の中を悪くすると教えられています。
そして、仏教だけが清らかであると教えられています。

このように、自業自得の因果の道理に反した教えを信じていると、苦しい結果になりますよ、とお釈迦さまも親鸞聖人も教えられています。
七高僧の6番目の源信僧都も、主著の『往生要集』に、『仏蔵経』を引用されて、仏教を捨てて外道に走った4人の仏弟子が、無間地獄に堕ちて、その後、等活地獄や黒縄地獄などの色々な地獄に生まれ変わり、また無間地獄に堕ちると教えられています。

お釈迦さまは、仏教以外の宗教に排他的な姿勢だと悲しまれるのではなく、好意的だと、その人が苦しむことになるので悲しまれます。
まず浄土真宗以前に、仏教では、仏教以外の宗教である神道などにかかわることが恐ろしいことなのです。

仏教の目的は?

神道では、神社などで神を拝んだり祈ったりすれば、一家が繁栄したり、商売が繁盛したり、病気が治ったりすると教えています。
それは、一言でいうと、神の力によって欲望がかなうということです。
なぜかというと、多くの人は、欲望を満たすのが幸せだと思っているからです。

ところが、欲望を満たせば幸せになれるのかというと、そうではありません。
例えばお金を手に入れた喜びは一時的で、すぐにもっと欲しくなります。
昇進した喜びは、長くても2週間で消えてしまうと言われます。
また、病気だった人が健康になっても、別の苦しみが次々やってきます。
一つかなえばまた一つ、欲望はどこまで行ってもきりがありません。
欲望には限りがないので、これで満たしきったということはないのです。

蓮如上人は、『御文章』にこのように教えられています。

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。(御文章)

いよいよ死んで行く時には、今まで頼りにしてきた家族もついてはきてくれないし、必死でかき集めたお金や財産も、一円も持って行けません。
たった一人で、暗い後生へと旅だって行かなければならないのです。
続けて蓮如上人は、こう教えられています。

これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。(御文章)

仏教で変わらない幸せになるには、お金や財産、地位、名誉や家族ではなく、後生の一大事の解決によってのみなれると教えられています。
ですから、仏教の目的は、後生の一大事の解決です。
ところが、後生の一大事を解決する力があるのは、お釈迦さまの先生であり、諸仏の王である阿弥陀如来だけですから、後生の一大事をはやく阿弥陀如来に解決してもらいなさい、ということです。

仏教の結論は?

ですから、お釈迦さまは、一切経七千余巻の中で唯一真実のお経である『大無量寿経』に、仏教の結論をこう教えられています。

一向専念 無量寿仏(いっこうせんねん むりょうじゅぶつ)
(大無量寿経)

無量寿仏」とは、阿弥陀如来のことです。
すべての人の助かる道は、それしかないのだから、阿弥陀如来を一向に専念せよ、ということです。
一向」というのは、阿弥陀仏一つに向きなさい、「専念」というのは、阿弥陀仏だけを信じなさい、ということです。
この一向専念無量寿仏が、一切経の結論であり、釈迦一代の至上命令なのです。

親鸞聖人は、「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり
といわれているように、決して新しい教えを広められた方ではありません。
お釈迦さまの教えを、自らも間違いないと知らされ、人にお伝えしているだけなんだ、と言われています。

ですから、「一向専念無量寿仏」の教えについて、こういわれています。

一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり。
(御伝鈔)

往生」というのは、死んで極楽浄土へ往って、仏に生まれることです。
肝腑(かんぷ)」というのは、要の中の要で、最も大切なところです。
肝腑といったら一つしかありません。
骨目(こつもく)」も同じことです。
肝臓などの内蔵や骨や目をとったら生きていられないように、これを抜かしたら浄土真宗にも仏教にもならないのです。
往生できるかどうか、私たちが本当の幸せになれるかどうかのもっとも大事なところが、「一向専念無量寿仏」なのです。
それは、すべての人を本当の幸せにする力のあるのは、阿弥陀如来だけだからです。

一向ということは、神に向かったら阿弥陀如来一つに向くことはできませんから、お釈迦さまも親鸞聖人も、神を拝んだり、祈ったりしてはならないと教えられているのです。

神に対する親鸞聖人の教え

親鸞聖人は、「一向専念無量寿仏」を伝えるために、主著の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』にこういわれています。

諸々の修多羅によりて真偽を勘決し 外教邪偽の異執を教誡せば
(教行信証)

修多羅(しゅたら)」というのは、お経のことです。
親鸞聖人は、一切経によって、何が真で何が偽か決定するといわれて、たくさんのお経を引用されています。
そして、「外教邪偽の異執」というのは仏教以外の信心のことです。
親鸞聖人は、お釈迦さまの一切経によって、仏教以外の信心を教え、戒められているのです。

仏に帰依せば、ついにまたその余の諸天神に帰依せざれ。(涅槃経)

余の」というのは、その他の、ということです。
仏法者は他の神を信じてはならない、とお釈迦さまは説かれています。

余道につかうることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ。
(般舟三昧経)

余道」というのは、仏教以外の教えのことです。
仏教以外の教えにしたがってはならない、ということです。
」というのは神のことです。神を拝んではならないと教えられています。
鬼神」というのは、死んだ人間や動物を神と信じているものです。
神社のように、死んだ人の霊魂を祀ってはならないと、お釈迦さまは教えられています。

邪神外道に帰依せざれ。(中略)
鬼神を祭りて極重の大罪悪を生じ、無間の罪に近づく者あり。
(地蔵十輪経)

邪神外道」とは仏教以外の教えのことです。
仏教以外の宗教を信じてはならない、ということです。
そして、死んだ人や動物の霊魂をまつると極重の罪悪で、無間地獄に堕ちる行いに近づくと教えられています。

余乗に向はざれ、余天を礼せざれ。(集一切福徳三昧経)

余乗」とは他の宗教、「余天」とは他の神です。
他の宗教に向かってはいけない、他の神を礼拝してはいけないとお釈迦さまは教えられています。

余天につかえざれ。(本願薬師経)

他の神に仕えてはならないとお釈迦さまは教えられています。

このように親鸞聖人は、たくさんのお経を引用されて、徹底的に仏教以外の宗教にしたがったり、神を拝んだりしてはいけない、と教えられているのです。

神を信じたい人の反論

神を信じたい人が反論してくる場合、その根拠が2つあります。
1つは、覚如上人の『御伝鈔』第五段です。
常陸(茨城県)の平太郎という人が、主人から熊野の権現に参詣するからお供せよ、といわれて、京都の親鸞聖人のもとへお伺いに行った時、親鸞聖人は参詣を許されたから、という反論です。
これについては、権現なので3通りの神の中で、2番目の権社の神です。
明治時代の神仏分離令によって、現在存在している神社はすべて実社の神なので、根拠になりません。
そして、親鸞聖人は参詣を許されたのではなく、まさにその時、
一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり
と厳しく教えられたのです。
その上で、自分で言い出したことではなく、主人の命令だから仕方がないが、本地の仏から垂迹した権社の神だといっても「賢善精進の威儀を標すべからず」と参拝や供養を禁じられています。
これで参詣していいと思うのはまったくの誤解です。

もう一つが、親鸞聖人のお手紙である『御消息』です。
このように記されています。

仏法を深く信ずる人をば、天地におわしますよろづの神は、かげのかたちにそえるが如くして、まもらせたまうことにて候えば、念仏を信じたる身にて、天地の神を捨て申さんと思うこと、ゆめゆめなきことなり。 (御消息)

こう聞くと、『教行信証』のお言葉と矛盾しているように聞こえるので、どうしてだろうかと思います。
ところが、ここで言われいる神は、3通りの神のうち、3番目の仏教の神のことをいわれているのです。
神社や神棚にまつられている実社の神ではありませんから、これで神社に参詣したり神棚を置いてもいいというのは間違いです。

これらの仏教の神は、阿弥陀如来の本願に救われて、信心決定した人を護ると説かれているので、おろそかにしてはならないといわれていますが、護るというのは救うということではありません。
これらの神々は、私たちと同じように迷いの衆生で、私たちを救う力はないので、お釈迦さまも親鸞聖人も、信仰の対象としてはならないと教えられているのです。

神に対する蓮如上人の教え

また、蓮如上人も、時々、神を軽んじてはならないと言われています。
これはなぜかというと、蓮如上人の室町時代になってくると、卜部兼倶などの神道の人たちが、もともとの本地が仏で垂迹が神というのに反発して、本地が神で垂迹が仏だと言うようになりました。
このように日本における神信心は、非常に根強いものがあり、天台宗や真言宗の僧侶は、暴力で本願寺などの寺院や、浄土真宗の一般家庭を破壊するという時代でした。
そういうことから、蓮如上人も、暴力の誘発を防止し、門信徒の安全を守る為に、どう生きるかという生き方の上で、神をおろそかにしてはならない、と言われているのです。

ところが仏教の目的である他力の信心に関する話になると、訳が違います。
蓮如上人は『御文章』にこう教えられています。

信心といえるその相はいかようなることぞと言えば、
まず、もろもろの雑行をさしおきて一向に弥陀如来をたのみたてまつりて
自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず。(御文章)

信心というのは、一切の諸神に心をかけてはならないのです。
また、帖外御文にはこうあります。

一切の諸神なんどに、今生に於て用にもたたぬせせりごとを祈る躰なる事をみなみな雑行ときらうなり。

一切の神に現世利益を祈ることは、雑行と嫌われ、捨てよと教えられているのです。

蓮如上人は、神を信じている人たちを、あさましい人たちだと悲しまれています。

後生をば弥陀をたのみ、今生をば諸神をたのむべきように思う者あり。
あさましきなり。
(空善記)

阿弥陀如来は、死んでから救うのではなく、生きている時に救うと約束されています。
それには雑行を捨てなければ絶対助かりませんから、信仰が進めば進むほど、神社に参拝したり、神棚を置いたり、神に近づきたくなくなってきます。
そして、雑行がすたった時、変わらない幸せに救われるのです。

親鸞聖人の悲しみ

このように、お釈迦さまも、親鸞聖人も、蓮如上人も、神を信じてはならないと教えられているので、昔から浄土真宗の門徒は神棚など祀るべきではないと教えられて、つい最近まで守ってきています。
ところが昭和時代の戦争の時に、政府が神棚を強制した為に、この風調が崩れてしまい、今ではほとんどの浄土真宗の家庭で神棚を持っている状態になっています。

それどころか、浄土真宗の僧侶でも、
神社への参詣や神棚について、
自ら現世祈祷をしなければかまわない」とか
寛容性が大切だから問題ない」とか
互いに尊重することが大切だからいいと思う
と言っています。

そういう僧侶や門徒のことを、親鸞聖人はこのように悲しまれています。

かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す

親鸞聖人は、「かなしいことだなー」と言われています。
道俗」の「」というのは僧侶で、仏法を伝える立場の者です。
」は在家の人で、仏教を聞く立場の人です。
僧侶も一般の人も、「道俗みなともに、仏教の威儀をもととして」といわれています。
威儀」というのは、形や姿です。
姿形は仏法者であるかのように、仏壇を置いたり、袈裟をかけたり数珠を持ったりしているということです。
鬼神」というのは、死んだ人や動物の霊魂が、私たちに幸せや不幸を与えると信じる神社や神棚の神道の神です。
浄土真宗の僧侶や門徒の相形をしておりながら、心の中では神を敬っている、悲しいことだ、と悲しまれています。

また同じことをこのようにも言われています。

五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり

僧侶も一般の人も表面上は仏教を信じていると見せかけて、内心は外道を信じている。
悪い世の中になったあかしだ、ということです。

神信心が恐ろしい理由

では、なぜ親鸞聖人は神信心をする人たちを悲しまれているのかというと、このように教えられています。

西路を指授せしかども
自障々他せしほどに
昿劫以来も徒らに
空しくこそはすぎにけれ(高僧和讃)

西路」の「西」というのは、阿弥陀如来の極楽浄土は西にあると『阿弥陀経』に教えられているように、ここに来なければ助からない最後に帰する所を西といわれています。
西路を指授」というのは、浄土へ往生するには、生きている時に阿弥陀如来の本願に救われなければ死んで極楽へは往けませんから、「一向専念無量寿仏」のことです。
本当の幸せになりたければ、阿弥陀仏一つに向きなさいと教えられているのに、自分がしないばかりか、他人まで妨げているから、果てしない遠い過去から迷い続け、未だに救われないのだ、といわれています。

仏教を教えなければならない立場の僧侶が、神社に参っても構わないとか、神棚はあっても構わないと言っているから、門徒も平気で神に向かっている。
だから僧侶も門徒も助からないのだ、ということです。

特に、神信心の最も恐ろしいところは、神を信じる人は、神の力で自分の願いごとを何でも自由にできるものと思っているから、阿弥陀如来の本願を疑って、阿弥陀如来の仰せを信じることが絶対にできないという所にあります。
だから阿弥陀如来に後生の一大事を解決して頂いて、変わらない幸せになりたい人は、必ず諸神を捨てなければならないのです。

では、どうすれば阿弥陀如来の本願に救われて、この世から未来永遠の幸せになれるのかというと、阿弥陀如来のお力によって、苦悩の根元を断ち切られなければなりません。
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