「現代人の仏教教養講座」

 

「浄土真宗」入門講座

浄土真宗の大切な所をわかりやすく解説

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生きる意味を、知ろう。

赤尾の道宗

赤尾の道宗は、世界遺産に認定された合掌造りで有名な富山県の越中五箇山の出身です。
蓮如上人から浄土真宗の教えを聞いて阿弥陀如来の本願に救われ、妙好人と言われるようになりました。鈴木大拙は日本三大妙好人の一人に数えている程です。
蓮如上人の御一代記聞書にも登場し、道宗心得二十一箇条を残しています
道宗の開いた富山県南砺市西赤尾の行徳寺は、道宗遺徳館を併設し、今も富山県の観光スポットになっています。
赤尾の道宗は、どんな人だったのでしょうか?

道宗の生い立ち

世界遺産の合掌造りで有名な越中五箇山は、富山県南砺市にあります。
源平合戦で敗れた平家の落ち武者が逃げ込んだところで、道宗も、平家の落ち武者の角淵毛の長男として生まれました。
幼名を弥七といいます。
13歳で両親と死別すると、伯父の浄徳(じょうとく)に育てられました。

弥七はいつも
人は死んだらどうなるのだろう。お父さんお母さんに会いたい
と、両親を恋しがっていたので、浄徳は、昔聞いた話を言い聞かせます。
筑紫の国(九州北部)にある羅漢寺に五百羅漢の仏像が安置されているんだって。
その中に両親に似た羅漢が必ずあるといわれるから、
大きくなったら羅漢寺に参詣したらいいよ。
きっとお父さんお母さんに似た羅漢に会えるよ

それを聞いた弥七は、やがて羅漢寺に行きたいと思うようになったのです。

やがて19歳になった弥七は、ついに両親に会いに筑紫へと旅立ちます。
ところが福井県のあたりで、弥七は夢を見ました。
一人の僧侶が夢枕に立ち、こう言います。
五百羅漢の中から両親に似た仏像を探し出したからといってどうなるのだ。
まことの親さまにあわねば意味がない。
この世の親に似た羅漢像を探すよりも、未来永遠の親である阿弥陀如来にあうほうがよかろう。
今、京都におられる蓮如上人から阿弥陀如来の本願を聞けば、まことの親に対面できる

目を覚ました弥七は、
確かに親に似た仏像に会ってもどうにもならない。
不思議なこともあるものだ。
京都で蓮如上人という方がまことの親に会わせてくださるのなら京都へ行ってみよう

と一路京都へ向かいます。

京都にたどりついた弥七は、本願寺で蓮如上人のご説法を三日三晩真剣に聴聞し、
蓮如上人から
毎日、まばたきもせずに聞いているあの青年は誰か
と、控室に呼ばれるほどだったといわれます。

やがて阿弥陀如来の本願に救い摂られ、本当の生きる意味を知らされた弥七は、すぐに蓮如上人のお弟子となります。
この時蓮如上人からつけて頂いた名前が「道宗」でした。
まもなく本願寺は比叡山の僧兵の襲撃で破壊され、道宗は故郷の五箇山に帰って阿弥陀如来の本願を伝え、御恩報謝の活躍をするようになります。

道宗にはこんなエピソードがあります。

48本の割木の上に寝る道宗

道宗の一番有名な逸話は、48本の割木の上で寝ていたことです。
棟方志功が行徳寺を訪れたとき、道宗の木像を拝して感銘して、割木に寝る道宗の版画を書いているほどです。
毎晩割木の上に布団を敷いて寝ているので、道宗には、青いあざが絶えず、ある人がこう聞きました。
あなたは阿弥陀如来の本願を聞くだけで救われると教えられていますが、本当は厳しい修行が必要なんですよね
いやいや違う違う。これは救われるためではない。
阿弥陀如来は、どんな極悪人でも、聞く一つで絶対の幸福に救い摂ってくださる。
だが私のような恩知らずのしぶとい悪人は、布団の上に安らかに寝ていては、こんなにも幸せな身にしてくだされた阿弥陀如来の大変なご恩を忘れてしまう。
それが申し訳ないので、こうして阿弥陀如来のご苦労を思い出して、お礼の念仏を称えているのだよ

報いきれない阿弥陀如来のご恩に涙する道宗だったのです。

瑞泉寺の道宗打ち

蓮如上人は、五箇山から約30キロ離れた富山県南砺市の井波の瑞泉寺でご説法されることがありました。

瑞泉寺は、蓮如上人の曾祖父・綽如上人の建立によるお寺で、本願寺の越中の拠点でした。
現在も東西本願寺の井波別院があります。

蓮如上人が瑞泉寺に来られた時には、道宗は毎日日帰りで朝の勤行に間に合うように参詣したといわれます。
30キロ以上の山道なので、時速5キロで歩いても、6時間かかります。
真夜中に出発しないと、朝のおつとめには間に合いません。

ある年の冬、蓮如上人が瑞泉寺で年を越されました。
道宗は元旦の朝のおつとめに参詣できるように、出発します。
ところがもともと雪深い五箇山に、想定外の大雪で、思うように歩けません。
元日の明け方、瑞泉寺で勤行の準備が整いましたが、道宗の姿はありませんでした。
蓮如上人が、「道宗は着いたか
と聞かれると、そばのお弟子は、
いいえ、まだです。さすがにこの雪では間に合わないと思います
と答えます。
いや、道宗のことだ。必ず来るから少し待つように
果たして道宗は、遠くの雪の中から姿を現します。
蓮如上人は、「勤行の合図に鐘と太鼓を打ち鳴らしなさい」と言われ、道宗が無事到着すると、勤行が始まったといわれます。
それ以来、瑞泉寺では、元旦のおつとめの前には、必ず鐘と太鼓を鳴らすことになっています。
これを「道宗打ち」といいます。

道宗は、「お参りしながら帰命無量の御調声に遇わぬのは、三年のケカチに出遇ったようなものだ
と言っています。
これは、「ご法話に参詣しながら、勤行に間に合わないのは、三年続けて飢饉にあったほどの損失だ
ということです。
ご法話の前の勤行はとても大切だということです。

琵琶湖の水を1人で埋める?道宗の心がけ

蓮如上人御一代記聞書には、このようにあります。

赤尾の道宗、申され候。
「一日のたしなみには、あさつとめにかかさじと、たしなめ。
一月のたしなみには、ちかきところ、御開山様の御座候うところへまいるべしと、たしなむべし。
一年のたしなみには、御本寺へまいるべしと、たしなむべし」(御一代記聞書45)

これは、毎朝のおつとめは欠かしてはならない。
毎月のご法話の参詣は欠かしてはならない。
毎年の本山への参詣は欠かしてはならないと、道宗が言っていた、ということです。
実際道宗は、富山県から京都の本願寺まで、1年に23回参詣していたそうです。

赤尾道宗と云は、蓮如上人御在世の時、一年に二度三度は上洛し、山科野村の御坊へ参りけり。
遙の路をしげく上洛す、大儀たるべし。
(実悟記)

山科というのは、蓮如上人69歳の時に建立された広大な本願寺です。
当時は歩いて参詣するので、往復の時間も大変ですが、そうやって遠路はるばる参詣し、仏教を聞く時にはこのように聞いていたと言われます。

道宗は、「ただ、一つ御詞を、いつも聴聞申すが、初めたるように、有難き」由、申され候う。
(御一代記聞書131)

同じ一つのことを聞いても、いつも初事と真剣に聞いていた、ということです。

ある時、蓮如上人から
琵琶湖を一人で埋めてこい
といわれると、道宗は、即座に、
畏まりました
と答えます。
それが、御一代記聞書に記されています。

善知識の仰なりとも「成るまじき」なんど思うは大なる浅間しき事なり。
何たる事なりとも、仰せならばなるべきと、存ずべし。
この凡夫の身が仏になるうえは、さてなるまじきと存ずること、あるべきか。
然れば「道宗、近江の湖を一人して埋めよ」と仰せ候とも「畏まりたる」と申すべく候。
仰せにて候わば、ならぬこと、あるべきか」と、申され候う。
(御一代記聞書192)

善知識というのは、仏教を正しく教える先生のことです。
仏教では、悪しかできない私たち凡夫は、本来ならば因果応報の因果の道理で苦しみ続けなければならないのに、仏にして頂けるというのは、電信柱に花が咲くよりもありえないことが仏教に教えられている。
だから仏教を正しく説かれる方が言われるなら、できないことがあるものか。
必ずできると思いなさい、と仏教を聞く心構えを教えられたもの
です。

道宗心得二十一箇条

1.後生の一大事、命のあらんかぎり、油断あるまじき事。

後生」とは死んだらどうなるか、ということです。
死はすべての人にとって100%確実な未来ですから、関係のない人はありません。
仏教の目的は、この死んだらどうなるかの後生の一大事を解決することなのです。
ではいつ死が訪れるかというと、誰にも分かりません。
明日死ねば明日から後生です。
だから、油断なく一日も早く後生の一大事の解決を急げ、ということです。

2.仏法よりほかに、心に深く入ること候わば、あさましく存じ候て、すなわちひるがえすべき事。

仏教に教えられているのは、後生の一大事の解決です。
私たちが生きているのは、幸せになるためですが、世間のことでは、一時的なはかない幸せにしかなれません。
変わらない幸せになるには、後生の一大事の解決によってのみなれます
それにもかかわらず、仏教を後回しにして、世間事ばかりやっていては、大変なことになりますよ
ということです。

3.ひきたつる心なく、おうようになり候わば、心中をひきやぶりまいるべき事。

自分の心を奮い立たせる心がなくなって、怠け心ばかりになってしまったら、その心を引き破りなさい、ということです。

12.心中に驚きしみじみとなく候わば、
「ああ浅ましやもったいなや、今生は飢え死に、凍え死ぬとも、このたび後生の一大事を遂げまいらせ候わん事こそ、無始曠劫よりの望みこのたび満足なれ」
と存じ候て、思いきり我が身を責めるべき事。

果てしない遠い過去から迷い続けてきた私が、ようやく今、生まれがたい人間に生まれ、聞き難い仏法を聞いている。
それにもかかわらず、後生の一大事に驚きが立たないのは、もったいないことだ。
今生こそは、たとえ飢え死にしても、凍え死んでも、後生の一大事を解決しなければならない。
今生に迷いの打ち止めをすれば、浄土に往生して、未来永遠の幸せになれると、徹底的に自分に言い聞かせなさい、ということです。

13.あやまっても、随意をはたらき、眠りふせり候て、この一大事を思いまいらせず、いたずらに暮らし候まじき事。

間違っても、欲の心に任せたり、睡眠欲に負けて、本当の生きる目的である後生の一大事を心にかけず、人生80年、欲を満たす生き方だけに無駄に使ってはならない、ということです。

仏教は後生の一大事に始まり、後生の一大事の解決で終わります。
それを何とか分かってもらいたいと、恩徳讃の一生を送ったのが道宗だったのです。

では後生の一大事の原因はどんなことで、どうすれば解決できるのかはということは、その本質を小冊子とメール講座にまとめておきましたので、今すぐ以下からご覧ください。

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浄土真宗の教えの本質、苦しみの根元をメール講座にまとめました。
詳しくは以下のページで確認してください。

著者紹介

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生おさなみみずき

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。

仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能