浄土真宗の御本尊は?(本尊論)

現在の浄土真宗では主に阿弥陀如来像を本尊にしています。
いわゆる木像や絵像です。
木像」とは、阿弥陀仏のお姿を金属や木に彫った立体像です。
絵像」とは、阿弥陀仏のお姿を小さい掛け軸に書かれたものです。
これらは本当に、浄土真宗の御本尊なのでしょうか?

この記事では、
・御本尊とは何か
・浄土真宗の御本尊とその経典上の根拠、
・浄土真宗の祖師・親鸞聖人の教え
・3代目、本願寺を創立した覚如上人の教え
・8代目、浄土真宗中興の蓮如上人の教え
・現代の浄土真宗の学者の見解
について分かりやすく解説します。

御本尊とは?

まず、御本尊とは何でしょうか?

本尊」とは「根本に尊ぶべきもの」ということです。
ですから御本尊をご安置するお仏壇は、下駄箱やトイレの横に置いたりはしません。
その家の中で一番立派な部屋にお仏壇を置き、そのお仏壇の中央に、御本尊をご安置します。
火事があれば、一番最初におうつしするのは御本尊です。次に、貯金通帳です。
そうでないと、御本尊と言えません。
自分の家が火事になれば、たとえお仏壇の柱を折ることがあっても、御本尊だけは絶対にお護りするのです。

では、どんなものを根本に尊ぶのでしょうか。
それは、私たちを助けてくださるものです。
どんな宗教でも、それを信ずることによって救われるものを最も尊びます。
仏教では、その信ずる対象を本尊とするのです。
だからこれ程大切なものはありません。

その御本尊がデタラメだったら大変なことになります。

では、浄土真宗では何を信ずるのでしょうか?

浄土真宗の信ずる対象は?

多くの人は、浄土真宗で信ずる対象は阿弥陀如来だと思っていますが、そうではあません。
浄土真宗では何を信ずるのかは、親鸞聖人に聞かなければなりません。
親鸞聖人は、このように言われています。

「横超」とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり。
教行信証

横超」とは阿弥陀仏の本願のことです。
願成就」とは、お釈迦さまが『大無量寿経』に説かれた「本願成就文」のことです。
本願成就文が、「一実円満の真教真宗」といわれています。
一実」とはたった一つの真実、
円満」とは完全無欠で欠け目がない、
真教」とは真実の教え、
真宗これなり」とは、浄土真宗はこの本願成就文の教えである、ということです。

この本願成就文に教えられた信ずる対象が、本尊となるのです。
ただ、信ずる対象というと自力の信心となってしまうので、親鸞聖人の明かされたのは他力の信心ですから、「所信の体」といいます。
所信の体」とは、信じられる所のものがら、信じられるものがらということです。
それについて「本願成就文」にこう教えられています。

あらゆる衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せん(大無量寿経)

すべての人は、その名号を聞いて、信心歓喜と救われると説かれています。
所信の体」は「名号」ということです。
名号とは南無阿弥陀仏のことです。

だから親鸞聖人は、浄土真宗の御本尊は、名号一つだと教えられているのです。
もちろん親鸞聖人自らも一生涯、御名号のみを本尊として行かれ、お弟子にも下付されています。

蓮如上人も、一生涯、名号を本尊とせられ、お弟子にも下付されたのは歴史上の事実です。

名号本尊の最初は?

このようなお釈迦さまの御心を明らかにされたのは、親鸞聖人が最初ですから、名号本尊の最初も親鸞聖人です。

親鸞聖人以前の善知識はどうされたのかといいますと、本願成就文ではなく、『観無量寿経』の立場で阿弥陀如来の本願を見てこられたのです。
観無量寿経』には韋提希夫人が阿弥陀如来のお姿を拝すると同時に救われた「見仏得忍(けんぶつとくにん)」の体験が説かれています。
見るにはどうしても絵像や木像のような形がなければできませんので、その立場で教えられているのです。
しかし、見仏の体験は、お釈迦さまのような生きた仏さまに導かれた時代にできたことで、現在のような時代ではできません。
現代では、名号を聞いて救われるのです。
これを「見聞一致(けんもんいっち)」といいます。

たまに絵像や木像を本尊として救われた人がいるから名号本尊でなくてもよい、という人がいます。
しかし、絵像や木像で救われる人が、もし名号本尊だったら、もっと早く救われたでしょう。
浄土真宗の人ならば、最も早く救われる道を教えられた親鸞聖人のなされた通りにやればよいのです。

浄土真宗は本願成就文の教えで、所信の体が名号であることは、少し勉強すれば異論を唱える人はありません。浄土真宗の常識です。
そして、浄土真宗の御本尊を御名号に定められたのが親鸞聖人なのです。

それにもかかわらず現在の浄土真宗で、木像や絵像を本尊としているのは、阿弥陀仏が必ず助けるとお約束して下されているんだから、阿弥陀仏を御本尊にすればいいのだろうと思って、絵像とか、木像を本尊とするのです。
しかし阿弥陀仏と南無阿弥陀仏は同じではありません。
木像や絵像を本尊としている人や、木像や絵像でもいいと言っている人は、この違いを知らない人なのです。

3代目の覚如上人の教え

次に浄土真宗の3代目の覚如上人は、このようにいわれています。

『大経』の中には第十八の願をもって本とす。
十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす。
(改邪鈔)

阿弥陀如来の本願(十八願)は、本だけれども、至極ではないんだよ。
教えの至極は本願成就文なんだよ

ということです。
そこで、本願成就文を見ると、私たちを助けて下されるのは、御名号だとハッキリしています。

御名号を本尊とすればよい。
そのお釈迦さまの教えの通りに親鸞聖人も一生涯、御名号のみを御本尊とされたのです。
覚如上人はそのことを『改邪鈔』に、こう記されています。

本尊なおもて『観経』所説の十三定善の第八の像観よりいでたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。
天親論主の礼拝門の論文、すなわち「帰命尽十方無碍光如来」をもって、真宗の御本尊とあがめましましき。(改邪鈔)

形像」とは、木像や絵像のことです。
祖師」は親鸞聖人のことですから、
木像や絵像を親鸞聖人は決して本尊とされず、名号をもって浄土真宗の御本尊とされた
ということです。

実際、覚如上人が、親鸞聖人の御廟である大谷御廟を寺院として本願寺という寺号を掲げられると、まず名号本尊を御安置されました。
その創建当時の名号本尊は、8代目の蓮如上人が裏書きをされて現存しています。

ところが、5代目の綽如の時代に、本尊を名号から木像に変えてしまったのです。
そのため、やがて8代目の蓮如上人が法主になられると、まず最初になされたことは、御本尊の統一でした。

8代目の蓮如上人の教え

蓮如上人御一代記聞書には、このように言われています。

「南无の字は、聖人の御流儀にかぎりて、あそばしけり」
南無阿弥陀仏を泥にてうつさせられて、御座敷にかけさせられて、仰せられけるは、
「不可思議光仏・無碍光仏も、この南無阿弥陀仏をほめたもう徳号なり。
しかれば、南無阿弥陀仏を本とすべし」
と、おおせそうろうなり。
(御一代記聞書23)

泥にて」というのは、金泥のことで、金粉をにかわ水に溶き混ぜた絵の具です。
蓮如上人は、親鸞聖人の流儀にならって南無阿弥陀仏の名号を、紺紙に金泥にてお書きになられ、座敷にかけて皆に礼拝させられました。
そして、南無不可思議光如来の9字の名号も、帰命尽十方無碍光如来の10字の名号も、南無阿弥陀仏を褒め称える名号だから、南無阿弥陀仏の名号を根本であると明示されたのです。

実際に、現存する蓮如上人直筆の御本尊は、ほとんどが南無阿弥陀仏の六字の名号です。
蓮如上人御一期記』では、こうあります。

我ほど名号書きたる者は日本にあるまじきぞと仰せられける時に、慶聞房申されごとには、三国にも稀にましますべしと申されければ、誠に左もあるべしとぞ仰られける

このように、8代目の蓮如上人も御名号本尊以外に礼拝せられたことはなく、門徒にも名号本尊を勧められたのです。

それで蓮如上人は、こう教えられています。

他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。
当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。
(御一代記聞書)

他流」とは、浄土他流ということで、浄土真宗以外の浄土宗や時宗などです。
他に流れてゆくとありますが、同じ阿弥陀仏を信じていても、極楽浄土へ往けず、他へ流れてゆくということです。
そんな人たちは、何を本尊にするのでしょうか。

名号よりは絵像、絵像よりは木像」ですから、名号よりは絵像がいい。
絵像よりは木像がいい、というのです。
だから、極楽以外の他のところへ流れてゆくのです。

 ← ← ← ←
┌─┐┌─┐┌─┐
│木││絵││名│
│像││像││号│
└─┘└─┘└─┘

ところが、親鸞聖人はどうでしょうか。
当流」とは浄土真宗・親鸞聖人の教えです。
御本尊は、木像よりは絵像。
絵像よりは名号です。

こう教えられて、親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も、御名号しか本尊にせられなかったのです。

この矢印は反対です。

← ← ← ←他流
┌─┐┌─┐┌─┐
│木││絵││名│
│像││像││号│
└─┘└─┘└─┘
当流⇒ ⇒ ⇒ ⇒

これが同じでしょうか。

たまに「形像は、名号をお姿の上で表されたものだから別体ではない」
などという人がありますが、それは阿弥陀如来と名号の違いを知らない人です。
同じなら、なぜ蓮如上人が、他流は木像、当流は名号と言われるのか説明できません。
これをどれでも同じと言っては、蓮如上人を否定しているようなものです。
その上、どれでも同じと言っている人の本尊は、なぜか絶対に御名号ではなく、必ず絵像か木像です。
どれでも同じなら名号にすればいいのに、それでも木像や絵像を本尊にしている人は、浄土真宗ではなく、浄土他流です。
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と異なった信心なのでしょう。

このように蓮如上人が本願寺を受け継がれた時、まずなされたのが、御本尊の統一でした。
御一代記聞書』には、こうあります。

蓮如上人の御時、あまた御流に背き候本尊以下、御風呂の度毎に焼かせられ候。
(御一代記聞書223)

蓮如上人は、親鸞聖人の教えに反する御本尊は、焼却されたのです。
焼くというのは、一番失礼にならない処分の仕方です。
どこかに捨てたりしますと、踏まれたり、傷つけられたり、動物がくわえたり、非常に勿体ないことになります。
それで、浄土真宗の正しくない御本尊は、焼いてしまうのが一番なのです。

このように蓮如上人は、浄土真宗の御本尊を明らかにされ、正されたのですが、やがて11代目顕如上人の後、本願寺が西本願寺と東本願寺に分裂すると、東西本願寺が末寺を勧誘するために、1602年頃からたくさんの木像本尊を下付するようになり、現在に至るのです。
木像の方が有難く感じるからといって、色々と苦しい言い逃れを探してきて、浄土真宗の明らかな教えを曲げていくから、どんどん狂っていくのです。

現代の浄土真宗の学者の見解

ただし、浄土真宗の学者ともなると、こういうことは全部分かっています。
2017年の龍谷大学教授の川添泰信『イラストで知る浄土真宗』にはこうあります。

浄土真宗では、仏像ではなく名号が本尊
親鸞自身が名号を礼拝の対象とし、門弟が本尊授与をのぞんだときには、名号を本尊として与えた。
名号を本尊としたのは、親鸞の独創によるものだ。
親鸞は形象の阿弥陀仏(つまり仏像)の礼拝にも否定的だったが、それは仏像を見て浄土に生まれることを願うのは観仏という自力の行であって、他力の念仏者がすべきことではないからだという。
今日の本願寺教団の基盤をつくった本願寺第八代蓮如は、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と表現して、親鸞が名号を本尊とした主旨を鮮明にし、自らも六字名号を数多く書き、門徒に配布した。
(川添泰信『イラストで知る浄土真宗』)

このように、タイトルに、本尊は仏像ではなく名号、とありますから、浄土真宗の正しい御本尊は木像や絵像ではなく、名号であることは、ある程度浄土真宗の勉強をした人には常識なのです。
それを他力信心もなければ、教えも知らない人は、絵像や木像に迷ってしまっているのです。

浄土真宗の御本尊の究極の根拠

正しい御本尊が名号であることは、信心決定すればハッキリ知らされることです。

それに蓮如上人御一代記聞書のお言葉、
「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。
 当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
は、明白で分かりやすいのですが、浄土真宗の御本尊が名号である根拠は、あくまで最初にあげた親鸞聖人のお言葉である「願成就一実円満の真教真宗これなり」です。

親鸞聖人は、本願成就文が、唯一完全無欠の教えであるといわれています。
正しい教えから、正しい御本尊が出てくるのですが、その正しい教えが伝えられていないのです。
お釈迦さまが本願成就文に説かれている通り、あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜の一念まで、進ませて頂けるのです。

たまに、何かの伝説を持ち出して、ああだこうだとしょーもないことを言い出す人がいますが、伝説で本願成就文を覆すことはできません。
取るに足らないことです。

親鸞聖人の教えの通り実践する人は、御名号を御本尊として安置してください。
しかしながら、ただ御名号をお仏壇に御安置すればよい、というものではありません。
お釈迦さまや親鸞聖人の教えられた通り、南無阿弥陀仏を頂いて、人間に生まれてよかったという信心歓喜の身にならなければなりません。
それにはどうすればいいのかを小冊子にまとめてありますので、以下から読んでみてください。

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著者紹介

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生おさなみみずき

仏教が好きで、東京大学教養学部で量子統計力学を学んだものの、仏道へ入る。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。何とか仏教に関心のある人に知らせようと10年ほど失敗ばかりした後、インターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション(株)を設立。著書2冊。通信講座受講者3千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらおうと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能