「現代人の仏教教養講座」

 

「浄土真宗」入門講座

浄土真宗の大切な所をわかりやすく解説

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生きる意味を、知ろう。

生きる意味とは

生きる意味は、どんな人にとっても、生きて行く上でとても大切なことです。
ところが、生きる意味が見つからず、生きる意味はないと思っている人も数多くあります。
ところが、浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、生きる意味が分からない原因と、その答えをハッキリと教えられています。
どのように教えられているのでしょうか?

生きる意味とは?

生きる意味とは、私たちなぜ生きねばならないのか、ということです。
なぜ生まれてきたのか。
なぜ生きているのか。
どんなに苦しくてもなぜ自殺してはいけないのか。
生きねばならないのか、ということです。

生きる意味とは、生まれてきた目的であり、生きる目的でもあります。

この生きる意味は、すべての人にとって、これ以上大切なことのない、最も大事なことです。
それは一体どうしてなのでしょうか?

生きる意味はなぜ大事?

なぜ生きる意味が大切なのかを分かり易く理解するために、
生きるということを、歩くことにたとえます。
生きるとは、生きて行く、ということですから、歩いて行く、走って行くということです。
飛行機でいうなら、飛んで行くということです。

生きるということは、去年から今年、今年から来年と、どんどん生きて行くということです。
歩くということは、1カ所にじっとしていては歩いていることになりませんので、歩いてどこかへ行くということです。
走るということも同じように、じっとしている人を走っているとはいいませんので、どこかに向かって走って行くということです。
飛行機が飛ぶというのも、空中にじっとしているのではありません。
ものすごいスピードでどこかへ飛んで行きます。

それと同じように、私たちが生きているのも、時間を止めて永遠に今のままということはできませんから、どんどんと進んでいるということです。
今日のこの日は二度とかえって来ないのです。

生きて行くということは、
歩いて行く
走って行く
飛行機が飛んで行くのと同じことなのです。

では、飛んでいる飛行機にとって一番大事なのは何かというと、飛んでどこへ行くのかという目的地です。
飛んでいる飛行機にとってこれ以上大事なことはありません。
途中に乱気流があるという情報が入った場合、そこをどう切り抜けるかも大事ですが、目的地がなかったら、切り抜ける意味がありません。
飛行機にとってもっと大事なのは、目的地です。

それと同じように私たちが生きていく時に一番大事なのは、生きてどこに行くのかという目的地です。
これがなかったら、生きる意味がありません。
生きてどこへ行くのか。
生きるのは何のためなのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのかという生きる目的が、最も大切なのです。

どう生きるかという生き方は?

生きて行く道は、平坦ではありません。
生きて行く道には、山あり坂あり色々な困難やトラブルがやってきます。
急な坂にさしかかると、この坂を越えるのは辛いけど、この坂を越えたら幸せが待っていると思って登ります。
ところが、登ってみると、そこにはもっと急な坂道が待っています。
そんなことを繰り返して、人間は生きています。

そうなると、当然、困難を乗り越えるにはどうすればいいのか、どう生きるかという生き方が問題になります。
歩いて行く時には歩き方、走って行く時には走り方、飛んで行く飛行機なら飛び方が問題になってきます。

歩き方なら、ぶらぶら歩く歩き方もあれば、カッコイイ歩き方もあります。颯爽とした歩き方もありますし、人それぞれ色々な歩き方があります。

走り方でも、マラソンを見ていると、選手によって色々な走り方があります。
飛行機の飛び方も色々あります。
戦闘機になると空中戦で勝つためには色々な飛び方を知らなければなりません。
このように、色々な歩き方や走り方、飛び方があります。

同じように私たちが生きて行く時でも、色々な生き方があります。
結婚して生きて行くという人もあれば、独身の生き方を選ぶ人もあります。
どういう生き方がいいか考えて、よりよい生き方を選んで行きます。

この生き方というのは、手段です。
目的ではありません。
手段とは、目的があって、それを果たすためのものです。
目的があって、手段が出てきます。
手段があって、目的が出てくるということはありません。

どう生きるかという生き方は、生きる手段ですから、それを生きる意味と思っていると、目的なしに生きることになりますから、生きる意味はなくなってしまうのです。

目的と手段の関係

生きる目的と手段の関係も、もっと単純な、歩いたり走ったりすることで考えると分かり易くなります。
例えば車に乗って走って行く時なら、まず目的地があります。
会社に行こうというのが目的地で、そこまでどう行くかという走り方が手段です。

車がなければ歩いて行ったり、電車で行きます。
それが手段です。
手段から目的が出てくるのではなく、目的から手段が出てきます。
車があるから会社へ行こう思うのではなく、会社へ行こうと思うから、車を必要とするのです。

これは簡単な当たり前のことのようでいて、間違っている人がたくさんあります。
手段があって目的があると思っていたり、目的よりも手段が大事と思っている人があります。
実際には、目的が大事だから、その目的を果たす手段が大事になるのです。

目的なしに手段ばかり追及していても、意味がなくなってしまいます。
目的なしに歩いていたら、歩き倒れあるのみです。
目的なしに走っていれば、もっと早く走り倒れになってしまいます。
目的なしに飛んでいる飛行機は、墜落あるのみです。
燃料には限りがありますから、目的地を知らずに飛んでいる飛行機は悲劇です。

それと同じように、生きる目的なしに生き方ばかり問題にして生きている人は、どんな生き方をしても、最後は必ず死にますので、死ぬ為に生きていることになってしまいます
政治も経済も、科学も医学も、人間の営みのすべては、生きるためのものです。
例えば分かり易いのは医学です。
医学の目的は、苦しみを減らして、少しでも命を延ばすことです。
一分一秒でも命を延ばすにはどうすればいいのかを追及します。
しかし、死ななくなるわけではありません。
命を延ばすだけです。
では、延ばした命で何をするのかは、医学では分かりません。
飛行機なら、できるだけ長く飛んでいられるようにするにはどうすれがいいのかということです。
飛行機が飛んでどこへ行くのかは分かりません。
長く飛ばすことはできても、飛んでいる意味は分からないのです。

人間の命は地球よりも重い」といっても、生きる意味が分からなければ、なぜ地球より重いのかは分かりません。
生きる意味はどこにも教えられていません。

政治なら、どうすれば仲良く安全に生きられるかということですから、やはり生きる手段です。
経済なら、少しでも生産性を高めて、資源を公平に分配するにはどうすればいいか、ということですから、やはり生きる手段です。
科学なら、どうすれば少しでも便利な生活ができるか、ということですから、やはり生きる手段です。
これらは生きる手段ですから、生きる目的がなければ、意味が分からなくなってしまうのです。

生きがいを生きる意味を間違えると?

この目的と手段の違いを知らず、生きる手段を目的のように思っているので、どんなに経済が発展しても、科学が進歩しても、心からの安心も満足もないのです。
目的と手段を混同してしまうと、結局、目的を知らずに、手段に一生を費やしてしまいますので、どんなに頑張っても、幸せになったということはありません。

目的と手段を混同して、自分の生きがいを生きる意味だと思っている人がよくあります。
人それぞれ何かの生きがいを持って生きています。
お金をためることを生きがいにしている人もいれば、仕事を生きがいにしている人もあります。
パチンコなどの趣味を生きがいにしている人もいれば、晩酌を生きがいにしている人もあります。
10人いれば、10人違う生きがいを持っています。

これらは、どういう生きがいを持ったら楽しく生きられるかということです。
どういう歩き方をしたら楽しく遠くまで歩けるかということです。
どういう走り方をしたら楽しく遠くまで走れるかということです。
どういう飛び方をしたら、楽しく遠くまで飛べるかということです。
やはり生きる手段です。

生きがいは、生きる手段ですから、完成がありません。
どこまでやっても、これで完成した、満足したということはないのです。

みんなが生きがいとしているものをたくさん手に入れた人に徳川家康という人があります。
仕事に成功して天下統一し、財産もたくさん手に入れました。将軍になって、周りの人から尊敬され、いくらでも好きなものを食べられた人です。
ところが、晩年に、このように言い残しています。

人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし
(徳川家康 遺訓)

家康はあれだけのことやっても、重荷を下ろせなかったと言っています。
重荷とは苦しみのことです。
死ぬまで重荷を下ろせなかったということです。

天下をとっても、征夷大将軍になっても、幕府を開いても、重荷は下ろせず、死ぬまで苦しみがやってきたということです。
しかも果てしない道を歩き続けなければならなかったと言っています。
遠き道を行くがごとし
これが私の一生であった、目的地に到着したということもなければ、これで満足したということもなかったということです。

ということは、天下統一も、将軍になることも、幕府を開くことも、家康の生きる目的ではなかったということです。
家康は重荷を下ろして、目的地に到着したかったのですが、死ぬまで到着できずに、苦しみながら歩き続けなればなりませんでした。これでは苦しむ為に生きているようなものです。
生きがいを生きる意味と間違えてしまうと、死ぬまで苦しみ続けなければならないのです。
それは一体なぜなのでしょうか?

本当の生きる意味が分からない原因は?

親鸞聖人は、生きる目的と手段の違いが分からないから、生きる意味が分からないのだとこのように教えられています。

真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。 (教行信証真仏土巻)

」とは、目的のことです。
」とは、手段です。
真・仮を知らざる」とは、目的と手段の違いが分からないということです。
だから、「如来広大の恩徳を迷失す」と教えられています。
如来広大の恩徳」とは、本当の生きる目的を果たした人間に生まれてよかったという喜びの身にして頂いたご恩のことです。
目的と手段のを知らないから、その恩徳も分からないのです。

この目的が分からなければ、生きる意味も分からなくなってしまうので、これ以上大切なことはないのです。
その本当の生きる目的、生きる意味一つを教えられたのが、浄土真宗、親鸞聖人の教えなのです。

ではどうすれば本当の生きる意味を知り、果たすことができるのか、については、以下の小冊子に分かりやすくまとめてありますので、今すぐお読みください。

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著者紹介

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生おさなみみずき

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。何とか仏教に関心のある人に知らせようと10年ほど失敗ばかりした後、インターネットの技術を導入し、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者3千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらおうと奮戦中。

仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能