源信僧都(げんしんそうず)とは?

源信僧都自画像
源信僧都自画像

源信僧都(942-1017)は平安時代の僧侶です。
現代日本人の地獄のイメージは、主著『往生要集』に記された地獄絵図によるものです。
天台宗の比叡山にありながら、念仏の教えを明らかにされ、浄土真宗では七高僧の6番目にあげられて親鸞聖人が非常に尊敬されている高僧です。
一体どんな方で、どんなことを教えられたのでしょうか?

源信僧都の生い立ち

源信僧都は、 平安時代の中頃の942年に、大和国(今の奈良県)の当麻(たいま)という里にお生まれになりました。
お父さんを卜部正親(うらべまさちか)といい、お母さんは、清原氏でした。
2人の間には、女の子が2人あったのですが、男の子は生まれませんでした。
ある晩、お母さんは、僧侶から美しい玉を手渡される夢を見ました。
その後、玉のような男の子が生まれ、「千菊丸(せんぎくまる)」と名づけました。
それが後の源信僧都です。

千菊丸は正直な性格で、ずば抜けて賢く、すくすくと育っていきました。

7才、お父さんの死

ところが、7才の時、お父さんが重い病にかかります。
もう回復の見込みはないと覚悟したお父さんは、千菊丸を枕元に呼んで、
幼いそなたを残してこの世を去らなければならないのは残念でならない。
お父さんの亡き後は、どうか出家して僧侶になってもらいたい、これは遺言だ

と言って、帰らぬ人となったのでした。

くもった鏡の夢

千菊丸が9才になったある晩、いやに鮮明な夢を見ました。
あるお寺のお経のおさめてあるお堂に、たくさんの鏡がありました。
そこへ忽然と僧侶が現れて、くもった鏡を手に取り、
お前のはこれだ。これを持って横川(よかわ)に行き、磨き上げてこい
と言います。
その鏡を受け取ったところで目が覚めました。
お母さんに話すと、
鏡は智慧をたとえたものでしょう。お前はまだ智慧が暗いから、横川というのはどこか知らないけれど、そこへ行って仏道修行をして磨いてみよ、
ということでしょう

と教えてくれたのでした。

旅の僧侶を言い負かす

その後まもなく、事件が起きます。
ある日、友達と河原で遊んでいると、1人の旅の僧侶が川の水で鉄の鉢を洗い始めました。
それを見た千菊丸は、
お坊さん、あっちにもっときれいな川がありますよ
と教えてあげました。

にっこりと笑って、旅の僧は、
元来すべてのものは浄穢不二(じょうえふに)じゃ。
この水はきれいだとか、この水は汚いというのは、凡夫の迷いなのじゃ

すると千菊丸は、
それならどうしてお坊さんは鉢を洗っているの?
と素朴な疑問を発しました。

これには唖然として、旅の僧は、答えることができませんでした。
千菊丸はそんなことは関係なく、もう向こうにいって小石を拾って遊び始めています。
旅の僧侶は、子供に言い負かされたとなると、そのまま帰るわけにはいきません。
千菊丸のほうへ近づいて行き、
坊や、そなたはたいそう利口な子供じゃのう
わしには一つ分からないことがある。
今、そなたが一つ、二つ、三つと小石の数を数えておるが、9つまでは『つ』をつけて数えるのに、なぜ十(とお)は『つ』をつけないのじゃ?
「そんなの当たり前だよ、お坊さん。
五つの時に『つ』を2回使ったんだから、もう十の時には足りなくなったんだよ
それを聞いた旅の僧侶は、あっと目を見張り、
こんなに頭のいい少年は初めて見た。
もし出家して仏道修行をすれば、偉大な高僧になるかもしれん

ともう言い負かされた悔しさはどこへやら、喜びがこみ上げてきました。

旅の僧侶は、千菊丸にお母さんのもとへ案内してもらい、自分の師匠である良源(りょうげん)について、比叡山に出家してはどうかと勧めたのでした。
お母さんは、突然の話にびっくりしましたが、父親の遺言でもあり、卜部家の後継者であったにもかかわらず、出家に同意したのでした。

9才、出家

数日後、良源からの使者がやってきました。
いよいよ旅立ちの日です。
お母さんは、「今日からそなたは、比叡山に登って、仏門に入るのじゃ。
立派な僧侶になるまで帰ってきてはならぬ

と、父が肌身離さず大切に持っていた『阿弥陀経』を持たせ、涙の中に送り出したのでした。
千菊丸も、泣く泣くお母さんやお姉さんたちと別れを告げ、使者に連れられて、比叡山に登ったのでした。

13才、受戒・法名は源信

良源というのは、後に比叡山の座主になる人で、良源僧正とか、慈慧大師といわれ、天台宗中興の祖とされる有名な僧侶です。
良源は、千菊丸を一目見るなり、そのたぐいまれな才能と仏縁の深さを見抜きました。
輝くまなこはいかにも利発で、その中に一抹の憂いを秘めています。
さっそく良源は厳しく指導を始めました。
身の回りの世話をさせながら、僧侶の心構えや仏教の教えをみっちりと教え込みます。
それは非常に厳格なものでしたが、千菊丸は、良源も舌を巻く勢いで習得していったのでした。

そのすばらしい成長ぶりに、やがて千菊丸が13才になると、良源は戒律を授け、自分の字を一字とって「源信」という法名を与えたのでした。

15才、天皇に説法

源信は良源の期待に応え、学問では比叡山で一二を争うほどになります。
その上、頭が良いだけでなく、修行もすばらしいもので、源信の評判はついに時の村上天皇にまで聞こえたのでした。
やがて天皇から「宮中で『称讃浄土経』を講義せよ」といわれます。

称讃浄土経』とは、『阿弥陀経』の異訳のお経です。
鳩摩羅什の翻訳した『阿弥陀経』に対して、玄奘が翻訳したのが『称讃浄土経』です。

当日、源信が宮中に赴くと、目もくらむような清涼殿で、天皇を始め、たくさんの大臣たちが参詣しています。
源信はそこで、弁舌さわやかに『称讃浄土経』を講義したのでした。
その堂々たる熱意と、講義の深さ、分かりやすさは、並みいる天皇や貴族をことごとく感嘆させ、源信は、その場で「僧都(そうず)」の位と、美しい衣をはじめとするたくさんの褒美の土産をもらったのでした。

母親の厳しい戒め

若くして時の天皇からほめられた源信僧都は、有頂天になりました。
お母さんにも教えてあげたら、きっと喜んでくれるだろうと、もらった褒美の品々をお母さんに贈って、手紙で報告したのでした。

ところが、お母さんの反応は意外なものでした。
しばらくすると、すべての褒美の品々が送り返され、
後の世を 渡す橋とぞ思いしに
  世渡る僧と なるぞ悲しき

という歌が添えられていたのでした。

後の世」というのは、後世とか後生ともいいます。
この後世について蓮如上人は、『御文章』にこう教えられています。

それ、八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす。
たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とすと言えり。
(御文章五帖)

八万の法蔵」というのは、お釈迦さまが説かれた一切経です。
それだけではなく、この世のすべての知識が八万の法蔵に入ります。
八万の法蔵を知る人というのは、何を聞いても答えられる人です。
普通はそういう人は賢い人です。
ところが「愚者」というのは、愚か者ということで、バカのことです。
何を聞いても適切に答えられるバカがいる。
それはどんな人かというと、仏教では、後世が分からない人は、愚か者だ、ということです。

一文不知」というのは、本を読もうと思っても読めない人です。
そんな文字が読めない人でも、後世を知る、後生明るい人が智者だと言われています。

その後世を知らない愚者を、後世を知る智者にするのが、僧侶のつとめです。
後の世を渡す橋」というのは、後生明るくなるように教える僧侶のことです。
私がお前を比叡山にやったのは、後の世を渡す橋になれよと思ってのことなのに、世渡る僧となってしまった。
何と悲しいことだろうか。
迷いの人間からほめられて喜んでいるようでは、お前は何という情けない者になってしまったのだ。
このような歌の意味を、源信僧都はすぐに分かったのでした。
そして深く反省した源信僧都は、天皇からの褒美の品は、すべて焼き捨て、後生の一大事の解決一つのために修行に打ち込むのでした。

27才、源信僧都の聞法

源信僧都は無常をみつめ、一切経を5回もひもとき、小乗仏教も大乗仏教も、大乗仏教では華厳宗も法相宗も天台宗も真言宗も極めたのですが、後生の一大事の解決はできません。
むしろ燃え盛る煩悩が知らされるばかりで、悪しかできない自己の姿に泣かされるのでした。

やがて27才のとき、こんな自分を導く先生はおられないものかと、比叡山を下りて各地を探し回ります。
その時、源信僧都は、当時、大日如来が天照大神となって現れていると信じられており、奈良の大仏が建立される時も聖武天皇が仏の心を聞いたと伝えられる伊勢神宮に7日間参籠したのでした。
すると7日目の明け方、夢に貴い女性が現れて、
阿弥陀如来に向かうように
とのお告げを受けます。

空也との出会い

その後、源信僧都は、空也(くうや)も尋ねます。
空也は源信僧都より39才年上で、もう60代でした。
当時、常に南無阿弥陀仏を称えながら、町中を巡り歩き、橋を架けたり井戸を掘るような社会貢献もして、民衆に人気がありました。
その空也に個人的に会いに行ったのです。

源信僧都は、空也に尋ねます。
私は心から浄土往生を願っているのですが、私のようなものでも浄土へ生まれられるのでしょうか
ところが空也はこう言います。
私のような無知な者にどうしてそんなことがわかるでしょうか
では、私はどうすればいいのでしょうか
もし智慧がなかったとしても、浄土往生を願う心がまことならば、阿弥陀如来はどうして放っておかれるでしょうか

こうして源信僧都は、比叡山に帰り、30才頃には、比叡山の奥の横川に隠棲し、ひたすら後生の一大事の解決を求めたのでした。

30才、横川の僧都

横川というのは、20年以上前、夢にみたところでした。
比叡山の根本中堂よりもさらに北へ5.5キロにあります。
その横川の中堂である首楞厳院(しゅりょうごんいん)に移ったので、親鸞聖人は源信僧都のことを「首楞厳院」とか、「楞厳の和尚」いわれることがあります。
その後は、恵心院(えしんいん)に移ったので、恵心僧都ともいわれます。

また、紫式部の『源氏物語』に出てくる横川の僧都のモデルになったともいわれます。

こうして源信僧都は横川に入り、34才の時に仏教の論争のために山を下りて、2人論破した以外は、ひたすら後生の一大事の解決一つに打ち込んだのでした。
そしてついに、七高僧の5番目の善導大師の指南により、阿弥陀如来の本願に救われたのでした。

このことを親鸞聖人は『正信偈』に、源信僧都がこうおっしゃっているといわれています。

我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
(正信偈)

これは、『我もまた彼の摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲ものうきこと無くして常に我を照らしたまう』といえり」と読みます。

我もまた摂取のうちにある
というのは、「」は源信僧都のことです。
摂取」というのは、阿弥陀如来の摂取の光明のことで、阿弥陀如来のお力です。
阿弥陀仏のお力によって、私も死ぬと同時に浄土へ往ける絶対の幸福に救われた、ということです。
ところが、絶対の幸福に救われても、欲や怒りの煩悩は少しも変わりません。
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども
というのは、煩悩が邪魔して、肉眼で阿弥陀如来を見ることはできないけれど、といわれています。
ですが、阿弥陀如来に救われてからは、夜昼常に阿弥陀如来の大慈悲に守られ、浄土往生は間違いなしの絶対の幸福に生されているのだ、というのが
大悲ものうきこと無くして常に我を照らしたまう
ということです。

このように、阿弥陀如来の本願に救いとられた源信僧都は、生きている時に絶対の幸福に救われる、平生業成の教えを明らかにされているのです。

42才、お母さんに法を説く

阿弥陀如来に後生の一大事を解決して頂き、生きている時に絶対の幸福に救い摂られた喜びから、源信僧都はここまで押し出してくだされたお母さんにも伝えなければならないと思いました。
比叡山を下りて33年ぶりに故郷の当麻の里に戻ると、お母さんは病を患い、虫の息でした。
源信ただ今帰りました
というと、
「おお源信か、よく帰ったのう」
お母さん、源信はついに後生の一大事を解決して、今帰って参りました
源信僧都はお母さんの枕元に駆け寄ります。
「そうか、それはよかったのう」
お母さん、仏教には様々な教えが説かれていますが、私のような悪人が救われるには、ひとえに阿弥陀如来の本願に帰する以外になかったのです
源信僧都は、息も絶え絶えのお母さんの枕元で、必死に阿弥陀如来の本願を説き、ついにお母さんも生きている時に、阿弥陀如来の本願の救いにあうことができたのでした。
まもなくお母さんはまもなく浄土へかえってゆかれましたが、源信僧都はこう言っています。

我れ来たらずんば、恐らくはかくの如くならざらん。
ああ、我をして行をみがかしむる者は母なり。
母をして解脱を得しめし者は我なり。
この母とこの子と、互いに善友となる。
これ宿契なり。

お母さんの願いの通り、源信僧都は「後の世を渡す橋」となり、真の親孝行を遂げたのでした。

この母親の往生を記念して書かれたのが、源信僧都の有名な『往生要集』です。

往生要集のすごさ

源信僧都が『往生要集』を書き上げると、お弟子の一人は、夢に『往生要集』を一度聞く者は、ことごとく仏のさとりを開くだろうというお告げを受けます。
そのため、源信僧都は、『往生要集』の最後に
展転して一たびも聞く者、願はくはともにすみやかに無上覚を証せん
と書き添えて、世の中の人々に広めたのでした。

すると、『往生要集』は大変な反響を巻き起こします。
時の皇后が仏教を深く信じていたので、源信僧都に『往生要集』の最初に記された地獄と極楽の絵を描いて欲しいと頼みます。
快く承諾した源信僧都が、心を込めて地獄極楽の絵図を描き上げると、受け取った皇后は、それを宮中に飾っておきました。
しばらくすると、夜になると閻魔大王の裁判の声が聞こえるとか、獄卒の鬼が責め立て、罪人が苦しむ声が聞こえるという噂が広まり、宮中の女房たちが夜になると廊下も歩けなくなってしまいました。
皇后はやむを得ず、源信僧都に地獄極楽の絵図を返したと言われます。

往生要集』の素晴らしさは、海を越えて中国にも伝わり、宋の皇帝が拝読すると、源信僧都を「源信如来」と仏のごとく敬ったといわれます。

また、七高僧の7番目の法然上人は、もともと浄土宗ではない人が浄土仏教を学ぶには、『往生要集』から入るのがよいと、解説書を3つも作られています。

こうして源信僧都は、後世にも多大な影響を与え、76才で浄土へ往生されたのでした。

では、『往生要集』にはどんなことが教えられているのでしょうか?

往生要集の構成と地獄

往生要集』3巻は、全部で10章(十門)に分かれています。

往生要集』上巻の
第1章に六道の様子、特に地獄のありさまが赤裸々に説かれています。
お経に基づいて地獄を8つに分けて、
1.等活地獄
2.黒縄地獄
3.衆合地獄
4.叫喚地獄
5.大叫喚地獄
6.焦熱地獄
7.大焦熱地獄
8.阿鼻地獄
の恐ろしい光景と、どんな行いをした人がそこへ堕ちて苦しむのかを詳しく教えられています。

第2章には、極楽浄土での10の幸せ、第3章には、その経典上の根拠が挙げられています。

往生要集』中巻の
第4章には、七高僧の2番目の天親菩薩の『浄土論』に説かれた「五念門」のそれぞれに応じた念仏を教えられ、第5章は、それを助ける7つの方法が教えられています。
第6章では、別時念仏という特定の時に修める念仏が説かれています。

往生要集』下巻の
第7章には、念仏の7つの利益が教えられています。
第8章は、念仏で往生できるお経の根拠です。
第9章は、念仏以外の諸行について、
第10章はQ&Aです。

極重の悪人が救われるには?

親鸞聖人は、『往生要集』の最も重要なところを『正信偈』に、こう教えられています。

極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
(正信偈)

これは、『往生要集』の第8章に教えられていることで、「極重の悪人は、ただ仏を称すべし」と読みます。
極重の悪人」とは、極めて重い悪を造っている人、ということです。

誰のことを極重悪人とおっしゃっているかといいますと、源信僧都ご自身のことです。
源信僧都は、
よもすがら 仏の道を求むれば わが心にぞ たずね入りぬる
と述懐されていますが、仏道を求めれば求めるほど、煩悩によって、悪しかできない自己の姿が知らされて来ます。

源信僧都も最初は、何とかすれば何とかなれる、何とかすれば救われるのではないかと思っておられたのですが、
最後、阿弥陀如来の光明によって真実の自己が照らし抜かれると、極重の悪人だった、といわれています。

そんな極重の悪人は、ただ仏を称ずべし。
といわれています。
仏を称する」というのは、南無阿弥陀仏を称えることで、
口で称える念仏です。

ですが、単に口で念仏を称えていても助かりませんよ、と源信僧都は『往生要集』の第10章に言われています。

源信僧都の念仏とは?

そのことを、親鸞聖人は『正信偈』の源信僧都の教えのところに、にこう教えられています。

専雑執心判浅深(せんぞうしゅうしんはんせんじん)
報化二土正弁立(ほうけにどしょうべんりゅう)
(正信偈)

これは、「専雑の執心、浅深を判じ、報化二土、正しく弁立したもう」と読みます。
源信僧都はこう教えられている、ということです。

執心」とは信心のことです。
雑の執心」とは、自力の信心、
専の執心」とは、他力の信心です。
浅深を判じ」とは、ハッキリ教えられた、ということです。
自力の信心は、信心決定する一念までを言います。
一念からは他力の信心ですから、この一念を水際だてて明らかにされた、ということです。

報化二土」とは、報土と化土のことです。
報土」とは、真実の浄土のこと、
化土」とは、方便の浄土です。

自力の信心の人は、どんなに頑張っても化土へしか往けませんよ
他力の信心の人は、必ず報土へ往きますよと教えられています
報土と化土の二つを「正しく弁立したもう」というのも、ハッキリ教えられた、ということです。

では、自力の信心でも、念仏さえ称えれば化土に往けるのかというと、そうではありません。
自力の念仏ですから、条件があります。
それは、死ぬまで毎日何万回もの念仏を称えること、臨終来迎のあること、正念往生することです。
これではほとんどの人にはできませんし、できたとしても死ぬまで不安はなくなりません。
源信僧都は、化土ではなく、ただちに報土往生できるように、信心決定しなさいよ、と教えられているのです。
ですから、源信僧都の教えられた「極重の悪人は、ただ仏を称ずべし」の「ただ」は、他力の信心です。
一日も早く信心獲得して、他力の念仏を称える身にならなければなりません。

では、どうすれば他力の念仏を称える身になれるのかについては、以下の小冊子に分かりやすくまとめてありますので、今すぐお読みください。

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