熊谷直実(くまがいなおざね)
軍扇を持つ熊谷直実と平敦盛
熊谷直実(1141-1207)は、熊谷次郎直実ともいいます。、
『平家物語』や『吾妻鏡』に登場し、歌舞伎の『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』、能の『敦盛(あつもり)』にも出てくる天下無双の関東の武士でした。
一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取って手柄をあげますが、その後、法然上人のもとへ出家し、生きている時に変わらない幸福に救われます。
一体何が起きたのでしょうか?
そして、親鸞聖人とはどんな関係があったのでしょうか?
目次
熊谷直実の生い立ち
熊谷直実は、
1141年に武蔵国(現在の埼玉県熊谷市)に生まれます。
熊谷氏は、平氏の家柄を名乗り、お祖父さんの盛方は、京都で上皇を警護する北面の武士でしたが、天皇からのとがめを受けて殺されてしまいました。
お父さんの熊谷直貞は、幼い頃、乳母に抱かれて京都を離れ、武蔵国に流れ着きます。
16歳の頃、人食い熊を退治した功績で、熊谷郷の領主になりました。
その熊谷直貞の次男が熊谷直実です。
ところが、熊谷直貞は、18歳で死んでしまったため、2歳になった直実は、義理の母の兄弟の久毛直光(くげなおみつ)に養われることになります。
熊谷直実の初陣
1156年、熊谷直実が16歳となる年、保元の乱が起きます。
これは皇室の、お兄さんである崇徳上皇と、弟の後白河天皇の争いです。
熊谷直実は天皇方の源義朝のもとで初陣を飾ります。
この保元の乱は後白河天皇が勝利し、熊谷直実の初陣に勝利しました。
これによって、藤原通憲が政治を主導します。
ところが3年後の1159年、藤原通憲を倒すクーデターである平治の乱にも熊谷直実は出陣します。
これにも勝利したのですが、その後、後白河上皇が平清盛のもとへ行き、平清盛から源義朝が攻撃を受けます。
熊谷直実は、源義朝の長男で頼朝の兄の義平に従う精鋭17騎に含まれていましたが、ついに平清盛に敗れ、関東へ退却したのでした。
この時、源義朝も義平も死んでしまいます。
熊谷直実が武蔵国に戻ると、政権は平家に移り、武蔵国にも平知盛(とももり)が赴任してきます。
平知盛は、平清盛の子で、壇ノ浦では総大将をつとめる猛将です。
熊谷直実は、平知盛に仕えることになりました。
源頼朝の軍に加わり家紋を許される
1180年、熊谷直実が40歳になった時、源頼朝が伊豆で挙兵します。
平家は、大庭景親に源頼朝を討つように命じます。
熊谷直実は平家に仕えていたので、3000騎率いる大庭景親に従い、石橋山(神奈川県小田原市)で源頼朝の300騎に襲いかかります。
源頼朝は惨敗し、ちりぢりになって逃げ出しますが、この時、先陣を切っていた熊谷直実は、洞穴に潜んでいる頼朝を見つけます。
ところが熊谷直実は、平家の後続に、
「寓生(ほや・宿り木)のある洞窟に鳩が飛んでいるから人はいない」
と言い、頼朝を逃がします。
この時の功績により、熊谷直実は、頼朝から直接「鳩に寓生(ほや)」の家紋を許されたといわれます。
こうして熊谷直実は、源頼朝の軍に加わるようになります。
その後、源頼朝は、常陸(茨城県)の佐竹氏を討ちます。
その時、先陣を切って抜群の戦功を挙げたのが熊谷直実でした。
その働きによって「日本一の剛の者」と言われるようになります。
それまで熊谷直実は、叔父の久毛氏の配下にあったのですが、この時の恩賞により、念願であった熊谷郷を正式に治めるようになったのでした。
鵯越(ひよどりごえ)での抜け駆け
その後、平清盛が1181年に64歳で死没し、1183年に平家が倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れると、都落ちしていきます。
1184年、源頼朝に代わり、源義経が宇治川の戦いで木曽義仲を討ち取ると、福原(兵庫県神戸市)の平家の追討を命じられます。
その福原に陣取る平家10万騎を、5万騎を率いた源範頼が正面から攻撃し、北の山地から迂回して奇襲を狙ったのが義経率いる1万騎でした。
この時、熊谷直実は義経に従い、有名な「鵯越の逆落とし」で平家の本陣を奇襲する長南忠春ら精鋭70騎に編成されるはずでした。
ところが熊谷直実は、崖から転げ落ちて奇襲したのでは、大混戦となって、一番乗りの手柄を立てることができないと考えたのです。
当時、一番乗りは大きな手柄となりました。
そこで子供の小次郎と、抜け駆けして、福原の西側の一ノ谷へ行き、明け方に名乗りを挙げたのです。
「武蔵国の熊谷次郎直実、子息の小次郎直家、一ノ谷の先陣なり、われと思わん者は勝負せよ」
これが、16歳の小次郎の初陣でした。
すると平家から雨のように矢を射かけられます。
その一本が熊谷直実の馬の腹に当たり、自らの足で戦場を駆けることになります。
やがて小次郎も左腕に矢を受けて傷を負います。
驚いた直実は、心から心配します。
「大丈夫か?」
「はい、何ともありません」
「こういう時は、鎧に矢が通る隙間を作らないことだ。
兜の中は射られないようにしろ」
と教えながら、激戦が繰り広げられたのでした。
平敦盛(たいらのあつもり)の最期
平家の鉄壁の守りを源氏が攻めあぐねていると、やがて義経が鵯越の逆落としで、断崖絶壁から平家の本陣へ駆け下ります。
驚いた平家は、何が起きたかよく分からず、大混乱に陥って海に向かって逃げたのでした。
すでに戦の勝敗は決し、息子の負傷で思うように戦功を立てられなかった熊谷直実は、海のほうへ逃げて行く平家の騎馬武者たちを見つけて、後を追います。
すると須磨海岸で、葦毛(グレー)の馬に、ふちを黄金で飾った鞍を乗せてまたがり、萌黄匂い(若葉色のグラデーション)の立派な鎧兜を身につけ、黄金作りの刀を差した若武者に追いついたのです。
これは名のある武将に違いないと思った熊谷直実は、
「あいや待たれい。そこにおわすは名のある大将と見た。
大将たるもの、敵に後ろを見せるとは卑怯千万。
わしは日本一の剛の者、天下無双の熊谷次郎直実と申す。
いざ尋常に勝負せよ」
と名乗ります。
ところがその若武者は、馬首一転、くるりと振り返ります。
熊谷直実は
「あっぱれ死を覚悟しての出陣か」
と渚で一騎打ちとなったのでした。
ところが平家の若武者が、歴戦の勇士である熊谷直実にかなうはずがありません。
たちまち組み伏せられてしまいます。
兜を引き剥がすと、ちょうど小次郎と同じくらいの年の少年でした。
「若武者ながらあっぱれな奴、名は何と申す」
「そなたに名乗る名はない。
戦で死ぬは武士の本望、首を取って仲間に聞け。
立派な戦功となるであろう」
ところが熊谷直実は、今朝、息子の小次郎が左腕に薄手を負っただけでも心配で心配でたまらなかったのに、もし死んでしまったら、親はどう思うだろうかと、見逃してやりたくなってきました。
ところが、後ろからは源氏の軍勢がこちらに向かってきています。
熊谷直実は、涙ながらに
「お助けしたいのはやまやまですが、これでは逃げることはできないでしょう。
他の者の手にかかるくらいなら私が手にかけて、後の供養をしましょう」
「早く首を切るがよい」
こうして熊谷直実は、泣く泣く若武者を討ちとったのでした。
熊谷直実の驚き
熊谷直実は、その若武者の腰に錦の袋に入れた笛を携えているのを見つけると、
「明け方に城の中で笛を吹いていたのはこの方だったのか。
身分の高い方は優雅なことだ」
とその笛も持ち帰り、仲間にその若大将の名前を聞いたのでした。
するとそれは平清盛の弟の子・敦盛で、年はちょうど小次郎と同じ16歳でした。
笛の名手として知られ、携えていた笛は、鳥羽院から敦盛の祖父の平忠盛がもらった「小枝」という笛でした。
この少年は、一体何のために生まれてきたのか。
このように戦功を立てて、小さな領地を手に入れても、私ももう44歳。
すぐに死んでいかなければならない。
これだけたくさんの人を殺めてきたわしは、死んだらどうなるのだろう。
熊谷直実は、深い後悔と共に、急に、死んだらどうなるのかが気になってきたのでした。
わしは大変なことをしてしまった。
死んで行く時には何も持っていけない名誉や土地のために、大変な罪を犯してしまった。
無常と罪悪に追い立てられた熊谷直実は、後生の一大事に驚きが立ち、こんなわしが救われる道はあるのだろうかと、探し求めるようになったのでした。
やがてその苦しみを救うのは京都の法然上人しかないと教えてくれる人があり、熊谷直実は1193年、ついに法然上人のおられる京都の吉水を訪ねたのでした。
法然上人との出会い
吉水の草庵に到着し、弟子に取り次ぎを願うと、熊谷直実は、待っている間、刀を抜いて、真剣に見つめ始めました。
お師匠さまに危害を加えられるのではないかと心配した弟子たちが尋ねると、
「そんなことではない。
わしは武門に生まれ、16の年に初陣に立ちしより、現在の源平の合戦に至るまで、多くの敵を討ち取ってきた。
多くの人を殺した悪業は計り知れない。
もし法然上人が、腕を切り、腹を切らねば助からないと言われれば、すぐにそうするつもりだ。
その時のために刀を改めているのだ」
と刀を懐紙で清めて腰におさめます。
やがて法然上人のもとへ通されると、
「私は武蔵国の熊谷次郎直実と申します。
今日は後生のことについてお尋ねしたく参りました。
武士の定めとはいえ、これまで戦でたくさんの人を殺してきました。
その悪業の報いで、今死んだらどうなるかと居ても立ってもおれません。
こんな者が助かる道はないものでしょうか」
「そのことでしたか。
とても重大なお尋ねです。
私たちは、生まれてから、おびただしい殺生をせずには生きられない深い業を持っています。
そんな悪ばかり造っている私たちは、死ねば因果応報で間違いなく地獄に堕ちます。
ところが、そんな悪しか造れない極悪人を、信心一つで必ず救うと誓われたのが阿弥陀如来の本願です。
阿弥陀如来の本願を聞いて信心決定し、念仏を称える身になれば、罪の軽重にかかわらず、どんな人でも往生できるのです。
それ以外に道はありません」
それを聞いた熊谷直実は、さめざめと泣き始めるので、法然上人は
「どうしてそんなに泣かれるのか」
と聞かれると、
「私は多くの人を殺してきたので、手足を切って命を捨てても後生は助からないと思って来たのですが、それを阿弥陀如来は、信心一つで助けたもうとは、何たる不思議。
あまりの嬉しさに泣いているのです」
こうして53歳で法然上人に巡り会った熊谷直実は、蓮生(れんしょう・れんせい)という法名を頂き、すぐにお弟子になったのでした。
やがて阿弥陀如来の本願に救われて、変わらない幸せの身になった蓮生は、あまりの変わりように、都の人々がこう歌ったと言います。
熊谷が うって変わって 蓮生房
変われば変わる ものにこそあれ
これは、
「三味線の 皮をネズミがかむそうな 変われば変わる ものにこそあれ」
という歌のパロディです。
三味線は猫の皮でできているのですが、生きていた時はネズミを食べていた猫も、三味線になるとネズミに食べられるようになる、という意味です。
雑草のように人をなで斬りにしてきた熊谷直実も、180度ガラリと変わって、阿弥陀如来の本願を説いて人々を救う蓮生になったということです。
関白・九条兼実邸での聴聞
熊谷直実の聞法は、非常に熱心でした。
法然上人が行かれるところ、どこへでもついて行き、熱心に聴聞したのでした。
ある時、法然上人が、関白の九条兼実の屋敷に招待された時のことです。
関白といえば、今でいう首相のような政治家なので、他のお弟子はみんな遠慮していたのですが、熊谷直実は、法然上人のお供を願い出ました。
関白の屋敷では、大臣たちを招いての法話でしたので、熊谷直実の身分では同席できず、玄関で待たされることになります。
法然上人のご説法はとても小さい声で、途切れ途切れになります。
そこで、「娑婆というのは何と情けないところだ。
身分の違いで聴聞できないとは。
やがて参る浄土には、こんな差別はないだろうに」
と叫びます。
それを耳にした九条兼実は、法然上人に尋ねました。
「あれは何者ですか」
「あれは武蔵国から来た熊谷蓮生房です。
無礼の段、お許しください」
「いや、阿弥陀如来の本願は、男も女も、僧侶も在家の人も、身分の上下も何の関係もないと教えて頂いております。
ここへ呼んでやってください」
こうして熊谷直実は、大臣と肩を並べて聴聞したといわれます。
阿弥陀如来に救われると、どんな人も差別なく、平等一味の世界に生かされるのです。
敦盛の妻子と会う
熊谷直実は、一ノ谷で討ち取った敦盛の形見をいつか妻子に渡そうとずっと持っていましたが、平家の落武者は源氏に命を狙われており、行方がまったく分かりませんでした。
法然上人のお弟子になった熊谷直実は、敦盛の妻子は、吉水の草庵によく参詣していることを知りました。
法然上人にお尋ねすると一ノ谷の2年後の1186年、2歳くらいの子供が松の木の根元に捨てられているのを見つけられたといいます。
持ち物から平家の子供だと分かったので、源氏に処罰されるのを恐れて誰も育てようとしません。
かわいそうに思った法然上人が拾われて、近くで乳母を見つけて養育を頼まれたのでした。
名前は捨てられた子なので「捨丸」と呼ばれていました。
やがて物心がついてくると、捨丸が法然上人に尋ねます。
「昨日、花見に行ったら、みんなお父さんとお母さんに手を引かれて楽しそうにしていました。
どうしてぼくにはお父さんとお母さんがいないの?」
法然上人が、事情を説明すると、捨丸は悲しんで病気になってしまいました。
そこで、法然上人は、法話の後に、
「捨丸が、両親恋しさのあまり病気になり、明日をも知れぬ命です。
どなたかあの子の両親を知っている方はありませんか」
と聞かれますが、誰も答えません。
ところが、みんな帰ってしまった後に、一人だけ女性が残り、
「私が捨丸の母でございます」
と涙ながらに申し出ました。
「子を捨てた日から、見守っておりましたが、法然上人に拾われ、有り難く思っておりました」
とお礼を言うと、病床に案内されます。
「捨丸、大丈夫?
私がお母さんですよ」
というと、
「お母さん?お母さーん」
と泣き始めます。
「ごめんよ。お前の命を助けるには、こうするよりなかったんだよ。
今日からはいつもそばにいるから許しておくれ」
「お母さん、お父さんはどこに居るの?」
「お前のお父さんはね、平敦盛といって、もう一ノ谷の合戦で、熊谷直実に討たれたのよ」
「そうだったの」
と捨丸は悲しそうな顔をするのでした。
やがて法然上人の紹介で熊谷直実が捨丸の母に会うことができました。
敦盛の遺品を受け取ると、捨丸の母は見覚えのある品に泣き崩れました。
熊谷直実を怨みに思う雰囲気を察せられた法然上人は、
「敦盛は、平清盛の甥なのだから、熊谷直実の手にかからなくても、どこが討たれていたであろう。
それが熊谷だったからこそ、今こうして形見の品が帰ってきたのだ。
このような無常の世の中で、阿弥陀如来の本願にあえたことを喜びなさい」
と言われると、母も子も熊谷直実への怨みが解け、法然上人のお弟子になったといわれます。
逆さ馬と将軍・源頼朝への説法
熊谷直実は、ある日、京都から関東へ馬で行くことになりました。
ところが、東へ向かって進むと、背中は西に向きます。
『阿弥陀経』には、阿弥陀如来は西のほうの極楽浄土にましますと説かれています。
熊谷直実は、
「地獄一定の熊谷を救ってくだされた広大なご恩を思えば、どうして阿弥陀仏に背を向けられようか」
と馬の鞍を逆さにおいて、西へ向きながら、関東へ向かったといわれます。
熊谷直実は
「極楽に 剛の者とや 沙汰すらん
西に向かいて うしろ見せねば」
と詠んでいます。
西に背を向けなければ、極楽浄土でも剛の者と噂になるだろう、ということです。
やがて1195年、鎌倉を通りかかった熊谷直実は、かつての主君で今は将軍になった源頼朝に面会を願います。
許されて将軍の前に通されると、穢土を離れて、浄土を求めるべきことを説法しました。
「戦いに明け暮れ、権力を得たといっても、死んで行く時には何も持って行けません。
生きている時に変わらない幸せになることにこそ、本当の生きる意味があるのです」
「武蔵国へ行かねばならないのでご縁があればまた参る」と旅立って行きますが、鎌倉に真実の仏教が広まるきっかけとなり、頼朝の妻の北条政子は法然上人に教えを求め、
「深く仏のちかいをたのみて、いかなるところをも嫌わず、一定迎え給うと信じて、疑う心のなきを深心とは申し候なり」
(鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書)
との法然上人からのお手紙によって、他力の信心を教えられています。
しかしながら熊谷直実が、源頼朝と会うのはこれが最後となりました。
宇都宮三郎頼綱との再会
ある日、熊谷直実が東海道の吉原(静岡県富士市)を通った時のことです。
向こうから立派な大名行列がやってきました。
熊谷直実は、礼儀正しく道端に土下座して、通り過ぎるのを待っていました。
ところが、自分の前で、行列はピタッと止まります。
顔を上げると、その大名は、かつての戦友、宇都宮三郎頼綱でした。
軽蔑したまなざしで
「子供一人殺したぐらいで、坊主になるとは。
なんだ、そのざまは」
と言い、たんつばを吐きつけます。
「何を言うか、今は尊い仏教を伝えているのだ」
侮辱された熊谷直実が言い返すと、
「ほう、まだそんな元気があるなら、勝負してやる。
その刀でかかってこい」
と刀を投げて挑発します。
「宇都宮きさまー偉そうに。
バカにするのもいい加減にしろ」
十分に勝てると踏んだ熊谷直実が刀を抜いて馬上の宇都宮に向かって構えると、豪傑二人の一騎打ちに空気が張りつめます。
ところが数秒後、熊谷は足下から崩れ落ち、手を突いたのでした。
「どうした熊谷!負けを認めるのか」
と叫ぶ宇都宮に、
「今のわしは、もう以前の熊谷ではない。
南無阿弥陀仏の縄に縛られて、自由になれぬ幸せ者じゃ。
許してくれい」
と、熊谷は嬉し涙に念仏を称えています。
敵に許しを請うなど、熊谷直実とは思えない言動に、宇都宮は、仏教には何が教えられているのだろうかと驚きました。
熊谷直実は、
「大勢の供を連れて立派なことだが、どんなに多くの武士に護られていようとも、やがて必ずやってくる無常の殺鬼を防ぐことはできぬ。
わしは仏教を聞いて、阿弥陀如来に救い摂られ、大宇宙の諸仏から百重千重に取り囲んで護られている幸せ者じゃ。
命終われば弥陀の浄土へ往って仏に生まれるから死の不安はまったくない。
そなたも仏教を聞くがよい」
それを聞いた宇都宮三郎頼綱は、下野国(栃木県)の領主でしたが、やがて法然上人の元へ訪れ、お弟子になっています。
親鸞聖人との関係
熊谷直実が法然上人のお弟子になってから8年後の1201年、親鸞聖人が29歳で法然上人のお弟子になります。
その親鸞聖人と熊谷直実とのやりとりは、覚如上人の『御伝鈔』に記されています。
親鸞聖人が34歳の時のことです。
380余人の法然上人のお弟子の中に、どれだけ他力の信心を獲た人がいるだろうと心配になり、先生の法然上人の許可を得て、ある会合で、法然門下のお弟子たちに、信心で救われると思う人の座敷と、念仏で救われると思う人の座敷を分けて、どちらでも好きなほうにお入り下さいと尋ねたことがありました。
その時、すぐに信心で救われると思う座敷に入ったのは、聖覚法印と、信空だけでした。
そこへ遅れてやってきた熊谷直実は、
「親鸞殿、これは何事でござるか」
と尋ねます。
「ちょうどいい所へ来られた。今、皆さんに信心で救われるか念仏で救われるか尋ねていたところです」
すると熊谷直実は、
「信心一つで救われる、明らかでござる」
とスタスタと信心の座に入ったと記されています。
その時親鸞聖人も信心の座につくと、先生の法然上人も、
「法然も信心の座に入ろう」
といわれ、法然上人は念仏だろうと思って、信心の座に入らなかったお弟子たちはみな驚いたと伝えられています。
往生と親鸞聖人への影響
1205年、奈良の興福寺が、「興福寺奏状」を朝廷に提出し、念仏の禁止を訴えます。
日増しに不穏な空気が漂う京都でしたが、法然上人は、熊谷直実に、故郷の武蔵国に帰って布教をするように勧められます。
関東でも、鎌倉幕府はすでに1200年、念仏禁止令を出し、弾圧を始めています。
熊谷直実は、不屈の精神で阿弥陀如来の本願を伝えましたが、2年後の1207年、67歳で往生を遂げたのでした。
親鸞聖人が関東へ赴かれたのは、それから7年後でしたので、熊谷直実はすでに亡くなった後でした。
ところが、親鸞聖人が関東の拠点として草庵を結ばれた常陸の稲田(茨城県笠間市)の領主は、熊谷直実が阿弥陀如来の本願を伝えた宇都宮三郎頼綱の子、頼重でした。
頼重は、父、宇都宮頼綱から、
「親鸞聖人にしたがって弥陀の本願を求めよ」
といわれて、親鸞聖人を稲田へお迎えしたと、「西念寺縁起」に記されています。
こうして親鸞聖人は、関東で20年間、すべての人が救われるたった一本の道である阿弥陀如来の本願を伝えられたのでした。
阿弥陀如来の本願に生きている時に救われるには、苦悩の根元を断ち切られなければなりません。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能。