他力の信心とは?

蓮如上人の「聖人一流の章」に、 「聖人一流の御勧化の趣は信心をもって本とせられ候」といわれています。
親鸞聖人が一生涯教えられた最も重要なポイントは、信心一つだということです。
これが「他力の信心」です。
では、親鸞聖人が生涯かけて教えられた「他力の信心」とはどんなものなのでしょうか?

信心といったら宗教だけのこと?

世間で「信心」というと、や菩薩や仏を信じて幸せになろうとする何かの宗教を思い浮かべます。
そのような宗教では、何かの神や仏を信じれば、ご利益があると言っています。
キリスト教でも神を信じています。
宗教というと、何かを信じるものだと思われていますので、宗教と信心は同じもののように思われています。

ところが、「信心」という言葉は、「心で(何かを)信じる」と書きます。
特に仏や神だけではありません。
心で何かを信じていれば、それは信心です。

信心とは?

私たちは何かを信じなければ生きてはいけません。
明日も生きていられると命を信じて生きています。
いつまでも元気でいられると健康を信じています。
他にも、病気や何かになっても、お金があれば大丈夫とお金を信じて生きています。
病院に行って薬をもらってくると、医者を信じて口の中に放り込みます。
もし毒薬だったら大変です。
ですが、いちいち分析していたら、生きていられません。
医師や薬剤師を信じて生きているのです。

夫は妻を、妻は夫を信じ、親は子供を、子供は親を信じて生きています。
地位や名誉を信じている人もあります。
趣味や生きがいを信じている人もあります。
信じるということは、頼りにし、あて力にするということです。
それは生きる希望ですから、何かを信じていなければ、絶望して生きていけませんから、人は誰しも何かの信心をもって生きているのです。

信心と幸せの関係

私たちが生きるのは幸せを求めてのことですが、何を信じれば幸せになれるのでしょうか?
何かを信じたり、頼りにしている時が、幸せなときです。
生きる希望や喜びのある、楽しいときです。
信心はイコール幸せです。

ところが、信じていたものに裏切られることがあったら、私たちは不幸になります。
しかも、深く信じていればいるほど、裏切られたときの苦しみは大きくなります。

私たちは、不幸になりたくありませんから、裏切らないものを探さなければなりません。
これ以上大切な問題はないのですが、歴史上、いまだに誰もハッキリしていないことです。

変わらない信心はあるの?

日本の歴史上、成功者として有名な、豊臣秀吉は、お金や財産、地位、名誉など、何もかも手に入れた人でした。幸せになれると信じてそれらを手に入れたのですが、最後死んで行くときには、このような寂しい辞世の句を残しています。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな
  難波のことも 夢のまた夢

」というのは、夏の朝、一時はきらりと輝きますが、すぐにこぼれて消えてしまいます。
はかないものの代名詞です。それが我が身であったと秀吉は言っています。
難波」というのは、大阪のことですので、大阪を中心に築いた栄耀栄華も、夢の中で夢を見ているような儚いものでしかなかったということです。
この世の栄華は夢の夢、それまで人と争って、必死でかき集めたものも、死んで行くときには、何一つ頼りにならず、すべてに裏切られてたった一人でこの世を去らなければならないのです。

信心の4通り

浄土真宗の教えを知らない人の信心を大きく2つに分けると、神や仏を信じる信心と、それ以外のお金や財産、地位、名誉、家族など、世間のことを信じる信心の2通りに分かれます。
ところが親鸞聖人の教えられる信心は、このようなものと全く違います。
それは、自力の信心他力の信心の2つです。
つまり、信心には、4通りあります。

1.世間ごとを信じる信心
2.神や仏を信じる信心
3.自力の信心
4.他力の信心

では、3番目の自力の信心とはどんな信心でしょうか?

自力の信心とは?

自力の信心とは、阿弥陀仏の本願を信ずる信心です。
これは、1番目の世間ごとを信じる信心とも違いますし、2番目の神や仏を信じる信心とは全く違う信心です。
自力の信心とは、阿弥陀仏の本願を聞いて初めて起きてくる信心です。
阿弥陀仏の本願を聞かないで自力の信心は起きてきません。

では、阿弥陀仏の本願とは何なのでしょうか?

阿弥陀仏の本願とは?

阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀仏のお約束のことです。
どんなお約束をされているかといいますと、分かりやすくいえばこのようなお約束です。

どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に

絶対の幸福とは、いつまでも続く、変わらない幸福のことです。
お金や財産、地位、名誉は、必ず私たちを裏切ることがあります。
たとえしばらく続いても、死んで行くときには、すべてに裏切られます。
そういうしばらくの間であって、続かない幸福は、相対の幸福といいます。

それで阿弥陀仏は、絶対変わらない絶対の幸福に救うとお約束されています。
その絶対の幸福になることが、すべての人の生きる目的であり、生きる意味なのです。

その阿弥陀仏の本願を聞いて、絶対の幸福に助けて頂こうと信じる信心を自力の信心といいます。

自力の信心と神や仏を信じる信心との違い

阿弥陀仏の本願を信じる自力の信心と、神や仏を信じる信心はどこが違うのでしょうか。
神や仏のご利益というのは、お金が儲かるとか病気が治るというものですから、相対の幸福です。
たとえご利益があっても、しばらくの間のことで、続きません。
死んで行くときには必ず裏切られます。

絶対の幸福にするとお約束されているのは、阿弥陀仏だけなのです。
しかし、阿弥陀仏を信じているのも、2番目の神や仏を信じる信心です。
では、自力の信心とはどんな信心かというと、阿弥陀仏の本願を信じるのが自力の信心です。
阿弥陀仏のお約束を聞いて、どうしたら絶対の幸福に助けてもらえるんだろうと自分の知恵や学問ではからっている信心です。
神や仏を信じる信心と、阿弥陀仏の本願を信じる信心は、まったく違うのです。

その阿弥陀仏の本願を信じて疑わないのが自力の信心です。
阿弥陀仏の本願を聞いて、なるほどとうなずいた」信心も、自力の信心です。
阿弥陀仏の本願を疑いなく聞けるようになった」というのも、自力の信心です。
阿弥陀仏のお約束の通り、絶対の幸福にならずに、他力の信心にはなれません。
自分が本願を疑っていることさえ気づかない、疑いのまっただ中です。

他力の信心とは?

では、4番目の他力の信心とはどんな信心でしょうか?

阿弥陀仏の本願を聞いて、阿弥陀仏の本願に救われたいと思った人は、続けて阿弥陀仏の本願を聞くようになります。
阿弥陀仏の本願を聞けば、必ず疑いが起きてきます。
そしてどうしたら救われるんだろうという疑いが大きくなってくるのです。
その、どうしたら阿弥陀仏に助けてもらえるんだろうと阿弥陀仏の本願を聞き求めているのが、阿弥陀仏の救いに近づいている姿です。
そして最後、一念で絶対の幸福になります。

一念」とは、絶対の幸福になった何億分の一秒よりも短い瞬間です。
絶対の幸福に救われた時をいいます。
お釈迦さまは、あらゆる人は、一念に絶対の幸福になると説かれ、
親鸞聖人も、他力の信心には、一念があると教えられています。

阿弥陀仏のお約束通り、一念で絶対の幸福に救われたとき、その人の信心を他力の信心といいます。
蓮如上人は、『御一代記聞書』の一番最初にこう言われています。

他力というは、弥陀をたのむ一念の発る時やがて御助けにあずかるなり。(中略)
この一念、臨終までとおりて往生するなり。
(御一代記聞書1)

やがて」といっても、「そのうち」ということではありません。
当時の「やがて」は現代とは意味が違って「ただちに」という意味です。
他力というのは、一念で阿弥陀仏に救われた瞬間からずっと他力です。

ですから、自力の信心と他力の信心は、一念で切り替わります。
だんだんと救われるのではありません。
自力の信心から水際だって他力の信心に変わるのです。
阿弥陀仏の本願の通り絶対の幸福に救われたのが他力の信心です。

親鸞聖人は、このようにいわれています。

誠なるかなや、摂取不捨の真言(『教行信証』)

摂取不捨の真言」とは、阿弥陀仏の本願のことです。
誠だったー、本当だった、阿弥陀仏の本願にウソはなかった、
と喜ばれているお言葉です。

ではどうすれば他力の信心を獲得できるのかについては、以下の小冊子にまとめてありますので、今すぐお読みください。

浄土真宗の本質を学ぶ

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