阿頼耶識の意味と仏教の救いとは

阿頼耶識(あらやしき)」は、仏教に説かれる私たちの最も深い心です。
私たちが求めている幸せは、色あせる儚い幸せですが、仏教で明らかにされた本当の幸せになると変わらない幸せになれます。
その理由は、阿頼耶識から考えるとよく分かります。

喜びが続かない理由

まず、私たちのよく知っている続かない幸せは、趣味や生きがいの喜びです。
例えば、美味しい食事をするとか、
スポーツでいい汗流すとか、
読書で今まで知らなかったことを知るとか、
仕事で社会貢献して多くの人に喜ばれるとか、
音楽を聞いて感動するとか、
カラオケで思い切り歌って盛り上がるとか、
盆栽やガーデニングで植物を育てるなど、
趣味や生きがいは人それぞれ色々あります。

こういう趣味や生きがいがうまくいっている時は、楽しいですし、それがずっと続くと思っています。
例えば、スポーツで連戦連勝、オリンピックで金メダルをとったら嬉しいですが、それはどれくらい続くかというと、何十年も王者ではいられません。
次も金メダルをとるのは難しいですし、長くて数年の儚いものです。

株を買って、値上がりした時は、嬉しいですし、このまま上がり続けると思いますが、やがて下がる時がきます。
そうなったら真っ青ですので、喜びは続きません。

どうしてこのような喜びは続かないのかというと、諸行無常だからです。
この世は無常の世界なので、喜びもすぐに消えてしまいます。

そして仏教では、私たちの心についても、詳しく教えられています。

8つの心

仏教では、人間には、8つの心があると教えられています。 これを「八識(はっしき)」といいます。
」とは、心のことですから、八識とは八つの心ということです。
その8つの心は以下の8つです。

1.眼識(げんしき)
2.耳識(にしき)
3.鼻識(びしき)
4.舌識(ぜっしき)
5.身識(しんしき)
6.意識(いしき)
7.末那識(まなしき)
8.阿頼耶識(あらやしき)

それぞれどんな心なのでしょうか。

1.眼識(げんしき)

最初の「眼識」とは目の心ということで、目で見て楽しむ心です。

見たいものを見ると嬉しくなります。
例えば旅行なら、まだ行ったことのない所へ行って見たことのない景色を見て楽しみます。
きれいな風景を見る楽しみです。
634メートルのスカイツリーのような展望台にあがれば、高い所から遠くの景色を見て楽しめます。
見て楽しむ眼識の楽しみです。

しかし、どんなに見たいものでも、3日間見続けるように言われたらどうでしょうか。
1回見たら死んでもいいやというものでも、2時間も3時間も見ていられません。
虹でも、10分以上見続ける人はいません。
見る楽しみは続かないということです。

また新しいもの、別なものを見たくなります。
欲に限りはありませんから、別の趣味を見つけて生きがいとします。
これだけは何十年見ても見飽きないというものはありません。

2.耳識(にしき)

2番目が「耳識」は耳の心で、耳で聞いて楽しむ心です。

好きな音楽を聞くと感動したり、楽しくなったり、盛り上がったりします。
聞いて楽しむ心が耳識です。

自分が好きな音楽なら、繰り返し聞きますが、だんだん飽きてきます。
深くて分かりにくい音楽ほど、飽きにくいですが、それでも聞き込むとどうしても感動が薄れてきます。
感動が薄れるともったいないので、気に入っている曲を聞くのは1年に1回に制限しているマニアもいる位です。
それだけ音楽を聞く喜びが色あせてしまうからです。

そして、もっといい音楽はないか、感動的な音楽はないかと、新しい音楽が聞きたくなります。
欲には限りがなく、耳識の喜びも続かないからてす。

3.鼻識(びしき)

3番目の「鼻識」は、鼻の心ということで、匂いを楽しむ心です。

美味しい料理を食べる時、まず香りをかいだだけで心が躍ります。
自然の中に咲いている花の香りも感動します。
森の香りやハーブの香りもとてもさわやかです。
好きな香水が漂っていると、とてもいい香りをします。
そんな匂いを楽しむ心が鼻識です。

ところが、どんなにいい香水でも、最初のふわっという感じはいいのですが、しばらくたつと最初のいい香りはなくなってしまいます。
花の香りもハーブの香りも続きません。
鼻識の楽しみもすぐに消えてしまい、続かないのです。

4.舌識 (ぜっしき)

4番目の「舌識」は、舌の心で、味を楽しむ心です。

美味しい食事を味わう楽しみです。
料理が趣味の人はたくさんありますし、料理番組も人気があります。
旅行も色々なところへ行ってその土地の美味しいものを食べるのが楽しいという人もあります。
好きなものを食べて死ねばいいじゃないか、という人さえもあります。
それほど大きな楽しみが舌識による楽しみです。

ところが、どんな美味しいものでも、毎日食べていると飽きてきます。
もっと今まで食べたことのないものや、今まで食べたことのない味が食べたくなります。
どれだけ美味しいものを食べても、食欲には限りがありませんので、今まで以上に美味しいものが食べたくなります。
美味しいものを食べる舌識の楽しみも続かないのです。

5.身識 (しんしき)

5番目の「身識」は、身の心で、触れたりする体験を楽しむ心です。
ドライブでスピード感を楽しんだり、登山をして全身ですがすがしさを感じたりして楽しみます。

体を動かすとスカッとするのですが、その爽快感も続きません。
旅行から帰ってきて家に帰ると、大自然の中にいた時のようなすがすがしさはないので、また行きたくなります。
身識の楽しみも急速に色あせてしまい、まったく続かないのです。

6.意識 (いしき)

6番目の「意識」は、考える心で、思考を楽しむ心です。

例えば、本を読んで新しいことを知ると嬉しくなります。
次のデートの計画を考えていると楽しくなります。
空想の世界で相当楽しんでいる人もあります。
また、今まで分からなかった問題を考え続けて、ついに答えが出ると感動します。
何かを自分で考え出したり、創作した時に喜びを感じます。
このように考えて楽しむ心が意識です。

ところが、1回読んだ本は飽きてしまって喜べません。
答えが分かってしまった問題も、考え続けてもつまらないので、新しい問題に挑戦したくなります。
何かを初めて考え出した時には喜びを感じますが、同じことを考え続けていても、喜べません。
この意識の楽しみも続かないのです。

六識の楽しみが続かない理由

全人類の求めている楽しみは、この六識を喜ばせることです。
それ以外に喜ぶものを知りません。
政治、経済、科学、医学、その他のものも、みなそれを楽しませるもので、ただそれだけです。

ところがこれらの六識は、肉体のある間だけのものです。
肉体と同時に死にますから、続きません。
どれだけ続いても、肉体が死ぬまでのことです。

生あるものは必ず死に帰す」といわれるように、私たちはやがて必ず死ななければなりません。
だから眼識や耳識、鼻識、舌識、身識、意識を喜ばせる楽しみは、一時的なことです。
やがて必ず肉体と共に滅びますから、これらの楽しみは絶対に続きません。

豊臣秀吉が天下をとったといっても、眼識、耳識、鼻識、舌識 身識、意識のどれかの楽しみを組み合わせただけです。
だから結局、辞世には
露と落ち、露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢
と言っています。
難波で楽しんだ栄耀栄華も臨終には消えてしまい、夢のように終わります。

このように、意識を喜ばせたりすることは一時的なもので、やがて肉体と共に滅んでしまいます。
全人類は、そのもっと底の底に永遠の生命があることも、それを満足させる道があることも知らないのです。

阿頼耶識とは

8番目の「阿頼耶識(あらやしき)」とは、三世を貫く永遠の生命です。
三世」とは、過去世、現在世、未来世のことです。
肉体が生まれてから死ぬまでを「現在世」と言いますが、生まれる前を「過去世」、死んだ後を「未来世」といいます。
この過去世、現在世、未来世と続いて行くのが阿頼耶識です。
仏教では、私たちの本当の生命はこの阿頼耶識で、過去世、現在世、未来世と続くと教えられています。

ちなみに7番目の「末那識(まなしき)」というのは、阿頼耶識についてまわって常に執着させる悪い心です。

私たちは、果てしない遠い過去から、生まれ変わり死に変わり、生死を繰り返してきたと仏教では教えられています。
ちょうど、悠久の大河がとうとうと流れているようなものです。
肉体は、その川面にポッとできて、しばらく流れてパッと消えるあぶくのようなものです。
泡ができようが消えようが、河の水は増えもしなければ減りもしません。
その大河のように、過去世から現在世、未来世を貫いているのが阿頼耶識です。

果てしない過去からの病

ところがその阿頼耶識が病にかかっていると仏教では教えられています。
蓮如上人はそれを『御文章』にこう教えられています。

無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病
(御文章2帖目13通)

無始よりこのかた」というのは、始まりのない始まりからということです。
だから人間に生まれてからのことではありません。
無始よりですから、何億兆年よりもっと昔からずっと続いてきた恐ろしい病気です。
ですから蓮如上人は、別のところでは、こう教えられています。

過去・未来・現在の三世の業障
(御文章5帖目6通)

過去・現在・未来の三世」ということは、過去世からずっと未来永遠に苦しめる病です。
意識などの六識は、肉体が死んだら滅びますので、三世を貫いているのは、阿頼耶識です。
ですから、八識の中の阿頼耶識が病気にかかっているのです。

これは、六識の肉体の病ではありません。
すべての人がかかっているのが、この恐ろしき病です。

それを治そうとしておられるのが阿弥陀如来なのです。

病を治す医師

蓮如上人は、それをこのように教えられています。

弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して
(御文章2帖目8通)

十方の諸仏」というのは、十方というのは大宇宙のことです。
地球上では仏のさとりを開かれた方は、お釈迦さまただお一人ですが、大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどありますので、仏様も数え切れないほどおられます。
これを「十方諸仏」といいます。

阿弥陀如来は、その十方諸仏の本師本仏だと教えられています。
本師本仏」とは、本師も本仏も先生のことですから、大宇宙の仏方の先生が、阿弥陀仏なのです。

末代不善の凡夫・五障三従の女人」とは、すべての人のことです。
私たちの果てしない遠い過去からかかっている恐ろしい病は、大宇宙の諸仏方にも治す力はありません。
大宇宙の諸仏から、とても助けることはできないと捨てられてしまった私たちを、「我一人助けん」という世を超えた、大宇宙にないお約束をされたのが阿弥陀仏なのです。
この阿弥陀仏のなされたお約束を、「阿弥陀如来の本願」といいます。

阿弥陀仏のお約束とは

阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は「難思の弘誓(なんしのぐぜい)」といわれて、こう教えられています。

難思の弘誓は難度海を度する大船(教行信証

難度海(なんどかい)」というのは、渡るのが難しい海ということで、人生のことです。
人生には、苦しみの波が次から次とやってくるので、人生を渡るのが苦しい海にたとえて「難度海」といわれています。

子供は無邪気なものだと思いますが、子供でも試験が来ると苦しんでいます。
大人になれば試験がないから早く大人になりたいと思います。
ところが社会に出るともっとひどいことになります。

歴史上、彼ほどの成功者はないといわれる徳川家康でも、こう言い残しています。

人の一生は重荷を背負って遠き道を行くがごとし(徳川家康)

人間の一生は重荷を背負って遠い道をとぼとぼとぼとぼ歩くようなものだということです。
この一番の問題は重荷です。
重荷というのは、苦しみということです。
死ぬまで苦しみがなくならないのが人生だということです。

家康でさえそうですから、これではすべての人は、苦しむために生まれてきたことになってしまいます。

芥川龍之介や藤村操が自殺したのは、肉体の苦痛ではありません。
金がない、物がないという生活苦でもありません。
人生が苦しんで死ぬだけだとすれば、生きる意味が分からないということです。
これほど苦しいことはありません。

その苦しみ悩みの人生を、明るく楽しく渡す大きな船があると教えられているのが親鸞聖人です。
次に「難度海を度する大船」といわれています。
人生を海にたとえられたから、その海を明るく楽しく渡す船に阿弥陀仏のお約束をたとえられています。
この船に乗れば、
人間に生まれてよかった、生きていてよかった。
この船に乗せて頂くための人生だった

と生命の歓喜が起きます。

病気を治す特効薬

阿弥陀仏は本願に、私たちを必ず救うと誓われていますが、そのお約束を果たすためには、私たちが果てしない遠い過去からかかっている恐ろしい病を治す力のあるものをつくらなければなりません。
その恐ろしい病を治すために完成された特効薬が南無阿弥陀仏の六字の名号です。
南無阿弥陀仏に、無始よりこのかたの恐ろしい病を治す働きがあります。

この病を治すには時間がかかりません。
阿弥陀仏は、恐ろしい病を一瞬で治すという薬をつくられましたから、蓮如上人は、こう教えられています。

過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて

一時に」とは一念で、ということです。
一念というのは、何億分の一秒よりも短い時間のことです。
罪消えて」ということは、三世を苦しめてきた無明業障の病を治してくだされる、ということです。
だんだんだんだんとではありません。
いつとはなしでもありません。
水際だって、一時に罪消えます。
その消える罪とは、三世の業障です。

私たちを果てしない過去からずーっと苦しめてきた恐ろしい病を一瞬で治す働きがあるのが南無阿弥陀仏です。

なぜ喜びが続くのか

阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を頂いて、恐ろしい病を治して頂いた人の喜びはなぜ続くのかというと、阿頼耶識が名号と一体になるからです。
これを「仏凡一体(ぶつぼんいったい)」といいます。仏心と凡心と一体になったということです。
仏心」とは南無阿弥陀仏のことです。
凡夫の心と一体になります。
蓮如上人は、こう教えられています。

仏心と凡心と一つになるところをさして信心獲得の行者とはいうなり。
(御文章)

凡心と一体になるといっても、眼識や耳識や鼻識や舌識や身識や意識のような、滅びる心と一体になるのではありません。
阿頼耶識と一体になります。
阿頼耶識と一体になれば、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識も、この世は阿頼耶識と一体なので、六識と一体といっても間違いはありません。
吸う息吐く息が南無阿弥陀仏、これが一体です。

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