聖人一流の章の意味
聖人一流の章は、蓮如上人の書かれた御文(御文章)の中でも最も簡潔なお手紙です。
短いながらも、親鸞聖人の教えの教えのすべてがおさめられています。
ところが、非常に深い内容があるので、浄土真宗の法話でもほとんど解説されません。
一体どんな意味なのでしょうか?
聖人一流の章とは
「聖人一流の章」は、親鸞聖人から約200年後に現れて、親鸞聖人の教えを全国に広められた蓮如上人の書かれたものです。
当時、蓮如上人は各地の門徒の方あてに、たくさんのお手紙を書かれていました。
それは今日、『御文(おふみ)』とか『御文章(ごぶんしょう)』と言われ、全部で80通あります。
浄土真宗のおつとめでは、親鸞聖人の書かれた『正信偈』の後に、蓮如上人の『御文章』を拝読します。
それは、蓮如上人が親鸞聖人の正信偈に書かれた教えをひらがな交じりの平たい言葉で明らかにされているからです。中でも短い言葉で簡潔に教えられているのが「聖人一流の章」です。
この中には、親鸞聖人の教えがあますところなくおさまっているので、この「聖人一流の章」を開くと『正信偈』になり、それをまた開くと『教行信証』に、それをまた開くとお釈迦さまの一切経になります。
ですから、この短いお言葉で蓮如上人は非常に大事なことを教えられています。
聖人一流の章の原文
こちらが「聖人一流の章」の原文です。
聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。
その故は、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。
その位を、『一念発起・入正定之聚』とも釈し、その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし、御恩報尽の念仏と心得べきなり。
あなかしこ あなかしこ
蓮如上人はこのお手紙の中に、どのようなことを教えられているのでしょうか?
親鸞聖人90年の教えとは?
「聖人一流の章」の最初の「聖人」とは、親鸞聖人のことです。
蓮如上人は親鸞聖人の教えを全国に広められた方なので、蓮如上人が「聖人」と言われたら、それは親鸞聖人のことです。
次に、
「聖人一流の御勧化の趣は」とは、親鸞聖人が90年のご生涯で教えていかれたことは、親鸞聖人90年の教えは、ということです。
次の「信心をもって本とせられ候」とは、親鸞聖人は信心を本(もと)とせられた、ということです。
本というのは、木でいうと幹のことです。
本なので、切ったら枯れてしまいます。
それほど重要だということです。
ですから蓮如上人は、信心とはどういうものなのかという本を徹底的に明らかにされたのです。
それが次の「その故は」です。
これは、その親鸞聖人が教えられた信心とはどういうものかということです。
信心というと、私たちは何かを深く信じて、願ったり拝んだりして利益を得ようとします。
誰でも何かを頼りにしたり、あてにしたりして生きているからです。
昔も今も神や仏に御利益をお願いするというのは変わりません。
ところが、親鸞聖人が教えていかれた信心は、そういうものとは全く違います。
その全く違う親鸞聖人しか教えられていない信心を、蓮如上人は浮き彫りにされたのです。
それはどんな信心なのでしょうか?
雑行をなげすてた信心とは?
もろもろの雑行とは?
次の「もろもろの雑行をなげすてて」とは、もろもろの雑行をなげすてた信心ということです。
「もろもろの雑行」とは、人間の一切の計らい心のことです。
私たちは毎日色んなことを計らって生きています。
例えば、この神様を信じているより、こちらの神様を信じた方が御利益があるだろうと思ったりします。
また、旅行に行くときに、車で行こうか、電車で行こうか、飛行機で行こうかと考えます。
今日はどの洋服を着ていこうか、今日は何を食べようか、など、あれにしようか、これにしようかと比べて良いものを選んでいます。
世間の競争は激しいので、この計らい心はとても大事です。
この計らい心を「なげすてて」と聞くと、計らいは大事なものだから、投げ捨てたら生きていけないのではないかと思われる方もあるかもしれません。
しかし、蓮如上人が「なげすてて」と言われている計らい心、「もろもろの雑行」というのは、阿弥陀仏という仏様のなされたお約束を計らっている心だけを言います。
阿弥陀仏のお約束とは?
阿弥陀仏とはどういう仏様かと言いますと、大宇宙のすべての仏方の先生の仏様です。
阿弥陀仏は、深い深い慈悲の心によって、私たちとお約束をされているのです。
阿弥陀仏のお約束は、本願とか誓願とも言われます。
その阿弥陀仏のお約束の内容は、
「すべての人を変わらない幸せの身にしてみせる」
というものです。
このように阿弥陀仏が約束されていることを、お釈迦さまは一切経7千余巻に説かれています。
このことを親鸞聖人は『正信偈』にこう教えられています。
「如来所以興出世 (如来、世に興出したもうゆえんは)
唯説弥陀本願海」(唯、弥陀の本願海を説かんがためなり)
「如来」とは、釈迦如来、お釈迦さまのことです。
「如来、世に興出したもうゆえんは」とは、お釈迦さまがこの地球上に現れて、仏教を説かれた目的は、ということです。
「唯説」とは、ただ一つのことを説かれる為であった、ということです。
こんな断言は、お釈迦さまの説かれた一切経を全部読んで、正しく理解しなければできません。
まだ読んでないお経があれば、そこに別のことが説かれているかもしれないからです。
これは親鸞聖人が、一切経を何回も読み破られてなされた断言なのです。
では、そのお釈迦さまの説かれたたった一つのこととは何かといいますと、「弥陀の本願海」といわれています。
「弥陀」とは、阿弥陀仏のこと、「本願」とはお約束のことです。
阿弥陀仏のなされた広くて深いお約束を海にたとえて本願海といわれています。
ですから、この正信偈のお言葉は、お釈迦さまがこの世にお生まれになられたのは、海のように広くて深い阿弥陀仏の本願一つを説くためであった、ということです。
つまり、釈迦一代の教えは、阿弥陀仏の本願一つということです。
計らう心とは?
そんな阿弥陀如来の本願を聞くと、計らう心が起きてきます。
具体的にはどんな心が起きてくるのでしょうか?
例えば、「阿弥陀仏はすべての人を、と言われているが、自分はすべての人の中に入っているのだろうか」という気持ちが起きてくる人もあるでしょう。
「自分が本願にもれているとすれば、阿弥陀仏のお約束に嘘がある。
阿弥陀仏が嘘をつかれるはずがないのに」と思います。
また、変わらない幸福と聞くと「この世に変わらないということがあるのだろうか」と思う人もあるかもしれません。
相対の智慧しか知らない私たちは、「変わらない幸福が本当にあるのだろうか」と思います。
他にも「たとえ変わらない幸せがあっても、本当に自分がそんな幸せになれるのか」と思う人もあるかもしれません。
このような、阿弥陀如来の本願に対する計らいの心を仏教の言葉で雑行と言います。
一つではなく、色々出てくるので、「もろもろの」と言われています。
その阿弥陀如来のお約束に対する一切の計らい心をなげすててなくなった信心を「もろもろの雑行をなげすてて」と言われています。
では、どうすれば、もろもろの雑行がすたるのでしょうか?
どうすれば変わらない幸福になれるの?
次に蓮如上人は、
「一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう」と言われています。
「帰命」とは、阿弥陀仏の本願を聞く、ということですから、「一心に弥陀に帰命すれば」とは、一心に阿弥陀仏の本願を聞けば、ということです。
親鸞聖人の教えられた信心は、阿弥陀仏の本願を聞いた、という信心です。
次の「不可思議の願力として」とは、阿弥陀仏の不可思議の本願力によって、ということです。
次の「往生は治定せしめたまう」とは、往生は治定の身にさせてくだされるのである、ということです。
「往生は治定の身」とは、「往生」とは、極楽浄土へ往って仏に生まれることです。
この世で、阿弥陀仏のお約束通りに変わらない幸せになった人は、死ねば極楽浄土へ往って仏のさとりを開くことができます。
「治定」とは、ハッキリするということです。
「往生治定」のことを「往生一定」ともいいます。
一心に阿弥陀如来の本願を聞けば、阿弥陀仏の不可思議の本願力によって、死ねば浄土へ往って仏に生まれる身にさせてくだされるのである、ということです。
人生のゴールは?
次に蓮如上人は「その位を、『一念発起・入正定之聚』とも釈し」と言われています。
「その位を」とは、往生は治定の身になった、その時をということです。
「一念発起(いちねんぽっき)」とは、世間で言われるのは、パッと思い立ってやることを一念発起(いちねんほっき)と言っています。ですが、ここで蓮如上人が言われているのはこのような意味ではありません。
「一念(いちねん)」とは、これ以上ない短い時間で、あっという間もないことを言います。
「発起」とは、発も起も、無いものが起きることを言います。
何が起きるのかと言いますと、これまでに教えられた、
・もろもろの雑行をなげすてた時
・阿弥陀仏の本願を聞いた時
・往生は治定の身になった時
これらが一念で同時に起きるということです。
ですから、世間で言われる「一念発起」とは文字は同じでも全く違うことが蓮如上人の言われている一念発起です。
次の「入正定之聚」とは、それは同時に、正定之聚に入るとも言われるのだということです。
「正定之聚に入る」とは、正定聚の人たちの仲間になったことを言います。
この「正定聚」は、さとりでいえば、51段目にあたります。
さとりと言っても低いものから高いものまで全部で52あります。
その52段目が仏のさとりで、仏覚と言われます。
その一つ下、あと1段で仏という51段目を等覚(とうがく)と言い、正定聚とも言われます。
この正定聚になると、死ねば極楽浄土へ往って仏のさとりを開くことになりますから、往生治定の身になります。
すべての人は、後生の一大事という大問題を抱えて生きています。
「後生の一大事」とは、死んだらどうなるかという一大事のことです。
私たちが生まれてきたのは、この後生の一大事を解決して、絶対に変わらない幸せの身になるためですから、この親鸞聖人の教えられた信心を獲得した一念が、私たちが人間に生まれてきた目的であり、人生のゴールなのです。
では念仏は?
次に蓮如上人は、「その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし、御恩報尽の念仏と心得べきなり」と言われています。
「その上の称名念仏は」とは、一念発起の時に正定聚の身になった上で称える念仏はということです。
往生治定の身になって変わらない幸せになった後のことを言います。
阿弥陀仏の本願を聞いて、一切の計らい心がなくなると、正定聚になりますから、さとりの段階で言うと、51段目まで、高跳びしたことになります。
普通は、厳しい修行によって下から1段1段上がっていくのですが、それは想像を超えた難行苦行です。
それを51段高跳びできるのですから、大きな喜びの心が起きてきます。
次の「如来わが往生を定めたまいし」とは、如来とは、阿弥陀如来のことです。
阿弥陀仏は阿弥陀如来とも言われます。
これは、阿弥陀仏が私の往生をハッキリと定めてくだされた、ということです。
次の「御恩報尽の念仏と心得べきなり」とは、その大きなご恩に報いるお礼の念仏と心得なさい、ということです。
ここで初めて蓮如上人は念仏と言われています。
世間でいわれる念仏
念仏というと、世間では、「親鸞聖人は念仏を称えたら助かると教えられた」と思っている方もあるかもしれませんが、蓮如上人は、このことについて、『御文章』に
「それ、人間に流布して、皆人の心得たる通は、何の分別もなく、口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。それはおおきに覚束なき次第なり」
と教えられています。
「人間に流布して、皆人の心得たる通は」とは、世間のほとんどの人が思っているのは、ということです。
「何の分別もなく」とは、救われるまでに称える念仏と、救われてから称える念仏の違いを知らずに、ということです。
「念仏さえ称えたら助かる」と思っている人も、何の分別もない人です。
「口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり」とは、ただ念仏を称えていれば極楽に往けると思っている、ということです。
そのように思っているのは、「それはおおきに覚束なき次第なり」ということで、とんでもない間違いだ、と言われています。
しかし、ここで聞き誤ってはならないのは、蓮如上人は、念仏を称えないほうがいいとは、どこにも言われていないことです。
念仏は、尊い仏縁なのです。
聖人一流の章の現代語訳
これらのことから、聖人一流の章を現代語訳すると、このようになります。
「親鸞聖人90年の教えは、信心を本とせられています。
それはどんな信心かというと、阿弥陀仏のお約束を計らう心が一切なくなった信心です。
一心に阿弥陀仏のお約束を聞けば、阿弥陀仏の想像もできないお力によって、死ねば極楽浄土へ往って仏に生まれる身にして下さるのです。
これを、阿弥陀仏のお約束を聞いた一念の瞬間に、51段高飛びして「正定聚」の仲間入りする、とも言われます。
それから称える念仏は、阿弥陀如来に往生をハッキリ定めて頂いた、広大なご恩に報いるお礼の念仏と心得なさい」
親鸞聖人の教えとは
この「聖人一流の章」に教えられているように、親鸞聖人は信心を本とされています。
念仏ではありません。
蓮如上人は、親鸞聖人が90年の生涯で教えていかれたことは信心一つだと明らかにされているのです。これを「信心正因 称名報恩」というのです。
では、親鸞聖人が教えられた信心になるにはどうすればいいのか、浄土真宗の本質ですので、以下の講座をご確認ください。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能。