「現代人の仏教教養講座」

 

「浄土真宗」入門講座

浄土真宗の大切な所をわかりやすく解説

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生きる意味を、知ろう。

人生は夢幻のようなもの

人の命はいつまで続くか分かりません。
子供でも死んでいくことがあります。
蓮如上人のお弟子や御門徒が子供をなくした時、蓮如上人は、お手紙を書かれています。
それが『御文章』1帖目11通「電光朝露・死出の山路」です。
一体どんなことを書かれているのでしょうか?

御文章1帖目12通 電光朝露・死出の山路

文明5年、蓮如上人59歳の時の9月のことでした。
上人のお弟子の中にも、門徒の中にも、かわいい子供を亡くして悲しみにくれる人がありました。
彼等に出されたお手紙が『御文章』1帖目11通です。
そこにはこのように書かれていました。

それおもんみれば、人間はただ電光・朝露の夢・幻の間の楽ぞかし。
たといまた栄華・栄耀に耽りて思うさまの事なりというとも、それはただ五十年乃至百年のうちの事なり。
もし只今も無常の風きたりて誘いなば、いかなる病苦にあいてか空しくなりなんや。
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一も相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。
これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思うべきなり。

これは一体どういう意味なのでしょうか?

人生はどの位の長さ?

それおもんみれば」とは、さて思いみればということで、さて考えてみると、ということです。
人間はただ電光・朝露の夢・幻の間の楽ぞかし」とは、
人間」は、私たちが生まれてから死ぬまでの一生です。
平均80年から人生100年といわれると、とても長いと思います。
その長い一生の間に、誰かを好きになったとか、嫌われたとか、
他人との競争に負けて悔しいとか、
色々なことがあります。
ところがそれはこんな、電光のようなもの。
電光というのは稲光です。
一瞬光って振り向くと見えない。
朝露というのは、夏の朝、キラリと輝くけれども、日が昇る頃には消えている。
ほんの少しの時間しか持たないもの。
みんな朝露のように儚く、夢や幻のように、あっという間に消えていく楽しみだということです。

楽しいこともあるよ

でも楽しいこともあるよ」という人に対して、蓮如上人はこう言われています。
たといまた栄華・栄耀に耽りて思うさまの事なりというとも、それはただ五十年乃至百年のうちの事なり
どんなに思い通りになったとしても、それはたかだか50年か100年のことだ、ということです。

何でも思いのままになることはなかなかありませんが、たまにいます。
例えば藤原道長です。
平安時代に摂関政治で日本の政治を牛耳っていた藤原道長は、こんな歌を歌いました。

この世をば 我が世とぞ思う 望月の
 欠けたることの なしと思えば

満月の欠け目がないように、この世は何でも自分の思い通りになる、ということです。

そんな藤原道長もまもなく病にたおれます。
すると道長は死んで地獄に堕ちる夢をたくさん見て、
死んだらどうなるのかということが怖くてたまらなくなりました。
そこで家来達に死んだらどうなるか聞いたそうです。
みんな
そりゃあんたは地獄行きでしょうよ
とは言えないので、
もちろん極楽に生まれるに間違いありません
と口をそろえていいます。
ですが、本人はそんな言葉では不安がなくなりません。
最後は阿弥陀如来の仏像と自分を結びつけて
どうか極楽へ連れて往ってください
と願いながら死んで行きました。
死んでいく時には、
どんなにお金があっても、
地位が高くて権力があっても、
何の役にも立たない
のです。

この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることなしと思っていたのも
50年から100年の間でしかなかったという寂しい人間の姿が
まざまざと浮き彫りになったのでした。

無常の風が吹いたら

次の「もし只今も無常の風きたりて誘いなば、いかなる病苦にあいてか空しくなりなんや
というのは、「無常」というのは常がないということで、続かないということです。
私たちの人生でもっとも大きな無常は自分が死ぬことです。
ですから「無常」といえば「」のことです。
それを風にたとえられて「無常の風」といわれています。
風は目には見えませんが、猛烈な勢いで襲ってきて家を吹き飛ばします。
無常も、目には見えませんが突然襲ってきて、命の火が吹き消されてしまうので、風にたとえられています。

一たび無常の風が吹いたならば、突然どんな病気にかかってあっという間に死んでしまうか分かりませんから、
もし只今も無常の風きたりて誘いなば、いかなる病苦にあいてか空しくなりなんや
といわれているのです。
この目に見えず、いつ来るか分からないというのが、死のやっかいな性質の一つです。

いよいよ死んでいく時は

次に「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一も相添うことあるべからず
といわれています。
まことに死せんときは」とは、いよいよ死んで行く時は、ということです。
死なない人は誰もありませんので、死は100%確実な未来です。
これから必ずまことに死せん時がやってきます。
その時にはどうなるかというと
かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一も相添うことあるべからず
と教えられています。

たのむ」というのは、頼りにするとか、心の支えにする、心の明かりにする、生きる希望にする、生きがいにする、という意味です。
かねてたのみおきつる妻子も財宝も」というのは、今まで頼りにしたり、心の支えにしたり、生きる希望にしてきた妻や子供などの家族や、お金や財産のことです。
それだけではありません。
今まで人生をかけてやってきた仕事も、多くの犠牲を払って築き上げた地位も、ひそかに楽しんでいた趣味も、生きる希望にしてきたものすべてが入ります。
それらの趣味や生きがいは、
わが身には一も相添うことあるべからず
といわれています。
死んでいく時には、何一つ持ってはいけません。
必死にかき集めたお金も一円も持ってはいけませんし、
愛する家族も誰一人ついてはきてくれません。
命を削って努力して、人生と引き換えに手に入れたものですが、
それらはすべてこの世に置いていかなければならないのです。

されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ
というのは、お金も財産も、地位も名誉もすべてを置いて、たった一人で死出の旅路へと旅立っていかなければならない、ということです。
それが人生だとすれば、一体何のために生きてきたのでしょうか。
それについて次に教えられています。

夢のような人生ですべきこと

このような夢のように消えてしまう儚い人生で、一体何をすればいいのでしょうか。
それについて蓮如上人は、こう教えられています。
これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思うべきなり

人生では、その時その時、色々なトラブルが起きてきます。
どんな学校に行って何を勉強するのか。
どんな仕事に就いて生きていくのか。
誰と結婚してどんな家庭を築くのか。
いずれも生きていく上で大事なことです。
ところがそれは、稲妻が光るように瞬きする間に過ぎていくことです。

それよりも、命の火が消えて旅立っていく後生は永遠の未来です。
後生というのは死んだらどうなるかということですが、 50年か100年のあっという間に終わる人生よりも、永遠の後生のほうが大変な一大事だということです。
この死んだらどうなるかの一大事を後生の一大事といいます。

この後生の一大事を解決すれば、この世から未来永遠の幸せになれるから、命のある間に後生の一大事を解決しなさいと教えられたのが仏教であり、親鸞聖人の教えです。
仏教の目的は、後生の一大事を解決して、変わらない幸せになることなのです。

ではどうすれば後生の一大事を解決できるのかというと、阿弥陀如来のお力によってのみ解決できるので、阿弥陀如来のお力で後生の一大事を解決して頂くことを「弥陀をたのむ」ともいいます。
これをまた信心決定ともいいます。

そして生きている時に信心決定して、後生の一大事を解決すれば、死ねば阿弥陀如来の極楽浄土へ往って、仏に生まれることができます。
安養の浄土」とは阿弥陀如来の浄土のことですから、早く信心決定して浄土へ生まれる身になりなさいというのが、
信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思うべきなり
ということです。

このように蓮如上人は、人間に生まれた目的は、死んでいく時に置いていかなければならないお金や財産、地位、名誉を手に入れることではない。
後生の一大事を解決して、この世から未来永遠の幸福になることだとお手紙でも教えられているのです。

この後生の一大事を解決するには、後生の一大事を引き起こす、苦しみの根元を知って、それを断ち切らなければなりません。
その苦しみの根元とは何か、どうすれば断ち切れるのかについては、浄土真宗の本質ですので、以下の講座をご確認ください。

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詳しくは以下のページで確認してください。

著者紹介

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生おさなみみずき

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。

仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能