信心獲得とは?
「信心獲得」は、「しんじんぎゃくとく」と読みます。
この信心獲得が、親鸞聖人が一生涯教えて行かれた浄土真宗の目的です。
信心獲得とは一体どんなことなのでしょうか?
信心獲得したらどうなるの?
親鸞聖人は、90年のご生涯、信心獲得一つを教え勧めて行かれた方でした。
それは一体どうしてなのでしょうか?
浄土真宗の御門徒が朝晩のおつとめで拝読する『正信偈』には、
「信を獲て見て敬い大いに慶喜すれば、即ち横に五悪趣を超截す」
と記され、信心獲得すれば、大慶喜の身となり、迷いとは縁切りになると言われています。
主著の『教行信証』にはさらに詳しく「信心獲得した人は、二度と迷わない身になって、必ず生きているときに十種類の幸せを頂ける」と教えられています。
(金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲)
逆に、生きているときに信心獲得できなければ、死んでも極楽には往けません。
蓮如上人は、『御文章』に
「信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」
と言われています。
だから蓮如上人は『御一代記聞書』に、「信をとらぬによりて悪きぞ、ただ信をとれ」と言われています。
「信をとれ」とは信心獲得しなさい、ということです。
では、信心獲得とはどんなことなのでしょうか?
獲得のある唯一の信心
「信心」というと、「あの人は信心深い」といわれるように、神や仏を信ずることだと思います。
そして、「信心が足りない」とか「信心しなさい」といえば、神や仏をもっと深く信じるようにしなさい、という意味です。
信心といえば、どんな宗教でもいうのですが、それらの宗教の信心には、「獲得」ということはありません。
世界にたくさんの宗教がありますが、キリスト教にもイスラム教にも信心獲得ということはありません。
日本にも色々な宗教がありますが、信心を獲得したとか、信心をとったということはありません。
「獲得した」とか「とった」ということがあるのは、浄土真宗で教えられる信心だけです。
では、獲得とはどんなことなのでしょうか?
獲得とは?
獲得とは、「獲」もうる、「得」もうるという字です。
求めていたものがえられたということです。
例えば、結婚相手を探していて、手に入れたのが、結婚相手を獲得したということです。
マイホームが欲しかった人が、ローンを組んで購入すると、マイホームを獲得したといいます。
今まで自分のものでなかったものが、自分のものになったのが、獲得です。
ですから、卒業したとか、完成した、達成したということです。
秀吉が天下統一を求め始めて、ついに天下を手に入れたとき、天下統一を達成したということになります。
このような、卒業のある信心、完成のある信心を教えられたのが、浄土真宗です。
このような信心は、世界にどれだけの宗教があっても、浄土真宗にしかありません。
みんな死ぬまで信心し続けていかなければならない、信仰し続けていかなければならないのです。
宗教だけではありません。世の中のどんな道も、卒業や完成はありません。
例えば、仕事ならこれで完成ということはありません。どこどこまでも仕事は増え続けます。
お金儲けでも、いくら稼いだら卒業ということはありません。
増えれば増えるほどもっと欲しくなって求め続けます。
趣味や生きがいでも、完成はありません。
剣道でも柔道でも、書道でも華道でも、死ぬまで求道です。
政治も経済も科学も医学も、芸術もスポーツも、これで完成ということはありません。
完成や卒業があると思っているのは初心者のうちで、やればやるほど自分の未熟さと道の遠さが知らされます。
完成があるのは、親鸞聖人が明らかにされた信心だけなのです。
獲と得の違い
親鸞聖人が明らかにされた信心は、果てしのない道ではありません。
完成があります。
親鸞聖人が、完成があるといわれているのは、生きているときに変わらない幸せになれるということです。
この変わらない幸せになることが、私たちが人間に生まれてきた目的であり、本当の生きる意味なのだと親鸞聖人は教えられています。
親鸞聖人が、生きているときに、変わらない幸せになれると言われているのは、信心獲得の「獲」の獲るです。
それだけではありません。
現在生きているときに、信心獲得した人は、死んだ後にも、大変な幸せを得ることができると言われています。
これが「獲得」の得の得るです。
「獲」とは、生きているときには、変わらない幸せになること、
「得」とは、死んで、極楽浄土へ往って、仏のさとりを開くことです。
この2つが獲られるのが、浄土真宗で教えられる信心です。
これを「他力の信心」ともいいます。
では、信心獲得とはどんなことなのでしょうか?
信心獲得とは?
信心獲得とはどんなことなのか、蓮如上人はこのように教えられています。
御文章5帖目5通「信心獲得章」です。
信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。
この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり。
(御文章5帖目5通「信心獲得」)
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり」の「第十八の願」とは、阿弥陀仏が建てておられる48願の18番目の願です。この第十八の願が、阿弥陀仏の本心が誓われていますので「阿弥陀如来の本願」といいます。
「第十八の願を心得る」の「心得る」は、理解するとか納得するという意味ではありません。
体験するということです。
阿弥陀仏が本願に誓われている通りの身になることです。
では阿弥陀仏は本願に何を誓われているのかというと、「すべての人を必ず絶対変わらない幸せに助ける」と約束されています。この絶対変わらない幸せを『歎異抄』では「摂取不捨の利益」ともいわれ、今日の言葉で「絶対の幸福」といいます。
阿弥陀仏は、すべての人を絶対の幸福にするために、大変な長期間のご苦労をなされて、その働きのあるものを完成されました。
それが「名号」です。
「名号」とは南無阿弥陀仏のことです。
本願を設計図とすれば、その設計図の通りに完成したのが名号・南無阿弥陀仏ですから、この南無阿弥陀仏を頂くと、本願の通り、絶対の幸福になれるのです。
それが「この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」ということです。
では「南無阿弥陀仏のすがたを心得る」とはどんなことでしょうか?
変わらない幸せになるには?
このことを蓮如上人は、『御一代記聞書』にこう教えられています。
「弥陀をたのめば南无阿弥陀仏の主になるなり。
南无阿弥陀仏の主になるというは、信心を獲ることなり」と云々。
又「当流の真実の宝というは南无阿弥陀仏、是れ一念の信心なり」と云々。
(御一代記聞書)
「たのむ」とはお願いするということではありません。
救われるということです。
阿弥陀仏に救われれば、南無阿弥陀仏の主になるといわれています。
「主になる」とは、自分のものになるということですから、「南無阿弥陀仏の主になる」とは、南無阿弥陀仏を頂くということです。
「南无阿弥陀仏の主になるというは、信心を獲ることなり」とは、名号を頂くことが、信心獲得であると教えられています。
ですから、「当流の真実の宝というは南无阿弥陀仏、是れ一念の信心なり」といわれているのは、浄土真宗の真実の宝は、南無阿弥陀仏を頂いた一念の信心であるということです。
「一念」とは、信心獲得する何億分の一秒よりも短い時間です。一念で名号を頂いて、変わらない幸せになれるので、これが真実の宝なのだと言われています。
ですから、信心獲得章に「この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」といわれているのは、第十八願を体験するというのは、南無阿弥陀仏の働きを体験することだ、ということです。
「すがた」というのは、お力とか働きのことです。
このように、信心獲得とは、阿弥陀仏の本願の通りに、名号を頂いて、絶対の幸福になることなのです。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能。