正信偈(しょうしんげ)とは
親鸞聖人の直筆の正信偈
『正信偈』は、浄土真宗のお通夜や葬儀、朝晩の勤行でよく読まれます。
7文字かける120行の840文字の漢字ばかりで書かれていますのでお経だと思っている人があります。
しかし「お経」は、お釈迦さまの説かれたことをお弟子が書き残したものですが、『正信偈』は親鸞聖人の書き残されたものですので、『正信偈』はお経ではありません。親鸞聖人の主著『教行信証』の一部です。『教行信証』はお釈迦さまの説かれた一切経を圧縮して仏教の真髄を明らかにされたものです。その『教行信証』を圧縮されたのが『正信偈』です。
ですから『正信偈』を拝読することは、一切経七千余巻を拝読するのと同じ功徳があるのです。
『正信偈』は親鸞聖人が一字書いては涙を流され、一字一涙の思いで書かれたといわれます。
『正信偈』には一体どんなことが書かれているのでしょうか?
正信偈の全文と読み方
まず、『正信偈』の全文と読み方は以下の通りです。
原文 | 読み方 | 書き下し文 |
---|---|---|
帰命無量寿如来 | きみょうむりょうじゅーにょーらいー | 無量寿如来に帰命し、 |
南無不可思議光 | なーむーふーかーしーぎーこーう | 不可思議光に南無したてまつる。 |
法蔵菩薩因位時 | ほうぞーぼーさーいんにーじー | 法蔵菩薩因位の時、 |
在世自在王仏所 | ざいせーじーざいおうぶっしょー | 世自在王仏の所に在して |
覩見諸仏浄土因 | とーけんしょーぶつじょうどーいーん | 諸仏浄土の因、 |
国土人天之善悪 | こくどーにんてんしーぜんまーく | 国土・人天之善悪を覩見して、 |
建立無上殊勝願 | こんりゅうむーじょうしゅーしょうがーん | 無上殊勝の願を建立し、 |
超発希有大弘誓 | ちょうほつけーうだいぐーぜーい | 希有の大弘誓を超発せり、 |
五劫思惟之摂受 | ごーこうしーゆいしーしょうじゅー | 五劫に之を思惟して摂受す。 |
重誓名声聞十方 | じゅうせいみょうしょうもんじっぽーう | 重ねて誓うらくは「名声十方に聞えん」と。 |
普放無量無辺光 | ふーほうむーりょうむーへんこーう | 普く無量・無辺光、 |
無碍無対光炎王 | むーげーむーたいこうえんのーう | 無碍・無対・光炎王、 |
清浄歓喜智慧光 | しょうじょうかんぎーちーえーこーう | 清浄・歓喜・智慧光、 |
不断難思無称光 | ふーだんなんしーむーしょうこう | 不断・難思・無称光、 |
超日月光照塵刹 | ちょうにちがっこうしょうじんせー | 超日月光を放ちて塵刹を照らす、 |
一切群生蒙光照 | いっさいぐんじょうむーこうしょう | 一切の群生、光照を蒙る。 |
本願名号正定業 | ほんがんみょうごうしょうじょうごーう | 本願の名号は正定の業なり、 |
至心信楽願為因 | しーしんしんぎょうがんにーいーん | 至心信楽の願を因と為す、 |
成等覚証大涅槃 | じょうとうがくしょうだいねーはーん | 等覚を成り大涅槃を証することは、 |
必至滅度願成就 | ひっしーめつどーがんじょうじゅー | 必至滅度の願、成就すればなり。 |
如来所以興出世 | にょーらいしょーいこうしゅーっせー | 如来世に興出したまう所以は、 |
唯説弥陀本願海 | ゆいせつみーだーほんがんかーい | 唯弥陀の本願海を説かんとなり。 |
五濁悪時群生海 | ごーじょくあくじーぐんじょうかーい | 五濁悪時の群生海、 |
応信如来如実言 | おうしんにょーらいにょーじつごーん | 応に如来如実の言を信ずべし。 |
能発一念喜愛心 | のうほついちねんきーあいしーん | 能く一念喜愛の心を発せば、 |
不断煩悩得涅槃 | ふーだんぼんのうとくねーはーん | 煩悩を断ぜずして涅槃を得、 |
凡聖逆謗斉廻入 | ぼんしょうぎゃくほうさいえーにゅう | 凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば、 |
如衆水入海一味 | にょーしゅーすいにゅうかいいちみー | 衆水の海に入りて一味なるが如し。 |
摂取心光常照護 | せっしゅーしんこうじょうしょうごー | 摂取の心光は常に照護したまう、 |
已能雖破無明闇 | いーのうすいはーむーみょうあーん | 已に能く無明の闇を破すと雖も、 |
貪愛瞋憎之雲霧 | とんないしんぞうしーうんむー | 貪愛・瞋憎の雲霧、 |
常覆真実信心天 | じょうぶしんじつしんじんてーん | 常に真実信心の天を覆えり、 |
譬如日光覆雲霧 | ひーにょーにっこうふーうんむー | 譬えば日光の雲霧に覆わるれども、 |
雲霧之下明無闇 | うんむーしーげーみょうむあーん | 雲霧の下明らかにして闇無きが如し |
獲信見敬大慶喜 | ぎゃくしんけんきょうだいきょうきー | 信を獲て見て敬い大いに慶喜すれば、 |
即横超截五悪趣 | そくおうちょうぜつごーあくしゅー | 即ち横に五悪趣を超截す。 |
一切善悪凡夫人 | いっさいぜんまくぼんぶーにーん | 一切善悪の凡夫人、 |
聞信如来弘誓願 | もんしんにょーらいぐーぜいがーん | 如来の弘誓願を聞信すれば、 |
仏言広大勝解者 | ぶつごんこうだいしょうげーしゃー | 仏は広大勝解の者と言い、 |
是人名分陀利華 | ぜーにんみょうふんだーりーけ | 是の人を分陀利華と名く。 |
弥陀仏本願念仏 | みーだーぶつほんがんねんぶー | 弥陀仏の本願念仏は、 |
邪見憍慢悪衆生 | じゃーけんきょうまんあくしゅーじょーう | 邪見・憍慢の悪衆生、 |
信楽受持甚以難 | しんぎょうじゅーじーじんにーなーん | 信楽受持すること甚だ以て難し、 |
難中之難無過斯 | なんちゅうしーなんむーかーしー | 難の中の難斯に過ぎたるは無し。 |
印度西天之論家 | いんどーさいてんしーろんげー | 印度西天の論家、 |
中夏日域之高僧 | ちゅうかーじちいきしーこうそーう | 中夏・日域の高僧、 |
顕大聖興世正意 | けんだいしょうこうせーしょういー | 大聖興世の正意を顕し、 |
明如来本誓応機 | みょうにょーらいほんぜいおうきー | 如来の本誓、機に応ずることを明す。 |
釈迦如来楞伽山 | しゃーかーにょーらいりょうがーせーん | 釈迦如来楞伽山にして、 |
為衆告命南天竺 | いーしゅーごうみょうなんてんじーく | 衆の為に告命したまわく、「南天竺に、 |
龍樹大士出於世 | りゅうじゅーだーいじしゅっとーせー | 龍樹大士、世に出でて、 |
悉能摧破有無見 | しつのうざいはーうーむーけーん | 悉く能く有無の見を摧破し、 |
宣説大乗無上法 | せんぜつだいじょうむーじょうほーう | 大乗無上の法を宣説し、 |
証歓喜地生安楽 | しょうかんぎーじーしょうあんらーく | 歓喜地を証して安楽に生ぜん」と。 |
顕示難行陸路苦 | けんじーなんぎょうろくろーくー | 難行の陸路の苦しきことを顕示し、 |
信楽易行水道楽 | しんぎょういーぎょうしいどうらーく | 易行の水道の楽しきことを信楽せしめたまう。 |
憶念弥陀仏本願 | おくねんみーだーぶつほんがーん | 「弥陀仏の本願を憶念すれば、 |
自然即時入必定 | じーねーんそーくじーにゅうひつじょう | 自然に即の時必定に入る、 |
唯能常称如来号 | ゆいのうじょうしょうにょーらいごーう | 唯能く常に如来の号を称じて、 |
応報大悲弘誓恩 | おうほうだーいひぐーぜいおーん | 大悲弘誓の恩を報ず応し」といえり。 |
天親菩薩造論説 | てんじんぼーさーぞうろんせー | 天親菩薩は論を造りて説かく、 |
帰命無碍光如来 | きーみょうむーげーこうにょーらーい | 「無碍光如来に帰命したてまつる」と。 |
依修多羅顕真実 | えーしゅーたーらーけんしんじーつ | 修多羅に依りて真実を顕し、 |
光闡横超大誓願 | こうせんおうちょうだいせいがーん | 横超の大誓願を光闡し、 |
広由本願力廻向 | こうゆほんがんりきえーこう | 広く本願力の廻向に由りて、 |
為度群生彰一心 | いーどーぐんじょうしょういーっしーん | 群生を度せんが為に一心を彰したまう。 |
帰入功徳大宝海 | きーにゅうくーどくだいほうかーい | 「功徳の大宝海に帰入すれば、 |
必獲入大会衆数 | ひつぎゃくにゅうだいえーしゅーしゅー | 必ず大会衆の数に入ることを獲、 |
得至蓮華蔵世界 | とくしーれんげーぞうせーかーい | 蓮華蔵世界に至ることを得れば、 |
即証真如法性身 | そくしょうしんにょーほーっしょうしーん | 即ち真如法性の身を証せしむ、 |
遊煩悩林現神通 | ゆーぼんのうりんげんじんづう | 煩悩の林に遊びて神通を現じ、 |
入生死薗示応化 | にゅうしょうじーおんじーおーげー | 生死の薗に入りて応化を示す」といえり。 |
本師曇鸞梁天子 | ほんしーどんらんりょうてんしー | 本師曇鸞は梁の天子、 |
常向鸞処菩薩礼 | じょうこうらんしょーぼーさつらーい | 常に鸞の処に向にいて「菩薩」と礼したまえり。 |
三蔵流支授浄教 | さんぞうるーしーじゅーじょうきょーう | 三蔵流支、浄教を授けしかば、 |
焚焼仙経帰楽邦 | ぼんしょうせんぎょうきーらくほーう | 仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき。 |
天親菩薩論註解 | てんじんぼーさーろんちゅーげー | 天親菩薩の論を註解して、 |
報土因果顕誓願 | ほーどーいんがーけんせいがーん | 「報土の因果は誓願なり」と顕したまう。 |
往還廻向由他力 | おうげんえーこうゆーたーりーき | 「往還の廻向は他力に由る、 |
正定之因唯信心 | しょうじょうしーいんゆいしんじーん | 正定之因は唯信心なり。 |
惑染凡夫信心発 | わくぜんぼんぶーしんじんほー | 惑染の凡夫、信心を発しぬれば、 |
証知生死即涅槃 | しょうちしょうじそくねーはーん | 生死即ち涅槃なりと証知せしむ、 |
必至無量光明土 | ひーっしーむーりょうこうみょうどー | 必ず無量光明土に至れば、 |
諸有衆生皆普化 | しょうしゅーじょうかいふーけー | 諸有の衆生、皆普く化す」といえり。 |
道綽決聖道難証 | どうしゃくけっしょうどうなんしょう | 道綽は聖道の証し難きことを決し、 |
唯明浄土可通入 | ゆいみょうじょうどーかーつうにゅう | 唯浄土の通入す可きことを明す。 |
万善自力貶懃修 | まんぜんじーりきへんごんしゅー | 万善の自力、懃修を貶し、 |
円満徳号勧専称 | えんまんとくごうかんせんしょう | 円満の徳号、専称を勧む。 |
三不三信誨慇懃 | さんぷさんしんけーおんごーん | 三不・三信の誨、慇懃にして、 |
像末法滅同悲引 | ぞうまつほうめつどうひいーん | 像・末・法滅同じく悲引したまう、 |
一生造悪値弘誓 | いっしょうぞうあくちーぐーぜーい | 一生悪を造れども弘誓に値いぬれば、 |
至安養界証妙果 | しあーんにょうかーいしょうみょうかー | 安養界に至りて妙果を証せしむ」といえり。 |
善導独明仏正意 | ぜんどうどくみょうぶーっしょうーいー | 善導独、仏の正意を明かにし、 |
矜哀定散与逆悪 | こうあいじょうさんよーぎゃくあーく | 定散と逆悪とを矜哀して、 |
光明名号顕因縁 | こうみょうみょうごうけんいんねん | 光明・名号の因縁を顕したまう。 |
開入本願大智海 | かーいにゅうほんがんだーいちかーい | 「本願の大智海に開入すれば、 |
行者正受金剛心 | ぎょうじゃしょうーじゅこんごうしーん | 行者正しく金剛心を受け、 |
慶喜一念相応後 | きょうきいちねんそうおうごー | 慶喜一念相応の後、 |
与韋提等獲三忍 | よーいだいとうぎゃくさんにーん | 韋提と等しく三忍を獲、 |
即証法性之常楽 | そくしょうほっしょうしーじょうらーく | 即ち法性之常楽を証せしむ」といえり。 |
源信広開一代教 | げんしんこうかいいちだいきょう | 源信広く一代の教を開きて、 |
偏帰安養勧一切 | へんきーあんにょうかんいっさーい | 偏に安養に帰して一切を勧む。 |
専雑執心判浅深 | せんぞうしゅうしんはんせんじーん | 専・雑の執心に浅・深を判じ、 |
報化二土正弁立 | ほうけーにーどーしょうべんりゅう | 報・化二土正しく弁立したまう。 |
極重悪人唯称仏 | ごくじゅうあくにんゆいしょうぶーつ | 「極重の悪人は唯仏を称すべし、 |
我亦在彼摂取中 | がーやくざーいひせっしゅーちゅう | 我も亦の彼の摂取のの中に在れども、 |
煩悩障眼雖不見 | ぼんのうしょうげんすいふーけーん | 煩悩、眼を障えて見たてまつらずと雖も、 |
大悲無倦常照我 | だーいひむーけんじょうしょうがー | 大悲倦きこと無くして常に我を照したまう」といえり。 |
本師源空明仏教 | ほんしーげんくうみょうぶっきょう | 本師源空は仏教に明かにして、 |
憐愍善悪凡夫人 | れんみんぜんまくぼんぶーにーん | 善・悪の凡夫人を憐愍し、 |
真宗教証興片州 | しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう | 真宗の教・証を片州に興し、 |
選択本願弘悪世 | せんじゃくほんがんぐーあくせー | 選択本願を悪世に弘めたまう。 |
還来生死輪転家 | げんらいしょうじりんてんげー | 「生死輪転の家に還来することは、 |
決以疑情為所止 | けっちーぎーじょういーしょーし | 決するに疑情を以て所止と為す、 |
速入寂静無為楽 | そくにゅうじゃくじょうむーいーらーく | 速に寂静無為の楽に入ることは、 |
必以信心為能入 | ひっちーしんじんいのうにゅう | 必ず信心を以て能入と為す」といえり。 |
弘経大士宗師等 | ぐきょうだいじしゅうしとう | 弘経の大士・宗師等、 |
拯済無辺極濁悪 | じょうさいむへんごくじょくあーくー | 無辺の極濁悪を拯済したまう。 |
道俗時衆共同心 | どうぞくじしゅーぐどうしん | 道・俗・時衆、共に同心に、 |
唯可信斯高僧説 | ゆいかーしんしーこうそうせーつ | 唯斯の高僧の説を信ず可し。 |
これが浄土真宗の葬式や朝晩の勤行で読まれる正信偈の全文と、読み方です。
蓮如上人は、朝晩の勤行で『正信偈』を拝読することに定められましたので、もう何百年にも続いている浄土真宗の習慣です。
しかし、せっかく読んでいても『正信偈』に親鸞聖人が何を教えられているのか知らなければもったいないことになってしまいます。
『正信偈』にはどんなことが教えられているのでしょうか?
正信偈とは
『正信偈』の「偈」はうた、ということですので、『正信偈』は、正しい信心のうた、ということです。
「信心」とは、何かの宗教で神や仏を信じることだと思う人が多くありますが、親鸞聖人の教えられた信心は、そのような信心とはまったく異なります。
そもそも信心とは、心で何かを信じることです。
信じるというのは、頼りする、あてにするということです。
人は何かを信じなければ、生きてはいけません。
例えば、いつまでも元気でいられると、自分の健康を信じて生きています。
また、明日や一週間後の予定を立てています。
これは明日も生きていられると、自分の命を信じて生きているのです。
お金や財産、地位や名誉、妻や夫、子供など、家族を信じ、頼りにして生きています。
共産主義の人は、宗教を信じないといいますが、共産主義を信じています。
人は、何かを信じなければ生きていけない、ということは、何かの信心を持たなければ生きていけないということです。
ところが私たちは、その信じていたものに裏切られたときに、苦しまなければなりません。
信心が崩れたときに、苦しむということです。
仏教では諸行無常と教えられるように、この世は無常の世界ですから、一切は移り変わっていきます。
ですから、どんな信心も、やがて裏切られるのではないかと不安になります。
心からの幸せにはなれないのです。
私たちは、幸福を求めて生きているのですから、一体何が私たちを幸せにするのか。
真実の信心を教えられたのが、親鸞聖人です。
ところが、真実の信心は、2つも3つもありません。
真実はただ1つです。
「正しい」という漢字は、一つに止(とど)まると書くように、一つしかないものです。
その私たちを本当の幸福にするたった一つの真実の信心を、親鸞聖人は、「正しい信心」といわれています。
すべての人は、変わらない幸福を求めて生きていますから、全人類が求めてやまない信心です。
その正しい信心を獲得することが、私たちの生きる目的であり、本当の生きる意味なのです。
その私たちをこの世も未来も変わらない幸せにする信心を、親鸞聖人が明らかにされたのが『正信偈』なのです。
その正しい信心とはどんなことかは、最初の2行と最後の2行にすべて表れています。
正信偈の最初の2行の意味
正信偈の最初には、このように書かれています。
帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)
南無不可思議光(なむふかしぎこう)
これは、「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」と読みます。
これは親鸞聖人ご自身のことを言われたことですから、親鸞は無量寿如来に帰命いたしました、親鸞は不可思議光に南無いたしました、ということです。
まず「無量寿如来」とは、「不可思議光」と同じで、阿弥陀如来のことです。阿弥陀仏ともいいます。
阿弥陀仏という仏様は、たくさんのお名前を持っておられるということです。
それは阿弥陀仏が色々のお徳を持っておられるからです。
お徳というのは、働きとか力のことです。
本名は「阿弥陀如来」ですが、次によく言われるのが「無量寿如来」です。
「無量寿」とは寿命に限りがないということです。「如来」は仏のことですから、無量寿仏ともいわれます。
その次が「不可思議光如来」です。「光」とは仏様の力を光で表されますので、不可思議光如来とは、想像もできない大きな不思議なお力を持たれた仏様ということで、不可思議光如来とか不可思議光仏といわれます。
ですから、「無量寿如来」も「不可思議光」も阿弥陀仏のことです。
次に、「帰命」と「南無」も同じ意味です。
「帰命」は昔の中国の言葉、「南無」は昔のインドの言葉です。
仏教はインドでお釈迦さまが説かれました。それがやがて中国を経て日本に伝わりましたので、仏教の言葉には、インドの言葉も中国の言葉も遣われます。
では日本の言葉でいうとどんな意味かというと、救われた、助けられたという意味です。
ですから親鸞帰命したぞ、南無したぞ、というのは、親鸞救われたぞ、助けられたぞ、ということです。
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつるというのは、親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ、親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ、と同じことを2回繰り返されているのです。
なぜ同じことを2回繰り返されているのかというと、何回言っても言い足りない、何回書いても書き足りない、言っても言ってもまだ言いたいというお気持ちを2回繰り返されて表されているのです。
親鸞聖人がどんなに阿弥陀如来に救い摂られたことが嬉しかったか、阿弥陀如来に助けられたことを叫ばずにはいられなかったかが分かります。
私たちも、夕食を食べようとしたら、ぱっと電気が消えて、停電になったとします。
5分待っても10分待っても光が来ない、1時間待っても2時間待っても、光が来ない、今日はもう夕食なしで寝ようかと思っていた所へ、パッと電気がついたとします。
すると、「ついた、ついた、ついた」と同じことを何回も言わずにはいられません。
それは、長い間待っていた光が来たからです。
親鸞聖人が『正信偈』の最初に救われたぞ、助けられたぞ、と繰り返しておられるのは、いかに親鸞聖人が阿弥陀仏の救いを求めておられたか、長い間苦しみながら探し求めておらたれことが満足できたのか、ということです。
どれだけ言っても言っても言い尽くせない喜びと満足を、『正信偈』の最初の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の2行に表されているのです。
それだけ阿弥陀仏に救われた喜びが大きいということです。
どれだけ叫んでも叫んでも、これで満足だ、これで終わったということのない喜びです。
親鸞聖人は、このようになれたのも、阿弥陀仏のお力であった、阿弥陀仏のおかげであったと言われています。
親鸞聖人はなせ阿弥陀仏に救われたと言われているのでしょうか?
仏教の教えとは
仏教とは、約2600年前、インドに表れたお釈迦さまの説かれた教えです。
お釈迦さまは、80年の生涯、何を教えられたのかというと、今日一切経経七千余巻といわれるたくさんのお経に書き残されています。お釈迦さまの教えはその中に全部記録さています。
七千余巻のお経があるから、七千以上のことを仏教に教えられているのかと思いますが、実は仏教には、たった一つのことしか教えられていないのです。
親鸞聖人は、お釈迦さまの七千余巻の一切経を何回も何回も読まれて、『正信偈』にこのように教えられています。
如来所以興出世(にょらいしょいこうしゅっせ)
唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)
これは、「如来、世に興出したまう所以は、ただ弥陀の本願海を説かんがためなり」と読みます。
「如来」とはお釈迦さまのことです。
お釈迦さまが、「世に興出された」というのは、地球上に現れたということです。
「所以」とは目的のことですから、お釈迦さまが地球上に現れて、仏教を説かれた目的は、ということです。
釈迦一代の教えは、どんなことを教えられたのかというと、次に、「唯説」であったと言われています。
「唯説」とは、2つも3つもない、ただ一つのことを説かれた、ということです。
こんな断言は、一切経全部を正しく理解しなければできません。
親鸞聖人は一切経を何度も読み破られて、自信を持って教えられているのです。
ですから、そのただ一つのことを知れば、仏教全部知ったことになります。
そして、世界の三大聖人といわれるお釈迦さまが、一生涯ただ一つのことを教えられたということは、非常に大事なことだと分かります。
すべての人にとって、これ以上大事なことはありません。
「弥陀」とは阿弥陀仏のことですので、阿弥陀如来の本願一つを教えられたということです。
本願とはお約束のことですので、それを海にたとえて、海のように広くて深い、阿弥陀如来の本願一つをお釈迦さまは教えていかれたのだと親鸞聖人は明らかにされています。
阿弥陀仏というのは、大宇宙にたくさんおられる仏様の、先生の仏です。
蓮如上人は、『御文章』にこのように教えられています。
弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり
(御文章2帖目8通)
地球上に現れた仏さまは、お釈迦さまただ一人ですが、大宇宙には地球のようなものが、数えきれないほどありますから、大宇宙には仏様が数え切れないほどおられます。その大宇宙の仏を「十方諸仏」といいます。
その十方諸仏の本師本仏が阿弥陀如来であるとおしえられています。
「本師本仏」とは、「本師」も「本仏」も先生のことですから、大宇宙の仏方の先生の仏が阿弥陀仏ということです。
ですから、大日如来も薬師如来も、奈良の大仏は毘盧遮那如来という仏様ですが、みんな阿弥陀仏のお弟子です。
地球上に現れたお釈迦さまも大宇宙の仏の一仏ですから、阿弥陀仏のお弟子です。
地球上に現れたお釈迦さまが、先生である阿弥陀如来の本願一つを教えられたのが仏教なのです。
29歳で救われた親鸞聖人
親鸞聖人は、4歳でお父さんを亡くされ、8歳でお母さんを亡くされ、「次に死ぬのは自分の番だ、死んだらどうなるのだろう」と自分の死に驚かれました。
この死んだらどうなるかの一大事を後生の一大事といいます。
何とかこの後生の一大事を解決したいと、親鸞聖人は9歳のときに出家され、比叡山で天台宗の血のにじむような修行に20年間打ち込まれました。
それでも、後生暗い心の晴れなかった親鸞聖人は、迫り来る無常に居ても立ってもおれず、29歳のときに泣く泣く山を下りられて、法然上人から阿弥陀如来の本願を聞かれるようになりました。
それから真剣に雨の日も風の日も阿弥陀如来の本願を聴聞し、29歳のときに、一念で後生明るい心に救い摂られたのです。
その阿弥陀如来の本願に救い摂られ、死によっても崩れない絶対の幸福になられた喜びを、親鸞聖人は、『正信偈』に「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ、親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」と言われているのです。
これを「信心決定」といいます。
その叫んでも叫んでも叫び尽くすことのできない喜びの身に親鸞聖人はなられたので、親鸞聖人はこの後『正信偈』に、親鸞はどうしてこんな幸せな身になれたのか、教えられているのです。
(その一行一行の意味については、こちらの「正信偈.com」に書いておきました。
また、浄土真宗の8代目の蓮如上人が『正信偈』をおおまかに解説された『正信偈大意(しょうしんげたいい)』もあります)
そして親鸞聖人は、『正信偈』の最後はこう結ばれています。
正信偈の目的
道俗時宗共同心(どうぞくじしゅうぐどうしん)
唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ)
これは「道・俗・時宗、共に同心に、唯、この高僧の説を信ずべし」と読みます。
この『正信偈』の最後の2行は、親鸞聖人が『正信偈』を書かれた目的を言われている所です。
「道俗」の「道」とは、僧侶のことです。
僧侶というのは、寺に住んでいますが、田んぼや畑を作るためではありません。
仏教を伝える為に寺にいるのです。
「俗」とは、在家の人です。人それぞれ仕事をして、お金や財産、地位、名誉を信じて生きています。
しかし、後生の一大事も知らなければ本当の生きる意味も知りませんから、信じては裏切られ、信じては裏切られを繰り返して、最後はすべてに裏切られて死んで行かなければなりません。
そのような仏教を聞く立場の人のことです。
ですから「道俗」で、仏教を説く人と聞く人です。これですべての人です。
「時衆」とは、その時その時ご縁があって集まられた人たちということです。
実際の参詣者です。
ですから「道俗時衆」ですべての人です。
阿弥陀如来の本願に救われて、絶対の幸福になられた親鸞聖人は、正しい信心を知らずに苦しみ悩むすべての人に呼びかけられているのです。
何を訴えておられるのかというと、「共に同心に」といわれています。
この親鸞と共に、親鸞と同じ心になってもらいたい、ということです。
親鸞聖人と同じ心とはどんな心かというと、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」、と『正信偈』を書き始めてからずっと、親鸞はどんな心に救われたかここまで書いてきた。だからその親鸞と同じ心になってくれ、ということです。
親鸞聖人と同じ心になれるのかというと、それは自分の力ではなく、阿弥陀仏のお力ですから、阿弥陀如来の本願に救われれば、まったく同じ心になれるのです。
ではどうすればいいのかというと、次に「唯この高僧の説を信ずべし」といわれています。
その道はただ一つしかないので、「唯」といわれています。
「この高僧の説」とは、親鸞聖人が『正信偈』にここまで書いてこられた、インド、中国、日本の7人の仏教の先生方のお名前をあげて、一貫して説かれている、いつの時代、どこの国でも変わらない、時空を超えた真実の教えを明らかにされています。
その真実の仏教を信じて進みなさいよ、一日も早く絶対の幸福になりなさいよ、と言われているのです。それが親鸞聖人が『正信偈』を書かれた目的なのです。
ではどうすれば、絶対の幸福になれるのかという真実の仏教の本質は、小冊子とメール講座にまとめておきましたので、今すぐ以下からご覧ください。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能。