清沢満之の思想と近代教学
清沢満之(きよざわまんし 1863-1903)は、真宗大谷派(東本願寺)の僧侶であり、哲学者で、大谷大学の初代学長をつとめました。
近代教学を打ち立て、その思想は弟子たちに受け継がれたため、
1956年(昭和31年)、東本願寺の正式な「教学」として採用されます。
当時の宗務総長が宗門各位に告ぐと発行した「宗門白書」には、
「清沢先生の教学こそ、重大な意義をもつものである」(宗門白書)
と記され、今日に至ります。
清沢満之とは一体どんな人で、どんな思想を打ち立てたのでしょうか?
目次
清沢満之の生い立ち
1863年、清沢満之は尾張(名古屋)に生まれました。
当時はもうすぐ1868年から明治時代が始まるという江戸時代末期の激動の時代でした。
1864年には、禁門の変が起き、京都市内で長州藩と会津藩が激突したために、
東本願寺は阿弥陀堂や御影堂など主な伽藍を焼失してしまいました。
その再建や、政治的な動きのためにたくさんのお金を使い、東本願寺は窮乏していました。
1868年、幕府を倒して明治政府ができると、日本神道を国教にしようとして、廃仏毀釈の仏教弾圧を始めます。
それまで神社内に安置されていた仏像や仏教寺院関係の物を分離する政令を相次いで出しました。
僧侶は還俗させられ、たくさんの寺院がまとめられて少なくなりました。
文明開化の風潮から、西洋哲学やキリスト教などの西洋思想がたくさん流れ込みます。
真宗大谷派では、僧侶に哲学やキリスト教を学ばせ、
優秀な子供を集めて東大へ留学させることにしました。
そのような時代背景の中、非常に頭のよかった清沢満之は
12歳で英語学校に学びます。
16歳で得度し、18歳で本山留学生として東大文学部に留学します。
常に首席で哲学科を卒業しました。
中でも一番影響を受けたのは、哲学を教えたフェノロサでした。
ヘーゲルの理性的な無限を学び、阿弥陀如来を単なる大宇宙の真理だと思ってしまいます。
その浄土真宗の教えの理解不足が、後の思想形成に大きな影響を及ぼしてしまいます。
その後、大学院では宗教哲学を研究します。
そのまま大学に残れば、日本初のすぐれた哲学者になるだろうと期待されていましたが、25歳の時に突然京都に戻ります。
そして財政難の京都府から依頼され、東本願寺が経営していた京都府立中学の校長に就任しました。
1カ月後には結婚して、愛知県三河の西方寺に養子として入ります。
そこは門徒が1500もある、大きな寺でした。
清沢満之の求道
清沢満之は、頭がよく、しかも禁欲的で真面目でしたが、
27歳の時に取り組んだのは、自力修行でした。
もともと校長の給料が良かったため、それに応じた立派な家に住み、人力車で学校に通い、羽振りの良い生活をしていましたが、
突然、頭を丸め、派手な洋服を着ないようにして、質素な服装を始めます。
料理をするのもやめて粗末な食べ物を食べます。
どこに行くにも車には乗らず、歩くことにしました。
28歳で母親が亡くなると、そば粉を水に溶かしたものばかり飲み、松ヤニをなめて暮らしました。
その結果、体が弱り、31歳で肺結核になりました。
結核は当時、現代でいうガンのような、治すことのできない死の病です。
療養のために神戸に移り、家族にあてた遺言を書きながら、
毎日『阿含経』を読みました。
そして清沢満之は、この頃に信心獲得したと39歳で死ぬ1年前に、こう回想しています。
明治27・8年の養痾(ようあ)に、人生に関する思想を一変し、ほぼ自力の迷情を翻転し得たり
ところが、信心獲得すれば、「自力浄尽(じりきじょうじん)」といわれるように自力は一切なくなります。
その自力がすたった瞬間、他力に入り、自力の心は二度と永遠に出てこなくなります。
自力とは、阿弥陀如来の本願を疑う心ですが、
信心獲得すれば、自力がまったくなくなることを、
蓮如上人も『御文章』にこう教えられています。
これ更に疑う心、露ほどもあるべからず。(御文章五帖目)
しかも、自力はだんだんなくなるのではなく、
救われた一念の瞬間になくなります。
そのことを親鸞聖人はこう教えられています。
真実の信楽をあんずるに、信楽に一念あり。
一念とはこれ信楽開発の時尅の極促をあらわし、広大難思の慶心をあらわすなり。
(教行信証信巻)
「信楽(しんぎょう)」とは他力の信心のことですから、
「信楽開発(しんぎょうかいほつ)」とは、信心獲得であり、
阿弥陀如来に救われることです。
他力の信心が真実であれば、必ず「一念(いちねん)」があると教えられています。
「一念」とは、信心獲得の時剋の極促のことですが、
「時剋(じこく)」とは時間のこと、
「極促(ごくそく)」は極速と同じですから、
信心獲得する何億分の一秒よりも短い時間の極まりのことです。
阿弥陀如来の本願に疑いが晴れた何億分の一秒よりも短い一念の瞬間に、
人間に生まれてよかったという広大な喜びが起きるのです。
ですから、だんだん自力がなくなっていくのでもなければ、
「ほぼ」翻転するということもありません。
一念で自力がすたります。
もし本気で「ほぼ」と言っているとすれば、真実の信心ではないのです。
このような基本的な浄土真宗の教学の理解もこの程度です。
除名処分と大谷大学学長就任
約1年の療養を終えると、京都に移り住みます。
真宗大谷派の改革運動を始めました。
ところが運動は失敗し、大谷派は清沢満之を異安心として、除名処分にします。
33歳(明治30年)になって無職になり、愛知県の西方寺に帰りました。
まだ住職も副住職もいる上に、法話では地獄や極楽を否定し、浄土真宗の教えに反していたため、養子縁組を解消して追い出されそうになりました。
清沢満之自身も精神的に相当やられてしまい、
当時の日記を『臘扇記(ろうせんき)』と名づけています。
「臘扇(ろうせん)」とは、12月の扇子のことで「必要ないもの」という意味です。
自分に存在意義が感じられなかったということです。
そんな清沢満之が感動したのは、ローマ帝国時代の奴隷、エピクテトスの『語録』という哲学書でした。
世の中には思い通りになることと、ならないことがある。
思い通りになるのは自分の心なので、自分の心を変えるべきというものです。
清沢満之は、この『語録』を大変気に入り、心の持ちようを変えて、周りの影響を受けにくい強固な信念を築くことができたといいます。
世の中の人は、これを清沢満之の信心獲得という人もいますが、
自分の心で作った信心は、自力の信心なので、もちろん真実の他力信心ではありません。
翌年、34歳(明治31年)の時、大谷派は、東京につくった大谷大学の前身、真宗大学で教えてほしいと思い、除名処分を解きました。
そして36歳の時、初代学長(学監)になっています。
ただ、学生運動の責任をとって1年で辞職しています。
36歳(明治33年)の時、東京で私塾「浩々洞」を開いています。
後に近代教学を大成したといわれる金子大栄や曽我量深、暁烏敏も、ここから出ています。
そして、多くの問題を残したまま、清沢満之は、39歳で夭逝してしまいました。
清沢満之の思想
清沢満之は、僧侶でありながら、明治時代に流行していた西洋哲学を取り入れていたために、中には称讃する人もありました。
また、浄土真宗の人々に、「求道」とか「信心獲得」が浄土真宗にあることを教えたので、「今親鸞」と呼ばれたこともありました。
そして、有名な『歎異抄』を世の中に広めた人です。
しかし、浄土真宗の教えの理解が不十分なまま、
カミソリ聖教といわれる『歎異抄』を自己流に解釈し、
親鸞聖人の教えと異なる危険な思想です。
思想の拠り所
浄土真宗の拠り所とするお経である「浄土三部経」は、『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』ですが、清沢満之は「予が三部経」として、『阿含経』と、『エピクテトスの語録』と、『歎異抄』をあげています。
拠り所からして浄土真宗と異なり、小乗仏教と、西洋哲学と、親鸞聖人のお弟子の書物を拠り所とする思想であるということです。
拠り所から違いますので、浄土真宗の教えと清沢満之の思想は、根本的に内容が異なるのです。
浄土
例えば清沢満之は、「浄土」については、このように言っています。
「(浄土とは)我等の心になぞらえて西方といったものである」
「地獄極楽の有無は、無用の論題である」
「如来あるがゆえに信じるにあらず、信じるがゆえに如来あるなり」
「来世の幸福のことは私はまだ実験しないことであるからここで述ぶることは出来ぬ」
などと言っています。
死んだらどうなるかは説くことができない上に、阿弥陀如来や浄土は自分の心の中にあり、心の中以外にはないと考えています。
これは、「唯心の弥陀」「己心の浄土」という考え方です。
親鸞聖人は、このように徹底的に排斥されています。
末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し。
(教行信証)
末代の道俗・近世の宗師とは、現代の僧侶も在家の人も、これまでに一宗一派を開いたような人も、ということです。
「自性唯心」とは、自力の仏教に多い、万物の本性は自分の心以外にないという考え方です。
この考え方によって、自力の仏教では阿弥陀如来や浄土も自分の心の中にあると思うのですが、親鸞聖人は、それを真実の仏教をおとしめるものとして否定されています。
ところが、この清沢満之の思想から、現在でも、浄土真宗の僧侶でありながら、死後の浄土を認めない人が多くあるのです。
自力
清沢満之は、浄土真宗で決定的に重要な、自力についても理解が異なります。
例えば「ほぼ自力の迷情を翻転し得たり」
という言葉からは、自力に「ほぼ」などの程度があるように理解しています。
また、有名な言葉ではこうも言っています。
「彼に在るものに対しては、唯だ他力を信ずべきのみ。
我に在るものに対しては、専ら自力を用うべきなり。
而も此の自力も亦た他力の賦与に出づるのもなり」(『臘扇記』)
このように、信心獲得して他力に帰しても、自力があると書いています。
絶筆となった『我が信念』に、自分の信念で信じると強調しているように、
このような信心は、自力の信心なのです。
清沢満之の弟子の暁烏敏(あけがらすはや)の作った「清沢満之先生讃仰」の和讃には、
「絶対他力はただ一つ
天地に満つる力なり
他力の外に自力なし
自力の外に他力なし」
とまで言っています。
このように、自力を捨てて他力に帰するのは、教えの表面的な姿で、
深いところでは、自力と他力は一つだと考えています。
これでは、他力の信心を獲得した人にも自力があることになってしまい、親鸞聖人の他力の信心とはまったく異なる、自力の信心です。
真宗大谷派から除名処分を受けるのも無理はありません。
では、親鸞聖人が明らかにされた真実の他力信心とはどんなものなのでしょうか。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学科で学ぶ。
仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
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