末代無智の章の意味
末代無智の章は、『御文章』5帖目の第一通です。
5帖目は、蓮如上人がいつ書かれたのか分からない、年代不明のお手紙が集められています。
その第一通目の末代無智の章には、
現代人の私たちが向かうべき方角はどこなのか。
本当の幸せに救われたらどうなるのかが簡潔に教えられています。
一体どんなことを書かれているのでしょうか?
御文章5帖目1通 末代無智
末代無智の章は、聖人一流の章と並んで簡潔なお手紙です。
このように書かれています。
末代無智の在家止住の男女たらん輩は、心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、更に余の方へ心をふらず、一心一向に、「仏助けたまえ」と申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来は救いましますべし。
これ即ち第十八の念仏往生の誓願の意なり。
かくの如く決定しての上には、寝ても覚めても命のあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。
これは一体どんな意味なのでしょうか?
現代人の私たちの姿
最初の「末代無智の在家止住の男女たらん輩」というのは
「末代」というのは、末法の時代のことです。
末法の時代というのは、お釈迦さまが亡くなられてから1500年経った時代のことですから蓮如上人の時代も末法ですし、現代も末法です。
お釈迦さまは、末法の時代になると悟りを開く人は誰もいなくなると多くのお経に予言されています。
たとえば『大集経』にはこのように教えられています。
我が末法の時の中の億億の衆生、行を起し道を修せんに、未だ一人も得る者有らず。
(大集経)
そんな悟りを開く人が誰もいなくなった末法の時代を蓮如上人は、「末代」といわれています。
次の「無智」というのは、知識が少ないとか、頭が悪いということではありません。
次の5帖目2通の八万の法蔵では、こう教えられています。
「八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす」
「八万の法蔵」とはお釈迦さまの説かれたすべてのお経、一切経のことです。
一切経を丸暗記しているような学者であっても、後世を知らない人を愚者といわれています。
後世というのは、後生のことで、死んだらどうなるか、ということです。
なぜ死んだらどうなるか分からない人が愚者なのかというと、死は100%確実な未来だからです。
自分が確実に行く先なのに、どこに行くか分からないというのは愚かです。
必ずぶち当たるのに真っ暗な中を全力疾走しているようなものです。
たとえどんなに物知りでも、自分の行く先を知らない。
だから何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのか、
本当の生きる目的も分からない人を無知な人といわれています。
「在家止住の男女たらん輩」とは在家の人のことです。
「在家」の「家」というのは、煩悩の象徴です。
欲や怒りやねたみそねみから離れられない、私たちのことを「在家止住の男女たらん輩」といわれています。
ですから、「末代無智の在家止住の男女たらん輩」というのは、必ず死ぬのに本当の生きる目的を知らず、どう生きるかという生き方ばかり考えて生きている現代の私たちのことです。
そんな私たちは、一体どうすればいいのでしょうか?
向かうべき方角
親鸞聖人は、私たちの人生を難度海といわれています。
難度海とは、わたるのが難しい海ということです。
苦しみ悩みの波が次から次とやってくる苦しい海なので、「苦海」ともいわれています。
すべての人は、生まれた時に、太平洋の真ん中に放り込まれたようなものです。
とりあえず泳がないと沈んでしまうので、みんな一生懸命泳ぎます。
ですが周り中、海と空しか見えない大海原で、どこへ向かっていいのか分かりません。
それが本当の生きる目的が分からないということです。
ですが、いつまでも泳ぎ続けられるわけではありません。
目的もなしに泳いでいたら、土左衛門になってしまいます。
ところが、私たちは、必ず土左衛門にならなければならないのに、どう泳いだらいいかという泳ぎ方ばかり考えて、どこへ向かって泳げばいいのか考えていません。
それは、生きる目的を考えず、生き方ばかり考えているということです。
そして、苦しみ悩みの人生の荒波にもまれて苦しんでいます。
そんな難度海の人生で苦しんでいる私たちに、親鸞聖人は、難度海を明るく楽しく渡す大きな船があると主著の『教行信証』の最初にこう教えられています。
難思の弘誓は難度海を度する大船
(親鸞聖人『教行信証』)
「度する」というのは、明るく楽しく渡すということです。
では、難度海を明るく楽しく渡す大きな船とは何なのかというと、
難思の弘誓は難度海を度する大船。
「難思の弘誓」であるといわれています。
「難思の弘誓」とは阿弥陀如来の本願のことです。
阿弥陀如来の本願については、以下のページに詳しく解説してあります。
→阿弥陀如来の本願とは
簡単にいえば、阿弥陀如来という仏さまがなされているお約束のことです。
どんなお約束をされているかというと、このようにお約束をされています。
どんな人も
必ず助ける
絶対の幸福に
絶対の幸福に助けるというのは、死んだらどうなるか分からない後生暗い心を、後生明るい心にするということです。
死んだらどうなるか分からない後生の一大事を解決して、絶対の幸福にしてみせるということです。
絶対の幸福は、死が来ても崩れない絶対変わらない幸せです。
『歎異抄』では無碍の一道ともいわれています。
この阿弥陀如来の本願に救われて、絶対変わらない絶対の幸福になるのが本当の生きる目的だと教えられているのが親鸞聖人です。
それで親鸞聖人の教えを正確に伝えられた蓮如上人は、次にこう教えられています。
心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて
心を一つにして、阿弥陀仏に助けてもらいなさい、ということです。
「たのむ」というのはお願いするという意味ではありません。
救われるということで、助けて頂くということです。
親鸞聖人の難度海のたとえでいえば、
あそこに大きな船があるから、
あそこに向かって一心不乱に泳げということです。
これは、お釈迦さまが教えられていることです。
お釈迦さまは、『大無量寿経』にこう教えられています。
一向専念無量寿仏
(大無量寿経)
「無量寿仏」とは阿弥陀仏のことです。
「一向」とは、阿弥陀仏一つに向きなさい。
「専念」とは、阿弥陀仏を専ら信じなさい。
阿弥陀仏一仏に一向専念しなさい、ということです。
これは仏教の結論です。
もしこの世にお釈迦さまが現れなければ、太平洋の真ん中で溺れ苦しんでいる私たちは、
どこへ向かって泳げばいいのか分かりませんでした。
そんな私たちに、お釈迦さまは、
「一向専念無量寿仏」
あそこへ向かって泳ぎなさい
と教えられているのです。
決して心を他へ向けない
次に「更に余の方へ心をふらず」というのは、決して他へ心を向けてはならない。
大宇宙にたくさんの仏がいるけれど、一心一向に阿弥陀如来へ向かえとおっしゃっています。
なぜなら、阿弥陀仏以外の仏は、出家して修行ができた人しか助ける力がないからです。
末法の今日、後生の一大事を解決できる力があるのは、阿弥陀仏だけですから、
それでお釈迦さまは、「一向専念無量寿仏」
阿弥陀仏一つに向かって、阿弥陀仏に助けてもらいなさい、と教えられているのです。
あの人も好き、この人も好きというのでは二心があります。
心が二つの間をゆれています。
「こっちは、この点はいいけどこの点はよくない。
こっちは、この点はいいけどこの点はよくない。
どっちにしようかな」
こういうのは、心を一つにしているとはいえません。
心を一つにして、阿弥陀仏だけを信じよ。
これは後生の一大事があまり問題になっていない時は、簡単にできるようにも思いますが、仏教を聞いて後生の一大事の重さが知らされるほど、なかなか一つにならないことが知らされます。
年末までに一千万円用意しなければ一家心中しなければならない。
A銀行に行ったら、
「いいですよ、では31日までに用意しましょう」
といわれます。
そうすると不安になってくるのでB銀行にも行きます。
これはA銀行を疑って、信じていないからです。
A銀行が一千万円用意してくれて大安心したら、B銀行には行きません。
後生の一大事が知らされると、なかなか心が一つになりません。
それが心一つになります。
どんな人も救われる
それが一心であり、一心一向です。
蓮如上人は、こういわれています。
一心一向に、「仏助けたまえ」と申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来は救いましますべし。
これ即ち第十八の念仏往生の誓願の意なり。
「一心一向」というのは、お釈迦さまのお言葉でいえば「一向専念」と同じです。
一向専念無量寿仏になった人のことを「一心一向に、『仏助けたまえ』と申さん衆生」といわれています。
これは単に阿弥陀如来は助けてくだされるんだと信じて「助けてください」と言った人ではありません。
阿弥陀如来のお力によって死んだらどうなるか分からない後生暗い心を断ち切られた人です。
本当の生きる目的がハッキリした人です。
一向専念無量寿仏になった人は、「たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来は救いましますべし」といわれています。
どんなに罪が深く重くても、必ず阿弥陀如来は絶対の幸福に助けてくだされるといわれています。
なぜなら「これ即ち第十八の念仏往生の誓願の意なり」といわれています。
「第十八の念仏往生の誓願」とは阿弥陀如来の本願のことです。
阿弥陀仏は、「どんな人も必ず絶対の幸福に助ける」とお約束されていますので、
どんなに罪が重くても、絶対の幸福に救われるのです。
これを信心決定とも
信心獲得ともいいます。
では、絶対の幸福に救われたらどうなるのでしょうか?
救われたらどうなるか
救われたらどうなるのかについて、蓮如上人は次に
「かくの如く決定しての上には、寝ても覚めても命のあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」
といわれています。
「かくの如く決定しての上には」とは、このように信心決定したならば、阿弥陀如来に助けて頂いたならば、ということです。
「称名念仏」というのは、南無阿弥陀仏と称えることです。
これは絶対の幸福に助けてくだされた阿弥陀如来へのお礼の言葉です。
お礼の言葉にも色々あります。
アメリカ人には「サンキュー」
フランス人には「メルシー」
ロシア人には「スパシーバ」
中国人には「謝謝」
お隣さんにぼた餅もらったら「ありがとう」
阿弥陀如来には南無阿弥陀仏です。
阿弥陀仏に助けて頂くと、お礼の念仏を称えずにおれなくなってきますので、「寝ても覚めても」といわれています。
「寝ても覚めても」というのは、寝ている間は、意識がありません。
ですが、絶対の幸福は、死んでも崩れませんから、もちろん寝ている間も崩れません。
永遠に変わらない幸せですので、お礼を言わずにおれない心も、寝ている間もあります。
これは意識の問題ではありません。
腹底にずっと流れているのです。
ではいつも覚えているのかというと、折にふれ縁にふれて南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と思い出され、深き仏恩にどう報いようかと泣かされます。
それで、信心決定したならば、寝ても覚めても命のある限り念仏を称えるべきである、と教えられています。
このように、この末代無智の章には、浄土真宗の教えを漢字8字で表された「信心正因 称名報恩」が簡潔に明らかにされているのです。
お礼の念仏とは
ちなみに、この寝ても覚めても念仏を称えるというのは、ただ念仏を称えているだけだと思ったら大間違いです。
善導大師は、一番のご恩返しについてこのように教えられています。
大悲を伝えて普く化す。真に仏恩を報ずるに成る。
「大悲」とは阿弥陀如来の本願のことです。
阿弥陀如来の本願を伝えて、一人でも多くの人を阿弥陀如来の救いまで導くことが、「真に仏恩を報ずるに成る」といわれています。
「真に」というのは、一番のということです。
阿弥陀如来の本願を伝える以上のご恩返しはないということです。
生きている時に、常行大悲の益を頂いて、伝えずにはいられない心が、寝ても覚めても念仏称えずにおれない心です。
蓮如上人が、一人静かに念仏ばかり称えておられたとすれば、現在、浄土真宗が日本の仏教の最大宗派になっているということはありません。
蓮如上人が43歳で本願寺を継がれた時には3間四方だったのが、85歳でお亡くなりになるまでに、現在の浄土真宗二千万門徒二万カ寺の基礎を築かれたのです。
寝ても覚めても念仏称えずにおれない心が、いかにすさまじい布教活動になったかが知らされます。
阿弥陀如来の本願に救われれば、身を粉にして骨を砕いてもご恩に報いずにおれない恩徳讃の気持ちが起きる、すばらしい幸せになれるのです。
この阿弥陀如来の本願に救われるには、苦しみの根元を知って、それを断ち切らなければなりません。
その苦しみの根元とは何か、どうすれば断ち切れるのかについては、浄土真宗の本質ですので、以下の講座をご確認ください。
浄土真宗の本質を学ぶ
浄土真宗の教えの本質、苦しみの根元をメール講座にまとめました。
詳しくは以下のページで確認してください。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能。