浄土真宗の年中最大行事・報恩講とは
浄土真宗の年中最大行事は報恩講です。
蓮如上人も非常に重視されています。
一体どんな集まりなのでしょうか?
浄土真宗にしかありえない報恩講
浄土真宗では、毎年親鸞聖人のお亡くなりになられた11月28日を中心に「報恩講」が催されます。 「ほんこさま」などといわれる地域もあります。
「報恩講」は、浄土真宗の3代目、覚如上人が、『報恩講式』を書かれた1294年、親鸞聖人の33回忌から始められたといわれます。
『報恩講式』には、式次第がまとめられています。
報恩講は、親鸞聖人のご命日の忌日法要であり、浄土真宗の最も大切な、年中最大行事です。
何をするのかというと、「報恩講」と書くように、親鸞聖人のご恩に報いる集まりです。
「報恩講」は、浄土真宗に特有の行事です。
なぜなら、浄土真宗の教えは、「平生業成」だからです。
「平生業成」とは、生きている平生に、生きる意味を果たして絶対の幸福になれる、ということです。
生きているときに救われなければ、ご恩に報いるということもできません。
生きているときに救われるのは、仏教の宗派の中では平生業成を一枚看板とする浄土真宗だけですから、報恩講も、浄土真宗にしかありえないのです。
生きている時に救われるのは、親鸞聖人が墨染めの衣に数珠一連持たれて、全国各地廻られて大変なご苦労をせられて私たちに仏法を伝えて下されたからです。
もし親鸞聖人90年間のご苦労がなかったら絶対に聞かせていただくことができなかったのが、本当の生きる意味です。
そのご苦労をしのび、ご恩に報いる集まりが報恩講です。
親鸞聖人のご恩を知らない人は?
浄土真宗の8代目の蓮如上人は、御文章3帖目の11通に「毎年不欠」にこのように教えられています。
「そもそも今月二十八日は、開山聖人御正忌として、毎年不闕に、かの知恩報徳の御仏事においては、あらゆる国郡、そのほかいかなる卑劣のともがらまでも、その御恩をしらざるものは、まことに木石にことならんものか」
「そもそも今月二十八日は、開山聖人御正忌として」とは、
「今月二十八日」は、11月28日です。
「開山聖人御正忌」が親鸞聖人報恩講です。
次に、「毎年不欠に、かの知恩報徳の御仏事においては」とは
「毎年不欠」とは、毎年欠かさず、
「かの知恩報徳の御仏事」とは親鸞聖人のご恩に報いる報恩講のことです。
「あらゆる国郡、そのほかいかなる卑劣のともがらまでも、その御恩をしらざるものは、まことに木石にことならんものか」とは、どんな所の、どんなに身分の低い人であっても、このご恩を知らない人は、木や石のようなものだ、ということです。
木や石は、血が通った人間ではありません。
「恩を知らざる者は犬畜生にも劣る」といわれますように、そんな恩知らずは人間ではない、といわれています。
親鸞聖人は、本当の生きる意味を教えてくだされた方ですので、目的と手段でいえば、本当の生きる目的です。
生き方や生きる手段を教えてくだされたご恩とは別格なのです。
その生きる意味を明らかにされた親鸞聖人のご恩に報いるのが報恩講なのです。
蓮如上人のご遺言は?
蓮如上人の御文章は、一番最後に書かれたのは、4帖目15通です。
これは蓮如上人が84歳で書かれた最後のお言葉ですから、ご遺言ということです。
遺言というのは、「納豆が腐らないように食べておいてくれ」とか、「玄関の前の石を横にどけておいてくれ」とか、どうでも言いことは言い残しません。
人生をかけてこれ一つ言い残したいということを遺言するのです。
その御文章4帖目15通の最後に、
「あいかまえてあいかまえて、この一七か日報恩講のうちに於いて、信心決定ありて、我人一同に往生極楽の本意を遂げたもうべきものなり」
と記されています。
「あいかまえてあいかまえて」とは、私たちに念を押しておきますよ、ということです。
「この一七か日報恩講のうちに於いて」とは、当時、報恩講は7日間続けて法話がありましたので、その中で、ということです。
「信心決定ありて、我人一同に往生極楽の本意を遂げたもうべきものなり」
とは、「信心決定」とは、阿弥陀仏の救いにあって、絶対の幸福になることです。
絶対の幸福になりますと、死ぬと同時に、阿弥陀仏の極楽浄土に往って、仏に生まれる身になりますから、それを「往生極楽の本意を遂げる」といわれています。
しかもそれは、自分だけ救われればいいということではありません。
「我人一同に」ですから、自分だけでなく、周りの人も皆さんお誘い合わせの上で報恩講に参詣して、共に親鸞聖人の教えを聞いて、絶対の幸福に救われてもらいたい、ということです。
このように、蓮如上人のご遺言は「報恩講で信をとれ」ということなのです。
親鸞聖人のご恩に報いるには?
ではどうすれば、信心決定して、親鸞聖人のご恩に報いることができるのでしょうか?
親鸞聖人のご恩に報いるには、親鸞聖人が願っておられることは何か、まず知らねばなりません。
親鸞聖人の教えてゆかれたことを聞かせて頂き、その教えの通りにさせて頂くことが、もっとも親鸞聖人が喜ばれることです。
然るに親鸞聖人90年間教えて行かれたことは、信心決定して、本当の幸せになってもらいたい、ということでした。
ですから、私たちが親鸞聖人の教えを聞いて、信心決定することが、一番親鸞聖人が喜ばれ、ご恩に報いることになるのです。
このことを蓮如上人は、御文章4帖目8通にこのように教えられています。
「当年の報恩講中に限りて、不信心のともがら、今月報恩講の中に、早速に真実信心を獲得なくば、年々を経というとも同篇たるべきように見えたり。愚老が年齢すでに七旬に余りて、来年の報恩講をも期しがたき身なるあい
だ、各々に真実に決定信を獲しめん人あらば、一は聖人今月の報謝のため、一は愚老がこの七八箇年のあいだの本懐とも思いはんべるべきものなり」
「当年の報恩講中に限りて、不信心のともがら」とは、今年の報恩講で、まだ信心決定していない人があったなら、ということです。
「今月報恩講の中に、早速に真実信心を獲得なくば」とは、もしあなたが今年の報恩講で信心決定できないのなら、
「年々を経というとも同篇たるべきように見えたり」とは、毎年毎年、時間ばかり経ちますが、同じことですよ。この蓮如、何のために力を尽くしてきたかわからない。いい加減に性根を入れて仏法を聞きなさい、ということです。
「愚老が年齢すでに七旬に余りて」とは、この蓮如、すでに70歳を過ぎた、ということです。この御文章は、71才のときのお手紙です。
「来年の報恩講をも期しがたき身なるあいだ」とは、恐らく今年の報恩講に説法に立つことができても、来年の報恩講はどうなるか分からない。これが最後かも知れない、ということです。
「各々に真実に決定信を獲しめん人あらば、一は聖人今月の報謝のため、一は愚老がこの七八箇年のあいだの本懐とも思いはんべるべきものなり」とは、だからあなた方おのおのに真実の信心決定してくれよ。
もしこのたびの報恩講で信心決定する人があったのなら、一つは今月の親鸞聖人のご恩に報いることになる。
もう一つは、この老いた愚かな蓮如が必死で最後に説法を重ねてきた本懐を遂げることができる。
これぞ本当の報恩講だ、ということです。
では、どうすれば信心決定できるかというと、「仏法は聴聞に極まる」といわれるように、親鸞聖人の教えを聞く一つです。
ですから、親鸞聖人の報恩講といっても、親鸞聖人の教えを聴聞する、聞法のご縁なのです。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能。