諸行無常(しょぎょうむじょう)とは

諸行無常」は仏教の言葉で、仏教にしか教えられていない重要な教えです。
そして、私たちの人生にも、恐ろしいまでの大きな影響があります。
一体「諸行無常」というのはどんな意味なのでしょうか?
わかりやすく解説します。

諸行無常とは

諸行無常」というのは、諸行は無常なり、ということで、『涅槃経』のお言葉です。
諸行」はこの世のものすべてのことで、「無常」とは、常がない、続かないということです。
この世の一切は続かない、すべて移り変わって行く、ということです。

この諸行無常が非常に有名なのは、『平家物語』の最初に記されていて、誰しも学校で習ったり、暗記させられたりするからでしょう。
平家物語』にはこうあります。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり(平家物語)

祇園精舎」というのは、お釈迦さまの時代の代表的なお寺です。
たくさんのお弟子が集まってお釈迦さまの教えにしたがって修行していました。
そこでお弟子が亡くなると、祇園精舎の中の「無常堂」というところの鐘が鳴らされます。
それが、祇園精舎の鐘の声です。
祇園精舎の鐘がなると、
今日も誰かが亡くなったのか
とみんな分かりますので、一切は続かないという諸行無常を改めて痛切に知らされるというのが、
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
ということです。

この諸行無常は、仏教の旗印である上に、私たちにとってもとても重要なので、お釈迦さまは、お経の至るところに無常を説かれています。

親鸞聖人の教えられた諸行無常

たまに、親鸞聖人は、無常についてはあまり教えられなかった、という人がありますが、そんなことはありません。
親鸞聖人の教えられたことは仏教以外にありませんから、親鸞聖人も無常を繰り返し教えられています。
例えば、主著の『教行信証』にこう教えられています。

一切有為はみなこれ無常なり。(教行信証)

一切有為」とはこの世のすべてです。
一切有為はみなこれ無常なり」とは、この世の一切は無常である、続かない、ということですから、「諸行無常」ということです。
親鸞聖人も、当然、諸行無常を教えられているのです。

歎異抄に説かれた無常

また有名なところでは、親鸞聖人のお言葉がそのまま書き残されている『歎異抄』に、こうあります。

火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し(歎異抄)

火宅」とは、火のついた家ということす。
隣の家から火が出て、自分の家のひさしに、火が移って燃え始めます。
そんな家にいて、安心できるでしょうか。
不安で仕方がありません。
今12時だから、昼食を済ませてから逃げよう」とか、
こんな格好で逃げたらどう思われるか、外出用の服装に着替えてから逃げよう
という余裕はありません。
そのまま飛び出していきます。
そういう不安な状態を火宅といわれています。

なぜ不安なのかというと、次に「無常の世界」といわれていますように、無常だからです。
この世は無常の世界です。
みんな、お金や財産、地位、名誉など、人それぞれ色々なものを心の支えにして、幸せになろうとしています。
何を生きがいにするかは人それぞれですが、何かしら、頼りにして、希望をもって、生きる力にしています。
ところが、そんな支えにしたり、頼りにしたりしているもので、崩れないものは一つもありません。
万のこと皆もって」というのは、すべてのものは、例外なく、ということです。
諸行無常ですから、この世のすべては最後、必ず崩れて行きます。
空事・たわごと・真実あること無し
というのは、真実たよりになるものは一つない、ということです。
崩れたら新しいものを頼りにするのですが、また崩れて行きます。
頼りにしては裏切られ、頼りにしては裏切られ、そんなことを繰り返して、最後はみんな死んで行くのです。

親鸞聖人の出家の動機

そもそも親鸞聖人が、出家されたのは、無常を見つめられたからでした。
親鸞聖人は4歳でお父さんを、8歳でお母さんを亡くされました。
天涯孤独の身となられた親鸞聖人は、
次に死んで行くのは自分の番だ
 死んだらどうなるのだろう

と自分の後生がまったく分からないことに驚かれたのです。

その真っ暗な後生を何とか明るくなりたいと、9歳で親鸞聖人は仏門に入られます。
遠縁にあたる慈鎮和尚に出家したい旨を申し出ると、
それは尊いことだ、ではさっそく明日、得度の式をあげよう
といわれます。
得度(とくど)」というのは、出家する時の儀式のことです。
その時、親鸞聖人は、このような歌を詠まれています。

明日ありと 思う心の 仇桜
 夜半に嵐の 吹かぬものかは(親鸞聖人)

明日とおっしゃいますが、本当に明日はあるのでしょうか?
今は満開の桜の花も、夜半に吹く一陣の嵐で散ってしまいます。
無常は迅速、人の命は桜の花よりもはかないものと聞いております。
どうか明日といわず今日、出家得度の式を挙げて頂けないでしょうか、という意味です。

私たちも、明日も生きていられると思っていますが、それは、永遠に死なないという心です。
なぜなら、明日になれば、また明日も生きていられると思うからです。
後ろから光をあてて、前にできた影を踏もうとしても、どんどん影が逃げて行くように、「明日も生きていられると思う心」は、永遠に死なないと思う心です。

ですから、明日も生きていられるというのは間違いなのです。
仏教を明日聞こうと思っていても聞けません。
仏教は今聞かなければならないのです。
これを聞かれた慈鎮和尚は、まったくその通りだと思い直し、その日に得度の式をあげてくれたといわれます。

白骨の章に説かれる無常観

親鸞聖人の教えを正確に、最も多くの人に伝えられた蓮如上人も、至るところに無常を教えられています。
例えばお通夜葬儀でよく読まれる、有名な『御文章』5帖目16通「白骨の章」には、「無常の風」と、無常を目に見えない風にたとえられて、せつせつと説かれています。
そして、その無常の激しさをこのように教えられています。

朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり(白骨の章)

紅顔」というのは、赤い顔です。
朝、赤いほっぺをして出ていった人が、夕方には白骨となって帰ってくる。
変わり果てた姿になってしまう。
全く考えていなかった、まさかの事態が起きて、一瞬にして人間の命はなくなってしまいます。

私たちは、事故で死ぬというと、ニュースの中のことで、自分が死ぬとは思いません。
ところが、そういう自分が死ぬと思っていない人が、毎日交通事故などで死んで行くのです。
何の前触れもなく、突然死んで行くという厳粛な事実を教えられています。

無常の風が吹くと?

また蓮如上人は、無常の風が吹くとどうなるか、『御文章』1帖目11通にこう教えられています。

もしただ今も無常の風きたりて誘いなば、いかなる病苦にあいてかむなしくなりなんや。
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一も相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。(御文章)

風は目には見えませんが、猛烈な勢いですべてをなぎ倒していきます。
何の前触れもなく襲ってくる死を、風にたとえて無常の風といわれます。
どんなに元気な人でも、ガンだと分かった時には末期だったとか、脳梗塞で倒れて、突然死んでしまうことがあります。
無常の風に誘われたら、どんな病で死んでしまうか分かりません。

まことに死せんときは」とは、いよいよ自分が死んで行くとなったら、ということです。
かねてたのみおきつる」というのは、今までたよりにして、心の支えにしてきたすべてのものです。
その例として、妻子やお金や財産をあげられています。
わが身には一も相添うことあるべからず」といわれているように、病気の時は看病してくれる家族も、死んで行く時にはついては来てくれません。
どんなにお金があっても死んで行く時には一円も持っていけません。
どんなに地位や名誉が高くても、心の明かりにはなりません。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ
というのは、すべてをおいて、たった一人で死んで行かなければならない、ということです。
このように、死ねば、今までかき集めてきたものをすべておいて、たった一人で苦しみの世界へ旅立って行かなければならないのです。

逃れがたきは無常なり

そして、この無常から逃れられる人はありません。
蓮如上人は、『御文章』3帖目4通にこう教えられています。

上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、逃れ難きは無常なり。

大聖世尊」とは、この世で最も尊い聖者であるお釈迦さまのことです。
悪逆の提婆」とは、そのお釈迦さまを殺そうとして、大変恐ろしい罪を造ったダイバダッタ(提婆達多)のことです。
この世で最も尊いお釈迦さまから、最も重い罪を造った提婆達多まで、死を免れることはできない、ということです。

私たちも、死なない人はありません。
どんな人も、この世に生まれたからには死んで行きます。
仏教を聞くかどうかに関係がありません。
死なない身になれるわけがないのです。
生まれたからには必ず死んでいく、これは間違いない事実であり、真理です。
私たちは100%確実に死んで行くのです。
無常から逃れる道はありません。

仏法に明日はない

しかも、無常はいつやってくるか分かりません。
蓮如上人の言行録である『御一代記聞書』にはこう言われています。

蓮如上人仰せられ候、「仏法の上には、毎事に付いて空恐ろしき事と存じ候べく候。
ただ万について油断あるまじき事と存じ候え」の由、折々に仰せられしと云々。
「仏法には明日と申すことある間じく候。仏法の事は急げ急げ」と仰せられたり。(御一代記聞書)

仏法の上には、毎事について空恐ろしき事と、心得ておきなさい」と、いわれています。
毎事に」というのは、すべてのことです。
お経のお言葉なら「諸行」で、『歎異抄』なら「万のこと皆もって」です。

空恐ろしき」というのは、いつどうなるか分からない恐ろしいことだ、ということで、無常なんだよ、ということです。
どんなに心の支えにしているものでも、いつ崩れるか分かりません。

ただ万について油断あるまじき事と存じ候え」というのは、
それはそうかもしれないけど、自分は大丈夫
と私たちは油断していますので、油断している人が危ないんですよ、
それは他人のことではなくて自分のことなんだから、油断してはいけませんよ、ということです。

仏法には明日と申すことある間じく候」というのは、親鸞聖人が詠まれた歌では、
明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは
と同じ意味です。
私たちも、明日は生きていられると思っていますが、いつ死ぬか分かりませんよ。
明日死ねば明日から後生、今晩死んだら今晩から後生ですよ、ということです。

だから、「仏法の事は急げ急げ」と教えられています。
その後生の解決を教えられたのが仏教だから、早く仏教を聞きなさい、ということです。

どんな人も早く

これを蓮如上人は、「白骨の章」の最後に、こう教えられています。

されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
(白骨の章)

老少不定(ろうしょうふじょう)」というのは、年老いた人が先で若い人が後から死んで行くとは決まっていない、ということです。
肉体の年齢は人それぞれ違いますが、無常からいえば同じ年だということです。
年取った人が先に死んでいくなら若い人は安心できますが、そんなことは決まっていません。
いつどんなことで死ぬか分からない、人間の世界というのはそういうものですよ、ということです。
だから、「誰の人も」といわれています。
いつ死ぬか分からないということは、この人はあてはまらないという人は一人もいませんから、すべての人、例外なく、ということです。
はやく」というのは、いつ死ぬか分かりませんから、急ぎなさい、ということです。
後生の一大事を心にかけて」とは、生きている人間が死んで行く以上の一大事はありませんから、これを「後生の一大事」といわれています。
この後生の一大事を常に忘れず、早く解決しなさい、ということです。

無常を見つめて後悔のないように

この後生の一大事は、吸う息吐く息とふれあっていると親鸞聖人は教えられています。

呼吸のあいだすなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にもかえらず。
この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまわん。
願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔をのこすことなかれ。
(教行信証)

来生」とは後生のことです。
呼吸のあいだすなわち後生」というのは、吸った息が吐けなければ後生、吐いた息が吸えなければ後生。
人生は長いように思っていますが、一息一息が死と触れ合っている。
いつ、後生の一大事が引き起こるのか分からない、ということです。

一たび人身を失いぬれば万劫にもかえらず」とは、次の瞬間に死んだら、永遠に戻らない人生となる、絶対に取り返しがつかない、ということです。
後生の一大事を解決せずに死んでしまえば仏様でもどうにもならないので、
この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまわん
仏さまでも助けられないといわれています。

願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔をのこすことなかれ」というのは、どうか皆さん、 刻々と迫る無常を凝視して、決して後悔をのこさぬように、といわれています。
臨終に
こんな後悔するならなぜ聞かなかったのか。
あの時もっと聞けばよかった

と後悔しなさるなよ、この後生の一大事を解決して、本当の幸せになるために人は生まれてきたんだから、これが本当の生きる意味なんだ。
生きている間にしか果たせないぞ、生きている間が勝負だぞ、ということです。

このように、親鸞聖人は、迅速な無常を教えられ、無常を見つめて早く後生の一大事を解決して、死ねば阿弥陀如来の極楽浄土へ往って仏に生まれる永遠に変わらない幸せの身になりなさいよ、と教えられているのです。

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