「現代人の仏教教養講座」

 

「浄土真宗」入門講座

浄土真宗の大切な所をわかりやすく解説

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生きる意味を、知ろう。

聴聞とは

聴聞」というと、世間では、単に話を傾聴することに使われたり、行政機関が規則を制定したり、争いごとの裁決などを行なうときに利害関係者や第三者の意見を聞くことをいいます。
ところが仏教では、まったく違う意味です。
しかも「仏法は聴聞に極まる」といわれ、仏教では聴聞が最も大切ですが、聴聞とは一体どんなことなのでしょうか?

仏法は聴聞に極まる

仏法は聴聞に極まる」は、蓮如上人のお言葉です。
蓮如上人は、親鸞聖人の明らかにされた浄土真宗の教えを、正確に、最も多くの人に伝えられた方です。
その蓮如上人が、『御一代記聞書』にこう教えられています。

至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、水よく石を穿つ。
「心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。
仏法は聴聞に極まることなりと云々。(御一代記聞書193)

至りて堅きは石なり」とは、当時、かたいものといえば石です。
至りて軟なるは水なり」とは、やわらかいものといえば水です。
そんなやわらかい水で、かたい石に穴があくと思いますか?
ところが屋根から雨だれが落ちます。
そこに石があって、雨だれが絶えずぽたぽた落ちていると、「水よく石を穿つ」軟らかい水が、堅い石に穴があけます。

そうおっしゃった後、蓮如上人は当時のことわざ「心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん」を引かれます。
心源」とは、心の源ですから、初心のことです。
心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん」とは、初心を忘れず、貫いたならば、できないことが何かあるだろうか、必ずできる、という意味のことわざです。

だから、「いかに不信なりとも」とは、まだ信心獲得していなくても、ということです。
まだ本当の幸せに救われていない人であっても、「聴聞を心に入れて申さば」とは、真剣に聴聞すれば、ということです。
真剣に聴聞すれば、「御慈悲にて候間、信を獲べきなり」とは、阿弥陀如来の御慈悲によって、必ず信心獲得できるんですよ、ということです。

ただ仏法は聴聞に極まることなり」だから仏法は聴聞に極まるんだよ。
極まる」というのは、2つも3つもない、これ1つということです。
聴聞一つで、信心獲得できると教えられています。

聴聞」というと、聴も聴く、聞も聞くですが、何を聞けばいいのでしょうか?

何を聴聞すればいいの?

仏法を聞くということはどういうことか、何を聞くことなのか、ということについて、親鸞聖人は『教行信証』にこう教えられています。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。
これを「聞」と曰うなり。
(教行信証)

衆生」とは、私たちのことです。
私たちが仏法を聞くということは、何を聞くのかというと、最近のニュースを聞くとか、苦しんでいる人の声を聞くのではありません。
親鸞聖人は「仏願の生起本末」を聞くということなんだ、と教えられています。

仏願」とは、阿弥陀如来の本願のことです。
阿弥陀如来の本願とは、阿弥陀如来という仏様が建てられた本願のことです。
本願とは誓願ともいわれますように、お約束ということです。
阿弥陀如来が、命をかけて固いお約束をされています。
これを阿弥陀如来の本願といいます。

生起本末」とは、阿弥陀如来はなぜ本願をおこされたのか、どんな人のために建てられたのか。
どういうことを約束なされたのか、ということが、生起本末ということです。

なぜ本願を建てられたのか

阿弥陀如来はなぜ本願をおこされたのかといいますと、それには原因があります。
私たちが人間に生まれてきたのは、幸福になるためです。
私は不幸になるために生きています
という人はありませんから、生きる目的は幸福ということに異論を唱える人はありません。
すべての人は、幸福になるために生きています
政治も経済も、科学も医学も、人間を幸福にするためにあります。
人間の営みのすべては幸福になるためなのです。

政治を変えたら幸せになれる、経済を変えたら幸せになれると思って、共産主義にしたり、民主主義にしたりしています。
科学や医学が進歩したら幸せになれると思って研究がなされています。

では、政治が変わり、経済が繁栄して、科学や医学が進歩して、幸せになったでしょうか?

苦しんでいる人は減りませんし、自殺する人も減りません。
先進国ほど自殺率が高く、日本だけでも年間約3万人の人が自殺しています。

そんな私たちをご覧になられた阿弥陀仏は、何とかしてすべての人を本当の幸せにしてやりたいと思われたのです。
そのためには、すべての人の苦しみの根元を明らかにして、その根元を取り除いてやるしかないと考えられました。
なぜ、どんなに長生きしても、科学が発展しても、幸福になれないのか
阿弥陀如来が長い長い間考えられて、つきとめられたのです。

これは、大宇宙のたくさんの仏方にも分かりませんでした。
お釈迦さまにも分かりませんでした。
大宇宙の諸仏の先生である阿弥陀仏だけが苦しみの根元をつきとめることができたのです。

仏教の結論

それで、大宇宙の仏方が、さすがは私たちの先生だと阿弥陀仏に対して手を合わせずにおれなかったのです。
それでお釈迦さまも大宇宙の仏方も、仏教の結論として、こう教えられています。

一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)

これは、お釈迦さまが『大無量寿経』に、仏教の結論として説かれているお言葉です。
無量寿仏」とは阿弥陀仏のことです。
一向専念」とは、阿弥陀仏一つに向きなさい、阿弥陀仏だけを信じなさい、ということです。

お釈迦さまや親鸞聖人が、なぜ一向専念無量寿仏しなさいとおっしゃったのかというと、 阿弥陀仏しか私たちの苦しみの根元をつきとめられた方はないからです。
原因を知らなかったら、原因をなくして幸福にする、助けるということはできませんから、
阿弥陀仏しか私たちを助ける力はありませんよ、阿弥陀仏に助けてもらいなさいよ」 そのときには
阿弥陀仏一仏に向きなさいよ、阿弥陀仏だけを信じなさいよ
とお釈迦さまは教えられているのです。

私たちの苦しみの根元をつきとめられた阿弥陀仏は、必ず苦しみの根元を断ち切って、絶対に変わらない絶対の幸福にしてやろうとお約束されています。
苦しみの根元は、一念で絶ちきられます。
何億分の一秒よりも短い瞬間に苦しみの根元がなくなって、絶対の幸福になれるのです。
これが阿弥陀如来の本願であり、仏願です。

では、仏願の生起・本末を聞いて、「疑心有ること無し」とはどんなことでしょうか?

本願に疑いがなくなったとは?

疑心有ること無し」の「疑心」とは、人や物を疑う心ではありません。
阿弥陀如来の本願を疑う心です。

阿弥陀仏は、「どんな人も必ず苦悩の根元を断ち切って絶対の幸福に救う」とお約束されています。
そう聞くと、必ず、そんな絶対の幸福なんてあるのだろうか、あっても私がなれるのだろうか、という疑いが出てきます。
それが「疑心」です。

その疑心が、一念で苦悩の根元が断ち切られたとき、絶対の幸福になりますから、阿弥陀仏の本願に対してツユチリほどの疑いもなくなります。
これが「疑心有ること無し」です。

親鸞聖人がはこういわれています。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言」(教行信証総序)

摂取不捨の真言」とは、阿弥陀如来の本願のことです。
まことだった、本当だった、阿弥陀仏の本願に嘘はなかった、と喜ばれているのです。
阿弥陀仏の本願の通りの絶対の幸福の身になったならば、阿弥陀仏の本願に対する疑いは全くなくなるから、疑心有ること無しとハッキリします。
これを聞という」と教えられているのです。

では、「聴聞」の聴はどんな意味なのでしょうか?

聴聞の聴と聞の違い

もともと「聴聞」はお釈迦さまのお言葉ですが、親鸞聖人はその「」は「ユルサレテキク」ことであり、「」は「シンジテキク」ことであると、丁寧に教えられています。

シンジテキク」というのが「」ですから、「仏願の生起・本末」をきいて「疑心有ること無し」となった「」です。これは本願を信じようとする信じ方ではなく、一念で絶対の幸福に救い摂られ、阿弥陀仏の本願に対して疑いがなくなったことです。

しかも「疑い無し」ではなく「疑心有ること無し」です。
友人に「100万円貸してください」と頼んだとき、「100万円なんてないよ」といわれたら、また1年後には100万円ができているかもしれません。
ところが「100万円なんて有ること無しだよ」といわれたら、1年経っても10年経っても、ないということです。

阿弥陀仏の本願を疑う心が金輪際出てこなくなったのが「疑心有ること無し」の「」なのです。

次に「ユルサレテキク」といわれた「」とは、自惚れ強い私たちが阿弥陀如来の本願を聞くと、必ず疑心が起きます。
絶対の幸福なんて本当にあるのだろうか
私だってその気になれば幸せになれる
生きている今救うというのは、いつのことだろう?
私のような者は救われないのではなかろうか
阿弥陀如来の本願を素直に聞ける人など一人もいないので、このような色々な疑いが出てくるのです。

このように、本願を疑い、阿弥陀仏の大慈悲を踏みにじりながらも、阿弥陀如来のお許しを頂いて聞いているのが「ユルサレテキク」の「」なのです。

どなたの声を聞く?

このように聴聞の「」は、阿弥陀如来の本願を正しく説かれる先生の教えを聞く、ということです。
それに対して聴聞の「」は、阿弥陀仏の呼び声を聞くのです。
人間の声ではありません。
親鸞聖人は、その阿弥陀仏のじかの呼び声を「本願召喚の勅命」といわれています。
そのまま来いの勅命なのです。

その弥陀の呼び声が聞こえる一念までは、本願を正しく説かれる先生の教えを聞くのです。
これを蓮如上人は、
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり

と言われているのです。

聴聞」に極まるというのは、「」と「」以外に助かる道は無い、ということですから、苦悩の根元が断ち切られ、絶対の幸福になるまで、聴聞の一本道です。

ではどういう気持ちで聴聞すればいいのでしょうか?

どういう気持ちで聴聞する?

聴聞するといっても、聞き流したり、軽い気持ちで聞いていてもいいというわけではありません。
聴聞の心構えについて、お釈迦さまはこう教えられています。

たとい大火ありて三千大千世界に充満せんに、
かならずまさにこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜信楽す(大無量寿経)

大宇宙が火の海になっても、その中かきわけて聞かねばならないのが仏教であり、阿弥陀如来の本願だということです。
これを親鸞聖人は、分かりやすくこう教えられています。

たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり(浄土和讃)

火の海かき分けても聞かねばならぬのが仏法だ。
火中を突破する覚悟できけ。必ず変わらない幸せになれる

と、真剣な聴聞を勧められています。

では真剣な聴聞とは、具体的にはどういうことかというと、例えばふすま一つ隔てた隣の部屋から聞こえてくるひそひそ話に、自分の名前が出たとします。
すると、何か自分の悪口を言っているのではないかと思って、じっと耳を澄まします。
そして、隣のひそひそ話は一言も漏らさず耳をそばだてて聞きとろうとします。
そんな隣の部屋の噂話を聞くような気持ちで聴聞するのです。

こうして聴聞の一本道を進んで行き、最後、苦悩の根元が断ち切られ、絶対の幸福になれるのです。

では阿弥陀仏が見抜かれて苦悩の根元とは何か、ということについては、以下の小冊子に分かりやすくまとめてありますので、今すぐお読みください。

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著者紹介

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生おさなみみずき

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。何とか仏教に関心のある人に知らせようと10年ほど失敗ばかりした後、インターネットの技術を導入し、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者3千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらおうと奮戦中。

仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能