地獄の期間と今すべきこと
ある夏の暑い日、蓮如上人は地獄の苦しみを思い出されて、お手紙を書かれています。
その中には、私たちがすっかり忘れていることと、人生で本当になすべきことが、簡潔に記されていました。
それが『御文章』2帖目12通「人間五十年・四王天」です。
一体どんなことを書かれているのでしょうか?
御文章2帖目12通 人間五十年・四王天
文明6年、蓮如上人60歳の6月2日のことでした。
蓮如上人は、奥書に「あまりの炎天のあつさに、これを筆にまかせて書きしるしおわりぬ」と書かれていますので、猛暑のことでした。
旧暦の6月は、今でいえば8月なので、夏真っ盛りです。
そのあまりの暑さに、地獄の苦しみについて書かれているのが、この『御文章』2帖目12通です。
そこにはこのように書かれています。
夫れ、人間の五十年をかんがえみるに、四王天といえる天の一日一夜に相当れり。
また此の四王天の五十年をもって等活地獄の一日一夜とするなり。
これによりて、皆人の地獄に堕ちて苦を受けんことをば何とも思わず、又浄土へ参りて無上の楽を受けんことをも分別せずして、徒に明し空しく月日を送りて、更にわが身の一心をも決定する分もしかじかともなく、また一巻の聖教を眼にあてて見ることもなく、一句の法門を言いて門徒を勧化する義もなし。
ただ朝夕は暇をねらいて、枕を友として眠り臥せらんこと、まことにもって浅ましき次第にあらずや。
静かに思案を廻すべきものなり。
この故に、今日今時よりして、不法懈怠にあらん人々は、いよいよ信心を決定して、真実報土の往生を遂げんと思わん人こそ、まことにその身の徳ともなるべし。
これまた自行化他の道理にかなえりと思うべきものなり。
(御文章2帖目12通「人間五十年・四王天」)
これは一体どういう意味なのでしょうか?
地獄の期間はどの位?
まず蓮如上人は「夫れ、人間の五十年をかんがえみるに、四王天といえる天の一日一夜に相当れり。
また此の四王天の五十年をもって等活地獄の一日一夜とするなり」
といわれています。
「夫れ」とは、さて、ということです。
「四王天」とは、天上界の中でも一番低い世界です。
「下天」ともいわれ、敦盛では
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」
と歌われています。
人間の五十年は、「四王天」の一日一夜にあたる、夢幻のように儚い一生だということです。
ところが、その四王天の五十年が、等活地獄の一日一夜にあたります。
等活地獄というのは、仏教に教えられる八大地獄で、最も苦しみの軽い地獄です。
八大地獄については以下の記事に詳しく解説されています。
→地獄の種類と苦しみ
地獄の中でも最も苦しみの少ない等活地獄には、どんな人が堕ちるかというと、生き物を殺した人です。
ここに堕ちた罪人は、鉄の爪が生えて、他の罪人たちと殺し合います。
体がズタズタになるまでひっかき合うと、地獄の獄卒がやってきて、骨を砕かれます。
するとどこからともなく涼しい風が吹いて「活!活!」という声が聞こえ、罪人達は蘇ります。
こうして殺し合い、苦しみ続ける世界です。
その期間をお釈迦さまは『正法念経』に説かれています。
それを蓮如上人が正確にわかりやすく教えられているのです。
それは、等活地獄の1日が四王天の50年ですから、それは人間界の時間に換算すると、
50年×30日×12ヶ月×50年で90万年です。
そして等活地獄の寿命は500年といわれますので、
90万年×30日×12ヶ月×500年で1620億年です。
人間界の宇宙ができてから130億年といわれますので、その10倍以上です。
人生80年とはもう比較のしようもありません。
これで一番苦しみの少ない地獄ですから、地獄は人間界とは比較にならない苦しい世界です。
この死んだら恐ろしい苦しみの世界に旅立っていかなければならない一大事を後生の一大事といいます。
こんなに苦しいなら死んだほうがまし?
よく「こんなに苦しいなら死んだほうがましだ」と自殺する人があります。
それは死んだらどうなるか知らないからです。
もし、死んだらもっと苦しい世界に飛び込んでいかなければならないと知れば、誰も自殺などしないはずです。
仏教ではこの世の苦しみをひとすくいの水とすれば死んで堕ちる地獄の苦しみは海の水の如しと言われています。
後生の一大事は、この世で少し苦しいことなどものの数ではありません。
比べものにならない苦しみです。
そんな世界に自ら飛び込むわけですから、仏教からすれば自殺ほど愚かなことはありません。
だから、人の命を粗末にしたり、自ら命を断ってはならないのです。
そんな死んだらどうなるか全然分かっていない私たちに、
蓮如上人は後生の一大事を教えられているのです。
みんな普通は肉や魚を食べて生きているので、生き物を殺したことのない人はないと思います。
その殺生罪だけで八大地獄でも最も苦しみの軽い等活地獄ですから、ほとんどの人は、もっとはるかに苦しみの激しい地獄に堕ちねばなりません。
そうして見ると、私たちが生まれてから死ぬまでのあっという間の人生で、
どんなに辛いことや苦しいことがあっても
人間界で受ける苦しみなどほとんど永遠に続く地獄の苦しみに比べたら全く比較にならないことです。
ところが私たちは、そんな未来を知る智慧がまったくないために、
お金がなくて苦しいとか、
他人に悪口を言われたといって苦しんでいます。
それは確かに苦しいのですが、それはあっという間のことで、
一息切れたら後に受ける苦しみは、比較にならない苦しみを、
はるかに長い間受けねばならないのだと教えられているのです。
この一大事を知らない現代人の姿
こんな後生の一大事について私たちはどう思っているかを蓮如上人は、こういわれています。
これによりて、皆人の地獄に堕ちて苦を受けんことをば何とも思わず
みんな、自分が死んだら地獄に堕ちて大変な苦しみを受けるのに、それを何とも思っていないということです。
自分がこれから突っ込んでいく先に、大変な一大事があることを、智慧がないので分かりません。
仏教で教えられても何とも思わず、ケロッとしています。
だから仏教に後生の一大事の解決が教えられているのに、もたもたして仏教を聞こうともしない、
ということです。
平均寿命わずか80年のあっという間の人生で、何億年、何兆年という長期間の苦しみを解決して、未来永遠の幸せの身になれるのに、そのチャンスを失おうとしています。
そのことを次に、こう教えられています。
浄土へ参りて無上の楽を受けんことをも分別せずして、徒に明し空しく月日を送りて
仏教には、後生の一大事の解決の道が教えられているので、仏教を聞いて信心決定すれば、死ねば浄土往生間違いなしの身になれます。
これを「往生一定」といいます。
蓮如上人は、『領解文』にこういわれています。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定
(領解文)
後生の一大事は「たのむ一念」で解決できます。
「たのむ」とはお願いすることではありません。
救われるということです。
信心決定と同じです。
「一念」というのは信心決定する何億分の一秒よりも短い時間です。
後生の一大事は一瞬で解決できますので、救われた瞬間、往生一定になります。
「往生一定」の「往生」は死んで極楽へ往って仏に生まれることです。
「一定」とは、ハッキリすることです。
「治定」もハッキリすることですので、生きている時にハッキリ救われることを「御たすけ治定」といわれています。
ところが仏教を聞かないので、往生一定どころか死んだらどうなるかハッキリしないことを
「浄土へ参りて無上の楽を受けんことをも分別せず」
といわれています。
地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばず、ただ生きるために生きているので、
「徒に明し空しく月日を送りて」
といわれています。
智慧がないために、何のために生まれてきたのか、本当の生きる意味が分からず、毎日同じことの繰り返しで、ただだくだくと生きています。
一日生きれば一日生きただけ死に近づいていくので、これでは死ぬために生きているようなもの。
一瞬で消えていく儚い人生の中で、永遠の苦しみに沈むところが、この上ない楽果を受ける身になれるのに、何ともったいない。
後生の一大事を解決して、この世から未来永遠の幸せになることが人間に生まれた目的だから、
早くその目的を果たして本当の幸せの身になりなさい、
といわれているのです。
この私たちのありさまを心配なされた蓮如上人は、次に私たちのすべきことをこういわれています。
私たちはどうしたらいいの?
更にわが身の一心をも決定する分もしかじかともなく、また一巻の聖教を眼にあてて見ることもなく、一句の法門を言いて門徒を勧化する義もなし。
「一心」とは他力の信心のことです。
我が身の後生の一大事を解決して、他力の信心を決定することもない、何とか早く仏法を聴聞して、信心決定してもらいたいということです。
仏教を聞くご縁がない時には、後生の一大事の解決の道を知ろうと、仏教の本を読んで教えを学べばいいのに、
「一巻の聖教を眼にあてて見ることもなく」
といわれています。
「聖教」とはお釈迦さまのお経や親鸞聖人、覚如上人のご著書のことで、仏教の本のことです。
一冊の仏教の本を見ることもないが、何とか少しでも仏教の教えを知ってもらいたい。
聴聞のご縁のない時は、仏教の教えを学びなさい、ということです。
そして「一句の法門を言いて門徒を勧化する義もなし」というのは、一言なりとも仏教の教えを話して、後生の一大事とその解決をお伝えするのが、人間にできる最高の善なのに、それもしない。もう少しあなたの口で仏法を語って、ご縁のある人に、未来永遠の幸せがあることを知らせてあげたらいいではないか、ということです。
そうすれば、自分の理解も深まるから、相手も自分も幸せになる、自利利他のすばらしい行いになります。
蓮如上人は、何とか一人でも多くの人に、この後生の一大事を知って、解決してもらいたいと手に汗握って教えられているのです。
蓮如上人の戒め
蓮如上人は次にこう戒められています。
ただ朝夕は暇をねらいて、枕を友として眠り臥せらんこと、まことにもって浅ましき次第にあらずや。
静かに思案を廻すべきものなり。
朝から晩、晩から朝まで、暇を盗んで休もうとしている。
少しでも暇があれば楽をしようとする。
せっかく尊い仏縁があって親鸞聖人の教えを聞いておりながら、浅ましいことではないか。
未来永遠の幸せになるために生まれがたい人間に生まれて、聞きがたい仏法を聞いているのに、本当に残念なことではないか。
よくよく自分の心を振り返って反省してみなさい。
そして蓮如上人は、やるせないお気持ちで、こう戒められます。
この故に、今日今時よりして、不法懈怠にあらん人々は、いよいよ信心を決定して、真実報土の往生を遂げんと思わん人こそ、まことにその身の徳ともなるべし。
これまた自行化他の道理にかなえりと思うべきものなり。
この手紙を読んだ今の瞬間から、今までなまけて教えに従わず、善に向かわなかった人でも、いよいよ真剣に仏教を聴聞して、信心決定しなさい。
早く往生一定の身になって、真実の弥陀の浄土に往生できる身になりなさい。
信心決定してこそ本当の徳が身につくのですよ。
次の「自行化他」とは自利利他と同じことで、自分が信心決定すれば、
「自分だけこんな幸せになって、独り占めしては申し訳ない」
と、他の人にも伝えずにおれなくなるし、
まだ信心決定していない人でも、他の人に伝えれば、相手も自分も幸せに近づく自利利他になりますよ。
後生に大変な一大事があるのだから、一人でも多くの人に信心決定して、極楽往き間違いなしの身になってもらいたい、ということです。
ではどうすれば後生の一大事を解決して、信心決定できるのかというと、
後生の一大事を解決するには、後生の一大事を引き起こす、苦しみの根元を知って、それを断ち切らなければなりません。
その苦しみの根元とは何か、どうすれば断ち切れるのかについては、浄土真宗の本質ですので、以下の講座をご確認ください。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
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