阿弥陀経とは?
『阿弥陀経』は、浄土真宗で最も大切にされる浄土三部経の1つで、
浄土真宗のお通夜などでよく読まれるお経です。
そこにはとても大切なことが説かれているのですが、それほど長くないお経ですので、このページでは全文と書き下し文を掲載し、その後に意味を解説します。
目次
阿弥陀経の特徴
『阿弥陀経』は、釈迦一代の「結経(けっきょう)」といわれます。
結経とは、結びのお経ということです。
いよいよお釈迦さまもお亡くなりになる時が近づいて、お釈迦さまがこの世にお生まれになった目的を結ばれた、結論のお経です。
そのことを七高僧の一人の善導大師は、こう教えられています。
世尊の説法、時まさにおわりなんと、慇懃に弥陀の名を付屬したまう。
(善導大師『法事讃』)
「世尊」とはお釈迦さまのことです。
お釈迦さまがご説法をなされた幸せな時間が今まさに終わろうとする時、ねんごろに丁寧に、南無阿弥陀仏の名号を私たちに託された、ということで、それが『阿弥陀経』です。
ですから『阿弥陀経』は、お釈迦さまの御遺言のようなものでもあります。
この『阿弥陀経』には、2つの特徴があります。
1つ目は、「無問自説経(むもんじせつきょう)」であること、
2つ目は、お弟子の「舎利弗(しゃりほつ)の沈黙」です。
お釈迦さまが質問なしに自ら説かれる
1つ目の、「無問自説(むもんじせつ)」というのは、誰にも問われずに自ら説かれた、ということです。
ほとんどのお経は、誰かの質問に答えて始まっています。
浄土三部経でも、『大無量寿経』なら阿難が質問し、『観無量寿経』は韋提希夫人がお願いして説かれています。
それ以外のお経でも、ほとんど誰かが質問して、お釈迦さまが説法を始められているのです。
ところが『阿弥陀経』は、誰も質問していないのに、お釈迦さまが自ら語り始められています。
その時お釈迦さまは、よほど「これは説いておかなければならない」と思われることがあったのです。
そのことから、親鸞聖人は、『阿弥陀経』についてこのように教えられています。
この経は「無問自説経」と申す。
この経を説きたまいしに、如来に問いたてまつる人もなし、これ即ち釈迦出世の本懐をあらわさんと思召す、ゆえに「無問自説」と申すなり。(一念多念証文)
その時、お釈迦さまは、「私が生まれてきたのは、これ一つ説くためだ」ということをこれから説こうとされて、喜んでおられたのです。
私たちも、気分がいい時に、問わず語りに自分から語り始めることがあります。
お釈迦さまは「私が今まで苦労してきたのは、これ一つを皆に教えるためだったのだ」ということを説かれる所で、非常に喜んでおられたのです。
ですからこのお経にも、お釈迦さまがこの世にお生まれになられた目的である、阿弥陀如来の本願が説かれているのです。
お弟子の舎利弗の沈黙
2つ目の舎利弗(しゃりほつ)の沈黙というのは、お釈迦さまの十大弟子の一人、智慧第一の舎利弗が、『阿弥陀経』のご説法の最中に、お釈迦さまから36回名前を呼ばれているのですが、一度も返事をしなかったということです。
師匠であるお釈迦さまから名前を呼ばれているのですから、仏弟子としては返事をするのが当然です。
たくさんのお弟子の中でも、特に十大弟子の一人に数えられる舎利弗ですから尚更です。
それにもかかわらず舎利弗は1回も返事をしなかったのです。
それは、お釈迦さまがあまりにももの凄いことを説かれた為に、智慧第一といわれる舎利弗でも、返事もできないほどあっけにとられてしまったのです。
『阿弥陀経』には、舎利弗が返事を忘れるほど、びっくりするような、驚くべきことが説かれているのです。
では『阿弥陀経』にはどんなことが説かれているのか、まず全文と、書き下し文を見てみましょう。
阿弥陀経の全文
これは、分かりやすいように、昔の漢字を現代の漢字にした『阿弥陀経』の全文です。このほうが読みやすいと思います。
仏説阿弥陀経
如是我聞。一時仏。在舍衞国。祇樹給孤獨園。与大比丘衆。千二百五十人倶。皆是大阿羅漢。衆所知識。長老舍利弗。摩訶目犍連。摩訶迦葉。摩訶迦旃延。摩訶倶絺羅。離婆多。周利槃陀伽。難陀。阿難陀。羅睺羅。憍梵波提。賓頭盧頗羅墮。迦留陀夷。摩訶劫賓那。薄拘羅。阿㝹樓駄。如是等。諸大弟子。并諸菩薩。摩訶薩。文殊師利法王子。阿逸多菩薩。乾陀訶提菩薩。常精進菩薩。与如是等。諸大菩薩。及釋提桓因等。無量諸天。大衆倶。
爾時仏告。長老舍利弗。従是西方。過十万億仏土。有世界。名曰極楽。其土有仏。号阿弥陀。今現在説法。舍利弗。彼土何故。名為極楽。其国衆生。無有衆苦。但受諸楽。故名極楽。
又舍利弗。極楽国土。七重欄楯。七重羅網。七重行樹。皆是四宝。周帀囲繞。是故彼国。名曰極楽。又舍利弗。極楽国土。有七宝池。八功徳水。充満其中。池底純以。金沙布地。四辺階道。金銀瑠璃。玻瓈合成。上有樓閣。亦以金銀瑠璃。玻瓈硨磲。赤珠碼碯。而厳飾之。池中蓮華。大如車輪。青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。微妙香潔。舍利弗。極楽国土。成就如是。功徳荘厳。
又舍利弗。彼仏国土。常作天楽。黄金為地。昼夜六時。而雨曼陀羅華。其国衆生。常以清旦。各以衣裓。盛衆妙華。供養他方。十万億仏。即以食時。還到本国。飯食経行。舍利弗。極楽国土。成就如是。功徳荘厳。
復次舍利弗。彼国常有。種種奇妙。雑色之鳥。白鵠孔雀。鸚鵡舍利。迦陵頻伽。共命之鳥。是諸衆鳥。昼夜六時。出和雅音。其音演暢。五根五力。七菩提分。八聖道分。如是等法。其土衆生。聞是音已。皆悉念仏。念法念僧。舍利弗。汝勿謂此鳥。実是罪報所生。所以者何。彼仏国土。無三悪趣。舍利弗。其仏国土。尚無三悪道之名。何況有実。是諸衆鳥。皆是阿弥陀仏。欲令法音宣流。変化所作。舍利弗。彼仏国土。微風吹動。諸宝行樹。及宝羅網。出微妙音。譬如百千種楽。同時倶作。聞是音者。皆自然生。念仏念法。念僧之心。舍利弗。其仏国土。成就如是。功徳荘厳。
舍利弗。於汝意云何。彼仏何故。号阿弥陀。舍利弗。彼仏光明無量。照十方国。無所障碍。是故号為阿弥陀。又舍利弗。彼仏寿命。及其人民。無量無辺。阿僧祇劫。故名阿弥陀。舍利弗。阿弥陀仏。成仏已来。於今十劫。又舍利弗。彼仏有無量無辺。声聞弟子。皆阿羅漢。非是算数。之所能知。諸菩薩衆。亦復如是。舍利弗。彼仏国土。成就如是。功徳荘厳。
又舍利弗。極楽国土。衆生生者。皆是阿鞞跋致。其中多有。一生補処。其数甚多。非是算数。所能知之。但可以無量無辺。阿僧祇劫説。舍利弗。衆生聞者。応当発願。願生彼国。所以者何。得与如是。諸上善人。倶会一処。舍利弗。不可以少善根。福徳因縁。得生彼国。
舍利弗。若有善男子。善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏。与諸聖衆。現在其前。是人終時。心不顛倒。即得往生。阿弥陀仏。極楽国土。舍利弗。我見是利。故説此言。若有衆生。聞是説者。応当発願。生彼国土。
舍利弗。如我今者。讃歎阿弥陀仏。不可思議功徳。東方亦有。阿閦鞞仏。須弥相仏。大須弥仏。須弥光仏。妙音仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
舍利弗。南方世界。有日月燈仏。名聞光仏。大焰肩仏。須弥燈仏。無量精進仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
舍利弗。西方世界。有無量寿仏。無量相仏。無量幢仏。大光仏。大明仏。宝相仏。浄光仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
舍利弗。北方世界。有焰肩仏。最勝音仏。難沮仏。日生仏。網明仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
舍利弗。下方世界。有師子仏。名聞仏。名光仏。達摩仏。法幡仏。持法仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
舍利弗。上方世界。有梵音仏。宿王仏。香上仏。香光仏。大焰肩仏。雑色宝華厳身仏。娑羅樹王仏。宝華徳仏。見一切義仏。如須弥山仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
舍利弗。於汝意云何。何故名為。一切諸仏。所護念経。舍利弗。若有善男子。善女人。聞是諸仏所説名。及経名者。是諸善男子。善女人。皆為一切諸仏。共所護念。皆得不退転。於阿耨多羅。三藐三菩提。是故舍利弗。汝等皆当。信受我語。及諸仏所説。舍利弗。若有人。已発願。今発願。当発願。欲生阿弥陀仏国者。是諸人等。皆得不退転。於阿耨多羅。三藐三菩提。於彼国土。若已生。若今生。若当生。是故舍利弗。諸善男子。善女人。若有信者。応当発願。生彼国土。
舍利弗。如我今者。称讃諸仏。不可思議功徳。彼諸仏等。亦称説我。不可思議功徳。而作是言。釋迦牟尼仏。能為甚難。希有之事。能於娑婆国土。五濁悪世。劫濁。見濁。煩惱濁。衆生濁。命濁中。得阿耨多羅。三藐三菩提。為諸衆生。説是一切世間。難信之法。舍利弗。当知我於。五濁悪世。行此難事。得阿耨多羅。三藐三菩提。為一切世間。説此難信之法。是為甚難。仏説此経已。舍利弗。及諸比丘 一切世間 天人阿修羅等。聞仏所説 歓喜信受 作礼而去。
仏説阿弥陀経
阿弥陀経の書き下し文
全文としてあげたのは、漢文でいえば、返り点がついていない白文なので、次に書き下し文を以下にあげます。
仏説阿弥陀経
是の如く、我聞く。
一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。
皆是れ大阿羅漢にして衆に知識せられたり。
長老舎利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、摩訶迦旃延、摩訶倶絺羅、離婆多、周利槃陀伽、難陀、阿難陀、羅睺羅、憍梵波提、賓頭盧頗羅堕、迦留陀夷、摩訶劫賓那、薄拘羅、阿㝹楼駄、是の如き等の諸の大弟子。並に諸の菩薩摩訶薩あり、文殊師利法王子、阿逸多菩薩、乾陀訶提菩薩、常精進菩薩、是の如き等の諸の大菩薩、及び釈提桓因等の無量の諸天大衆と倶なりき。
爾時、仏、長老舎利弗に告げたまわく、是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽と曰う。
其の土に仏有す、阿弥陀と号す、いま現に在して説法したまう。
舎利弗、彼の土を何が故ぞ名けて極楽と為す。其の国の衆生は衆の苦有ること無く但諸の楽のみを受く、故に極楽と名く。
又舎利弗、極楽国土には七重の欄楯・七重の羅網・七重の行樹あり。
皆是れ四宝をもって周匝し囲繞せり。
是の故に彼の国を名けて極楽という。
又舎利弗、極楽国土には七宝の池有り。
八功徳水其の中に充満せり、池の底には純ら金沙を以て地に布けり。
四辺に階道あり。金・銀・瑠璃・玻璃をもって合成せり。
上に楼閣有り。亦金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・赤珠・碼碯を以て而も之を厳飾せり。
池の中に蓮華あり、大さ車輪の如し。青き色には青き光あり、黄なる色には黄なる光あり、赤き色には赤き光あり、白き色には白き光ありて、微妙香潔なり。舎利弗、極楽国土には、是の如きの功徳荘厳を成就せり。
又舎利弗、彼の仏の国土には、常に天楽を作す。
黄金を地と為す。
昼夜六時に曼陀羅華を雨らす。
其の国の衆生、常に清旦を以て、各衣裓を以て衆の妙華を盛れて、他方の十万億の仏を供養し、即ち食時を以て本国に還り到り、飯食し経行す。舎利弗、極楽国土には是の如きの功徳荘厳を成就せり。
復次に舎利弗、彼の国には常に種々の奇妙なる雑色の鳥有り。
白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。
是の諸衆の鳥、昼夜六時に和雅の音を出す。其の音五根・五力・七菩提分・八聖道分、是の如き等の法を演暢す。
其の土の衆生、此の音を聞き已りて皆悉く仏を念じ法を念じ僧を念ず。
舎利弗、汝此の鳥は実に是れ罪報の所生なりと謂うこと勿れ。
所以は何ん、彼の仏の国土には三悪趣無ければなり。
舎利弗、其の仏の国土には、尚三悪道の名無し。何に況んや実有らんや。
是の諸の鳥は皆是れ阿弥陀仏の法音を宣流せしめんと欲したまう変化の所作なり。
舎利弗、彼の仏の国土には微風吹動し、諸の宝行樹及び宝羅網微妙の音を出す。
譬えば百千種の楽を同時に倶に作すが如し。
是の音を聞く者は皆自然に念仏・念法・念僧の心を生ず。
舎利弗、其の仏の国土には是の如きの功徳荘厳を成就せり。
舎利弗、汝が意に於て云何。彼の仏を何が故ぞ阿弥陀と号する。
舎利弗、彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに障碍する所無し、是の故に号して阿弥陀と為す。
又舎利弗、彼の仏の寿命及び其の人民も無量無辺阿僧祇劫なり、故に阿弥陀と名く。
舎利弗、阿弥陀仏成仏已来、今に十劫なり。
又舎利弗、彼の仏に無量無辺の声聞の弟子有り、皆阿羅漢なり。
是れ算数の能く知る所に非ず、諸の菩薩衆も、亦復是の如し。
舎利弗、彼の仏の国土には、是の如きの功徳荘厳を成就せり。
又舎利弗、極楽国土に衆生生るる者は皆是れ阿鞞跋致なり。
其の中に多く一生補処有り。其の数甚だ多し、是れ算数の能く知る所に非ず、但無量無辺阿僧祇劫を以て説く可し。
舎利弗、衆生聞かん者は応当に発願し彼の国に生れんと願うべし。
所以は何ん、是の如きの諸の上善人と倶に一処に会うことを得ればなり。
舎利弗、少善根福徳の因縁を以ては彼の国に生るることを得可からず。
舎利弗、若し善男子・善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞いて、名号を執持すること、若は一日・若は二日・若は三日・若は四日・若は五日・若は六日・若は七日、一心不乱ならん。
其の人命終る時に臨みて、阿弥陀仏諸の聖衆と與に其の前に現在したまう。
是の人命終る時、心顛倒せず。
即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。
舎利弗、我是の利を見るが故に此の言を説く。
若し衆生有りて是の説を聞かん者は応当に発願して彼の国土に生るべし。
舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く、東方にも亦、阿閦鞞仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、妙音仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、南方世界にも日月燈仏、名聞光仏、大焔肩仏、須弥燈仏、無量精進仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、西方世界にも無量寿仏、無量相仏、無量幢仏、大光仏、大明仏、宝相仏、浄光仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、北方世界にも焔肩仏、最勝音仏、難沮仏、日生仏、網明仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、下方世界にも師子仏、名聞仏、名光仏、達摩仏、法幢仏、持法仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、上方世界にも梵音仏、宿王仏、香上仏、香光仏、大焔肩仏、雑色宝華厳身仏、娑羅樹王仏、宝華徳仏、見一切義仏、如須弥山仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、汝が意に於て云何、何が故ぞ名けて一切諸仏所護念経と為す。舎利弗、若し善男子・善女人有りて、是の諸仏の所説の名及び経の名を聞かん者は、是の諸の善男子・善女人、皆一切諸仏と共に護念する所と為り、皆阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得。是の故に、舎利弗、汝等皆当に我が語及び諸仏の説きたまう所を信受すべし。
舎利弗、若し人有りて已に発願し、今発願し、当に発願して阿弥陀仏国に生れんと欲はん者は、是の諸の人等、皆阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、彼の国土に於て、若は已に生れ、若は今生れ、若は当に生れん。
是の故に舎利弗、諸の善男子・善女人、若し信ずること有らん者は、応に発願して、彼の国土に生るべし。
舎利弗、我今諸仏の不可思議功徳を称讃するが如く、彼の諸仏等も、亦我が不可思議功徳を称説して、是の言を作さく、釈迦牟尼仏、能く甚難希有の事を為し、能く娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の中に於て、阿耨多羅三藐三菩提を得て、諸の衆生の為に、是の一切世間難信の法を説くと。
舎利弗、当に知るべし、我五濁悪世に於て此の難事を行じ阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間の為に、此の難信の法を説く、是れ、甚だ難しと為す。
仏此の経を説き已りたもうに、舎利弗及び諸の比丘、一切世間の天人・阿修羅等、仏の説きたまう所を聞き歓喜信受し礼を作して去りにき。
仏説阿弥陀経
では、『阿弥陀経』にはどんなことが説かれているのでしょうか?
阿弥陀経の対象
まず「一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在して」とは、ある時、お釈迦さまが、祇園精舎におられた時に説かれたのが『阿弥陀経』だということです。
その時、「大比丘衆千二百五十人と倶なりき。皆是れ大阿羅漢にして衆に知識せられたり」といわれています。
「大比丘衆」とは、非常にすぐれたお弟子です。
田んぼや畑を作ったり、商売片手間の人たちではありません。
皆、大衆から尊敬されるようなお弟子たちが、1250人も聞いていたということです。
その代表的なお弟子を「長老舎利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、摩訶迦旃延、摩訶倶絺羅、離婆多、周利槃陀伽、難陀、阿難陀、羅睺羅、憍梵波提、賓頭盧頗羅堕、迦留陀夷、摩訶劫賓那、薄拘羅、阿㝹楼駄、是の如き等の諸の大弟子」と名前をあげておられます。
聞きに来ていたのは、お弟子さんたちだけではありませんでした。
「並に諸の菩薩摩訶薩あり、文殊師利法王子、阿逸多菩薩、乾陀訶提菩薩、常精進菩薩、是の如き等の諸の大菩薩」
といわれています。
「文殊師利法王子」は文殊菩薩、 「阿逸多菩薩(あいったぼさつ)」は弥勒菩薩です。
文殊菩薩や弥勒菩薩をはじめとする菩薩方も聞きに来ておられました。
さらに「及び釈提桓因等の無量の諸天」といわれています。
「釈提桓因(しゃくだいかんいん)」は仏教を守護する神の帝釈天(たいしゃくてん)です。
帝釈天をはじめとする、限りなくたくさんの神々も聞きに来ていました。
そして次に、『阿弥陀経』の3番目の特徴があります。
「大衆と倶なりき」とあるように、大衆も聞きに来ていたということです。
お経には相手があります。
『阿含経』などの小乗経典の対象は出家のお弟子のみです。
『華厳経』は菩薩のみです。
『法華経』でも出家のお弟子と、縁覚、菩薩だけが対象です。
ところが『阿弥陀経』は、お弟子や大菩薩だけでなく、神々や、大衆も入っています。
『阿弥陀経』の対象は、すべての人だということです。
それは、阿弥陀如来のお慈悲は、一切の人に差別なくかかっているからです。
男も女も、頭のいい人も悪い人も救うというのが阿弥陀如来の本願です。
それを説かれた『阿弥陀経』の対象もすべての人なのです。
阿弥陀如来の住所・極楽の場所
次に、「爾時、仏、長老舎利弗に告げたまわく」とあります。
その時、お釈迦さまは、優れたお弟子である舎利弗に説かれました。
何を説かれたのかというと、
「是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽と曰う」
といわれています。
ここから西のほうに十万億の仏土を過ぎて、極楽という世界がある、ということです。
ここで疑問になるのは、「西のほう」です。
地球は丸いので、日本での西のほうと、地球の反対側のブラジルの西のほうは、正反対の方角です。
「西のほう」とはどこのことでしょうか?
「西」というのは、太陽の沈む方角で、それは、日本でもブラジルでも同じです。
西というのは、最後はここにおさまらなければ助からないということです。
聖徳太子の十七条憲法でいえば、「四生の終帰(ししょうのしゅうき)」です。
これは、すべての生きとし生けるものの最後帰依するところということです。「西のほう」と言われているのは、最後は阿弥陀如来の本願に救われて、ここに来なければ助からないということです。
ところが「十万億の仏土を過ぎて」とあります。
阿弥陀如来の本願には、そう簡単にあえないということです。
地上に降った雨は、最後は海に来なければおさまりません。
しかし途中には、色々な池や湖などの水たまりがあります。
山の上に降った雨は、海に向かって流れていきますが、やがて池に入ってしばらく留まります。
しかしそこでは落ち着かないので、やがてあふれて流れていきます。
また別の池に入ってしばらく留まります。
やはり落ち着かないので、また流れて行きます。
こうしてたくさんの水たまりを過ぎないと、海には入れません。
ちょうどそのように、世界にはたくさんの宗教があります。
キリスト教という水たまりもあれば、イスラム教という水たまりもあります。
それらの水たまりでは落ち着かないので、やがてあふれてまた次の水たまりへ流れて行きます。
ところが、阿弥陀如来の本願にはなかなかあえません。
しかし、生きとし生けるものが最後帰依する所は阿弥陀如来の本願です。
阿弥陀如来の本願によらなければ、アリの子一匹助かりません。
それは、十万億の水たまりを過ぎて、ようやくめぐりあえるのです。
親鸞聖人は、多生にもあいがたく、億劫の間かかったといわれています。
1劫は4億3200万年ですから、その億倍です。
阿弥陀如来の本願はそう簡単にあえませんから、億劫の間かからないと極楽へは往けません。
十万億の仏土を過ぎないと往けないのです。
「其の土に仏有す、阿弥陀と号す、いま現に在して説法したまう」とは、その極楽という国に阿弥陀仏という仏がましまして、今も説法されているということです。
その説法が聞こえなければなりません。
この後は、極楽浄土の人々の楽しい生活ぶりが教えられています。
極楽浄土のありさまと楽しい生活
では極楽浄土はどんな様子で、どのような楽しい生活が送れるのでしょうか。
現代人の中には、こんなのはおとぎ話だと思われる方もあるかもしれません。
しかしこれは「余方因順(よほういんじゅん)」と言われます。
真実の浄土は、私たちの想像を超えたすばらしい世界なので、私たちの分かるものにしたがって説かれたということです。
ちょうど、猫に極楽浄土を説明するには、「猫の参るお浄土は宮殿楼閣みなカツオ、猫もあきれたニャームアミダ」と言われるようなものです。
極楽浄土の宮殿は、金や銀や宝石でできていると言っても、猫の知恵では分かりませんので、カツオでできているというと猫にも分かるのです。
仏の智慧は私たちとは比較になりませんので、私たちの程度に合わせて分かるように教えられているのです。
「舎利弗、彼の土を何が故ぞ名けて極楽と為す。其の国の衆生は衆の苦有ること無く但諸の楽のみを受く、故に極楽と名く」とは、人間の世界には、四苦八苦など、色々な苦しみがありますが、極楽浄土は苦しみはなく、楽しみの世界ということです。
「又舎利弗、極楽国土には七重の欄楯・七重の羅網・七重の行樹あり。
皆是れ四宝をもって周匝し囲繞せり。
是の故に彼の国を名けて極楽という」とは、極楽浄土には、金、銀、瑠璃、水晶で作られた七重の欄干、飾りのある網、並木があり、至るところをめぐっているということです。
「又舎利弗、極楽国土には七宝の池有り。
八功徳水其の中に充満せり、池の底には純ら金沙を以て地に布けり。
四辺に階道あり。金・銀・瑠璃・玻璃をもって合成せり。
上に楼閣有り。亦金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・赤珠・碼碯を以て而も之を厳飾せり。
池の中に蓮華あり、大さ車輪の如し。青き色には青き光あり、黄なる色には黄なる光あり、赤き色には赤き光あり、白き色には白き光ありて、微妙香潔なり。舎利弗、極楽国土には、是の如きの功徳荘厳を成就せり」とは、極楽浄土には、金、銀、瑠璃、水晶、ツヤのある貝、赤い真珠、メノウでできた立派な建物と、八功徳の水をたたえた池があり、底には砂金が敷かれている。四ヶ所に金、銀、瑠璃、水晶の階段があり、中には車の輪のような蓮の花が咲き、赤、青、黄、白など、それぞれの色で輝き、かぐわしい香を漂わせている、ということです。
「又舎利弗、彼の仏の国土には、常に天楽を作す。
黄金を地と為す。
昼夜六時に曼陀羅華を雨らす」とは、極楽浄土では常にすばらしい音楽が流れている。地面は黄金でできている。昼と夜、それぞれ3回ずつ、蓮華が降ってくる、ということです。
「其の国の衆生、常に清旦を以て、各衣裓を以て衆の妙華を盛れて、他方の十万億の仏を供養し、即ち食時を以て本国に還り到り、飯食し経行す。舎利弗、極楽国土には是の如きの功徳荘厳を成就せり」とは、極楽浄土の人たちは、いつも静かな朝を迎えると、花を入れる大きな竹ザルをもって、降ってきた蓮華を拾い、他の世界の十万億の仏のお仏花として供養し、食事の間のような短い時間で浄土へ戻り、食事をされ、行ったり来たりしている、ということです。
極楽浄土に鳥がいる理由
「復次に舎利弗、彼の国には常に種々の奇妙なる雑色の鳥有り。
白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり」とは、極楽浄土には、鶴、クジャク、オウム、水鳥、頭が人間であるカリョウビンガ、頭が2つある共命の鳥、などをはじめ妙なる鳥がいる、ということです。
「是の諸衆の鳥、昼夜六時に和雅の音を出す。其の音五根・五力・七菩提分・八聖道分、是の如き等の法を演暢す。
其の土の衆生、此の音を聞き已りて皆悉く仏を念じ法を念じ僧を念ず」とは、極楽のたくさんの鳥たちは、昼3回、夜3回、優しくなめらかな声で仏教を説き、それを聞いた人々は、みな、仏と仏教と僧侶の三宝のご恩を念ぜずにおれない、ということです。
ところがここで、なぜ極楽浄土には鳥がいるのかと疑問が起きます。
なぜなら、阿弥陀仏は、四十八願の一番最初に、
「もし私が仏になるとき、私の国に、地獄、餓鬼、畜生の三悪道があるようなら、仏のさとりは開きません」
とお約束されているからです。
それについてお釈迦さまは、次にこう教えられています。
「舎利弗、汝此の鳥は実に是れ罪報の所生なりと謂うこと勿れ。
所以は何ん、彼の仏の国土には三悪趣無ければなり。
舎利弗、其の仏の国土には、尚三悪道の名無し。
何に況んや実有らんや。
是の諸の鳥は皆是れ阿弥陀仏の法音を宣流せしめんと欲したまう変化の所作なり」とは、極楽浄土の鳥たちは、自らの悪業によって、因果応報で畜生界に生まれた衆生ではないのだ。なぜなら阿弥陀仏が、極楽浄土には悪業から生まれる三悪道はない、とお約束されているからだ。
三悪道の名前さえないのだから、ましてや三悪道があるはずがない。
ではなぜ極楽浄土に鳥がいるのかというと、阿弥陀如来の本願を説かんとする仏の化身のなせるわざである、ということです。
「舎利弗、彼の仏の国土には微風吹動し、諸の宝行樹及び宝羅網微妙の音を出す。
譬えば百千種の楽を同時に倶に作すが如し。
是の音を聞く者は皆自然に念仏・念法・念僧の心を生ず。
舎利弗、其の仏の国土には是の如きの功徳荘厳を成就せり」とは、鳥以外にも、気持ちのよい微風がそよぎ、宝の並木や宝の網をゆらしている。
その時、並木の葉がサラサラと、網についた玉の鈴がコロコロと鳴り、あたかも百千の音楽が一度に演奏されたような響きである。
この極楽浄土の音を聞いた者も、三宝のご恩を念じ、感謝せずにおれないのである、ということです。
お釈迦さまはここで一度、極楽浄土の様子を終わられます。
そして、「私がこれだけ阿弥陀仏のことを話すのは、どれだけ尊敬しても尊敬し過ぎることがないからなのだ」と、次に大切なことを説かれます。
『阿弥陀経』を読経するときも、ここで一旦切られて、また新たに始まります。
阿弥陀如来の2つのお徳
「舎利弗、汝が意に於て云何」とは、舎利弗よ、お前分かるか、ということです。
「彼の仏を何が故ぞ阿弥陀と号する」とは、どうして私の尊敬する阿弥陀仏は、阿弥陀仏といわれると思う?ということです。
舎利弗は答えられません。
「舎利弗、彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに障碍する所無し、是の故に号して阿弥陀と為す」とは、阿弥陀如来の光明には限りがない。大宇宙にくまなく行き届いている。
だから阿弥陀仏といわれるのだ、ということです。
大宇宙にはたくさんの仏さまがおられますが、阿弥陀仏の光明は、ずば抜けているのです。光明とは、仏のお力のことです。
限りない光明を持たれた阿弥陀仏だからこそ、限りない私たちの心の闇を破ることができるのです。
この光明無量の智慧が、右手をあげて「そのまま来い」の招喚の姿で表されます。
大宇宙を普く照らして「早く来い」と呼んでおられるのです。
阿弥陀如来は「立撮即行(りっさつそくぎょう)」といって立ってそのまま連れて行く、立たれたお姿で表されています。
座っていたら、一度立たなければなりません。
無常迅速の命をもつ私たちには、そんな時間はないのです。
阿弥陀如来は仏のさとりを開かれて以来、常に立たれたまま、私たちを呼び続けておられるのです。
次に「又舎利弗、彼の仏の寿命及び其の人民も無量無辺阿僧祇劫なり、故に阿弥陀と名く」とは、阿弥陀如来にも、阿弥陀如来の極楽浄土の人々の寿命にも、限りがない、だから阿弥陀仏といわれるのだ、ということです。
限りない命を持たれた阿弥陀如来だからこそ、限りない命を与えてやりたいという阿弥陀如来の願いを私たちの上に満足してくださることができるのです。
二度と崩れることのない、永遠に変わらない幸せに救い摂ってくだされるのです。
「舎利弗、阿弥陀仏成仏已来、今に十劫なり」とは、阿弥陀如来は、すでに遠い昔に成仏しておられる、ということです。
「又舎利弗、彼の仏に無量無辺の声聞の弟子有り、皆阿羅漢なり。
是れ算数の能く知る所に非ず、諸の菩薩衆も、亦復是の如し。
舎利弗、彼の仏の国土には、是の如きの功徳荘厳を成就せり」とは、阿弥陀仏の極楽浄土には、数え切れないほどのお弟子があるということです。
極楽浄土の人たちは、みな阿弥陀如来と同じ仏のさとりを開かれた方々ですが、私たちに分かり易いように、余方因順(よほういんじゅん)して菩薩とか声聞といわれていると『大無量寿経』に説かれています。
「又舎利弗、極楽国土に衆生生るる者は皆是れ阿鞞跋致なり。
其の中に多く一生補処有り。其の数甚だ多し、是れ算数の能く知る所に非ず、但無量無辺阿僧祇劫を以て説く可し」とは、極楽浄土に生まれる人は、この世で生きているときに、阿鞞跋致(あびばっち)になった人です。
「阿鞞跋致」とは、不退転のことです。
不退転とは、退転しない位で、変わらない位のことです。
死んで極楽に生まれられる人は、生きているときに阿弥陀仏の本願に救われ、正定聚不退転(しょうじょうじゅふたいてん)になった人なのです。それは、低いものから高いものまで全部で52ある「さとりの52位」のうち、不退転は41段以上です。
では弥陀の浄土に生まれる人が41段以上の、どの不退転なのかというと、次に「補処(ふしょ)」といわれています。
「補処の菩薩」といえば弥勒菩薩のことですが、弥勒菩薩は、あと1段で仏という51段の菩薩です。
「補処」とは51段のことです。
阿弥陀如来の本願に救われると、生きているときに51段高飛びして弥勒菩薩と肩を並べ、死ねば弥勒お先ごめんと、先に52段の仏のさとりが開けるのです。
そんな人が、数え切れないほどいる、と説かれています。
「だから私は、阿弥陀如来尊敬せずにおれないのだ」とお釈迦さまはいわれているのです。
ではどうすれば私たちは、阿弥陀如来の極楽浄土に生まれることができるのでしょうか。
阿弥陀経の要・極楽浄土に生まれるには
「舎利弗、衆生聞かん者は応当に発願し彼の国に生れんと願うべし。所以は何ん、是の如きの諸の上善人と倶に一処に会うことを得ればなり」とは、表面的には、これまで説かれた阿弥陀如来やその浄土のことを聞いて、極楽浄土に生まれたいと願いなさい、なぜなら、極楽浄土の皆さんと会えますよ、と説かれているように思います。
ところがそのお釈迦さまの深い御心をうかがえば、「発願(ほつがん)」とは、信心決定のことです。
阿弥陀如来の本願を聞いて信心決定した人は、死ねば阿弥陀仏の浄土に生まれられるとハッキリします。
「上善人」とは、信心決定した人のことです。
「倶に一処に会う」とは、生きているときに信心決定した人は、死ねば同じ弥陀の浄土に生まれますから、死んでも浄土で再会できるのです。
ですから浄土真宗のお墓には、この『阿弥陀経』のお言葉から、「俱会一処(くえいっしょ)」と刻まれることがあります。
「舎利弗、少善根福徳の因縁を以ては彼の国に生るることを得可からず」とは、「少善根」とは人間のやる善のことです。
どんなに一生懸命やっても、少善根では弥陀の浄土へは生まれられません。
それはあくまで往生の一段においては、のことです。
生活の一段については善をやらねば善い結果は来ないのは当然のことです。
ではどうすれば弥陀の浄土へ生まれられるかというと、次に説かれています。ここが『阿弥陀経』の肝心要です。
「舎利弗、若し善男子・善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞いて、名号を執持すること、若は一日・若は二日・若は三日・若は四日・若は五日・若は六日・若は七日、一心不乱ならん」の「名号」とは南無阿弥陀仏のことです。
万善万行がおさまった南無阿弥陀仏は、人間のやる小さな善に対して、大功徳があります。
「もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日」というのは、七日間のことではありません。一生涯ということです。これは「念仏を一生涯称えなさい」と、阿弥陀如来の四十八願のうち、方便の願である二十願の「念仏を称えなさい、そうしたら助けます」というお約束をお釈迦さまが解説されたお言葉です。
死ぬまで一心不乱に念仏を称えた人は、「其の人命終る時に臨みて、阿弥陀仏諸の聖衆と與に其の前に現在したまう。
是の人命終る時、心顛倒せず。
即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得」
と説かれています。
毎日7万回から8万回の念仏を死ぬまで称え、臨終に心を乱さず、阿弥陀如来がお迎えに来られれば、極楽に生まれることができるのです。
浄土宗では、この臨終に仏が迎えに来られることを信じて、死ぬまで一心不乱に名号を称えきり、その功徳を阿弥陀如来に回向しようとしています。
ところが、一つの善もできない極悪人に、回向もなければ一心不乱もできません。
心をしずめようとすればするほど散り乱れる私たちが心を乱さないというのは無理なのです。
このお釈迦さまのお言葉は、その深い御心からすれば、「阿弥陀仏を説くを聞いて」は阿弥陀仏の本願を聞いて、ということです。
本願を聞いた一念に、名号を頂いて、名号と一体になりますから、それが「名号を執持する」ということです。
「執持(しゅうじ)」とは、南無阿弥陀仏と私たちが一体になることです。
これを信心決定といいます。
信心決定すれば、弥陀の浄土へ往くために善をしようとか念仏を称えようと思いませんから「一心不乱」になります。
このことを親鸞聖人は『浄土文類聚鈔』にこう教えられています。
執持はすなわち一心、一心はすなわち信心なり。
(浄土文類聚鈔)
一心不乱の一心は、他力の信心なのです。
名号を頂いた瞬間、阿弥陀如来の本願を疑う迷いの心が死んで、その時、浄土へ生まれることが定まり、即得往生してしまいます。
生きている時に、阿弥陀如来の光明に摂取され、常に護られる身になります。
親鸞聖人は『末灯鈔』にこう言われています。
来迎は諸行往生にあり。(中略)
真実信心の行人は、摂取不捨の故に正定聚の位に住す。
この故に臨終をまつことなし、来迎をたのむことなし。
(末灯鈔)
「摂取不捨」とは、おさめとって捨てられない、ということで、絶対変わらない絶対の幸福です。
「正定聚」とは、まさしく仏に生まれるに定まった位で、正定聚不退転です。
他力の信心は、絶対なくなりませんから、絶対変わらない絶対の幸福になります。
もう肉体の臨終には用事がなくなるのです。
「舎利弗、我是の利を見るが故に此の言を説く。
若し衆生有りて是の説を聞かん者は応当に発願して彼の国土に生るべし」とは、今まで説いたことは明らかなことだから、早く信心決定しなさい、ということです。
大宇宙の諸仏の保証
「舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く」の「不可思議功徳」とは名号のことです。
名号には、私たちの心の闇を破り、絶対の幸福にする働きがあります。
お釈迦さまが今その不可思議の功徳を讃嘆されたように、大宇宙の諸仏方が、名号の大功徳をほめたたえ、阿弥陀如来の本願まことを保証しておられることを、具体的な仏の名前を挙げて教えられます。
「東方にも亦、阿閦鞞仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、妙音仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと」とは、東のほうでは、阿閦鞞仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、妙音仏をはじめ、ガンジス河の砂の数のような数え切れないたくさんの仏方が、それぞれ自分の国で、仏の大雄弁をもって「そなた方よ、まさにすべての仏が名号をたたえる所のこの『阿弥陀経』を信ぜよ」とまことの言葉を説かれている、ということです。
「舎利弗、南方世界にも日月燈仏、名聞光仏、大焔肩仏、須弥燈仏、無量精進仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと」とは、南のほうの世界でも、同様に、数え切れない仏方が、大雄弁で、『阿弥陀経』を信じよと保証されているということです。
「舎利弗、西方世界にも無量寿仏、無量相仏、無量幢仏、大光仏、大明仏、宝相仏、浄光仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと」とは、西のほうの世界でも、同様に、数え切れない仏方が、大雄弁で、『阿弥陀経』を信じよと保証されているということです。
「舎利弗、北方世界にも焔肩仏、最勝音仏、難沮仏、日生仏、網明仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと」とは、北のほうの世界でも、同様に、数え切れない仏方が、大雄弁で、『阿弥陀経』を信じよと保証されているということです。
「舎利弗、下方世界にも師子仏、名聞仏、名光仏、達摩仏、法幢仏、持法仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと」とは、下のほうの世界でも、同様に、数え切れない仏方が、大雄弁で、『阿弥陀経』を信じよと保証されているということです。
「舎利弗、上方世界にも梵音仏、宿王仏、香上仏、香光仏、大焔肩仏、雑色宝華厳身仏、娑羅樹王仏、宝華徳仏、見一切義仏、如須弥山仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと」とは、上のほうの世界でも、同様に、数え切れない仏方が、大雄弁で、『阿弥陀経』を信じよと保証されているということです。
このように、地球は大宇宙に浮いているのですから、東西南北だけでなく、上下も合わせないと、大宇宙になりません。
東西南北上下で、大宇宙の全部です。
大宇宙の仏方が、それぞれ現れた国で、阿弥陀仏を信じよ、と説かれているのです。
これは「一向専念無量寿仏」ということです。
「無量寿仏」とは、阿弥陀仏のことです。
「一向」とは、一つに向きなさい、「専念」とは、専ら信じなさい、ということで、
一向専念無量寿仏とは、阿弥陀仏一つに来なさい、阿弥陀仏だけを信じなさい、ということです。
私たちの後生の一大事を解決できる仏は、阿弥陀仏以外にないのだから、阿弥陀仏に助けてもらいなさい、ということで、これが大宇宙のすべての仏が説かれる、仏教の結論なのです。
疑い深い私たちのために、大宇宙の諸仏を総動員されて、何とか疑いを打ち破り、絶対の幸福に救わんとされているのです。
この世と未来の2度の救い
「舎利弗、汝が意に於て云何、何が故ぞ名けて一切諸仏所護念経と為す。
舎利弗、若し善男子・善女人有りて、是の諸仏の所説の名及び経の名を聞かん者は、是の諸の善男子・善女人、皆一切諸仏と共に護念する所と為り、皆阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得。是の故に、舎利弗、汝等皆当に我が語及び諸仏の説きたまう所を信受すべし」とは、「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」とは、仏のさとりのことです。
舎利弗、なぜこの『阿弥陀経』を一切諸仏所護念経と言ったか分かるか。それは、大宇宙の諸仏のほめたたえる南無阿弥陀仏の名号を聞けば、この世は大宇宙の諸仏に護られて、死ねば必ず仏のさとりを得る身になるからだ。だからそなた方よ、早く私も大宇宙の諸仏も説いている「一向専念無量寿仏」の身になりなさい、ということです。
お釈迦さまが教えられているように、阿弥陀如来の救いにはこの世と未来の2度あります。
これを「現当二益(げんとうにやく)」といいます。
この世では、必ず仏のさとりを開くことが退転しない、正定聚不退転の身になります。
これが「現益(げんやく)」です。
そして、死ねば弥陀の浄土へ往って、仏に生まれます。
これが「当益(とうやく)」です。
生きているときに絶対の幸福に救い、死んで弥陀の浄土に生まれさせる阿弥陀仏の救いなので、それを明らかにされた浄土真宗は「二益法門(にやくぼうもん)」といわれます。
次に「舎利弗、若し人有りて已に発願し、今発願し、当に発願して阿弥陀仏国に生れんと欲はん者は」の「発願」とは信心決定のことです。
今まで信心決定した人もあり、今信心決定する人もあり、これから信心決定して、浄土往生間違いなしとハッキリする人もある、ということです。
ですから、誰もがすでに救われているわけではないのです。
「是の諸の人等、皆阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て」とは、信心決定した人は、みな仏になることが退転しない正定聚の身になれるということです。
「彼の国土に於て、若は已に生れ、若は今生れ、若は当に生れん」とは、すでに信心決定した人もあれば、これから信心決定する人もあるので、すでに弥陀の浄土に生まれた人もあれば、今から生まれる人もあるということです。
それはなぜかというと阿弥陀仏のお慈悲は平等なのですが、私たちの仏縁に違いがあるからです。
「是の故に舎利弗、諸の善男子・善女人、若し信ずること有らん者は、応に発願して、彼の国土に生るべし」とは、弥陀の浄土へ生まれられるのは、生きている時に信心決定した人だけだから、そなた方よ、早く信心決定して、浄土往生する身になりなさい、ということです。
難信の法
「舎利弗、我今諸仏の不可思議功徳を称讃するが如く、彼の諸仏等も、亦我が不可思議功徳を称説して」とは、私が今、大宇宙の諸仏が「一向専念無量寿仏」を説いている、すばらしいことだと讃えたように、今度は大宇宙の諸仏も、この釈迦のことを言っている、ということです。
「是の言を作さく、釈迦牟尼仏、能く甚難希有の事を為し」とは、「釈迦も甚だ難しいことをよくやっている」ということです。
「能く娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の中に於て、阿耨多羅三藐三菩提を得て、諸の衆生の為に、是の一切世間難信の法を説くと」とは、釈迦は、五つに濁った苦しみに満ちた現代のような世界で、仏のさとりを得て、すべての人のために、難信の法を説いている、ということです。
この難信の法というのは、浄土真宗の人は、最初から他力だ、易行だといわれて、簡単に信じられるだろうと目星をつけているので、
「難信の法だから心して聞け」といわれているのです。
「舎利弗、当に知るべし、我五濁悪世に於て此の難事を行じ阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間の為に、此の難信の法を説く、是れ、甚だ難しと為す」とは、私が地球上に現れて、仏のさとりを開き、すべての人のために、この阿弥陀如来の本願を説いたことは、極めて難しいことであった、ということです。
私たちが阿弥陀仏の本願を信じないために、大宇宙の仏方が証人として保証しておられるのです。
銀行にお金を借りるときでも、保証人を立てないと、信じてもらえません。
しかも保証人は貧乏人では保証人になれません。
ですから阿弥陀如来の本願の保証人は大宇宙の諸仏です。
しかも保証人は一人では信用されません。
大宇宙の諸仏を全員保証人に立てられた証文が『阿弥陀経』なのです。
阿弥陀仏が「これでも疑うか、これでも信じられぬか」と大宇宙のすべての仏を保証人に立てられて、何とか信じてくれよ、聞いてくれよ、必ず救うと言われているのです。
この大宇宙のすべての仏が阿弥陀如来の本願の保証人になっておられる所が、『阿弥陀経』の眼目です。
「仏此の経を説き已りたもうに、舎利弗及び諸の比丘、一切世間の天人・阿修羅等、仏の説きたまう所を聞き歓喜信受し礼を作して去りにき」とは、お釈迦さまが『阿弥陀経』を説き終わられると、仏弟子達や、神々や大衆、阿修羅などが、お釈迦さまの説かれた教えを聞いて心から喜びの心をおこし、帰っていった、ということです。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能。