御臨末の御書(親鸞聖人のご遺言)
『御臨末の御書(ごりんまつのごしょ)』は、親鸞聖人が90歳でお亡くなりになるときに言い残されたお言葉です。
親鸞聖人のご遺言ということになります。
浄土真宗を明らかにされ、今日世界の光といわれる親鸞聖人はご臨終にどんなことを言い残されたのでしょうか?
目次
御臨末の御書の全文
まず、こちらが親鸞聖人が最期に言い残された『御臨末の御書』のお言葉です。
我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり。
我なくも 法は尽きまじ 和歌の浦
あおくさ人の あらんかぎりは
この意味をよく理解するには、親鸞聖人が90年のご生涯、どんなことを教えて行かれたかを知らなければなりません。
親鸞聖人は一生涯、どんなことを教えて行かれたのでしょうか?
親鸞聖人が90年間教えられたこと
親鸞聖人が一生涯教えて行かれたことを、一言でいうと、「平生業成(へいぜいごうじょう)」です。
「平生業成」の「平生」とは、死んだ後ではない、生きている時、ということです。
「業」とは、人生の大事業のことです。
人生これ一つという生きる目的であり、本当の生きる意味です。
「成」とは、完成であり、達成のことです。
すべての人は、この目的一つ達成するために生まれてきたのだ。
この大事業を完成するために生きているのだ、と親鸞聖人は教えられています。
生きるということを、飛行機が飛んで行くことにたとえると、一番大事なことは、どこへ向かって飛ぶのかという目的地です。
その目的地が決まって、そこまでどう飛ぶかという飛び方が決まります。
目的地によって、低空飛行をする場合もあれば、成層圏を飛ぶ場合もあります。
目的地へ行く途中に台風があった場合は、どういう飛び方をすればいいのか、乱気流があった場合はどう飛べばいいのかが大事になります。
私たちが生きる時でも、一番大切なのは、どこへ向かって生きるかという生きる目的です。
どこへ向かって飛べばいいのかは、政治も経済も科学も医学も全く教えてくれません。
快適に生きるにはどうすればいいか、少しでも長く生きるにはどうすればいいか、という生き方を教えるのが、政治や経済、科学や医学です。
苦しくても頑張って生きねばならないのはなぜか、生きる意味は答えてくれません。
ところが、どんなに頑張って生きていても、いつまでも生きられるわけではありません。
飛行機でいえば、どんなに頑張って飛んでいても、燃料が切れる時が来ます。
その時、目的地を知らず、周り中海また海で降りるところがなければ、海の中に墜落して行くだけです。
何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、生きる目的を知らないで生きるのは、降りる所のない飛行機に乗っている人と同じです。
目的地のない飛行機に乗っている不安は、そのまま目的なしに生きる不安です。
どんなに科学が進歩しても、経済が発展しても、好きなことをやって、自由な生き方をしても、心からの安心も満足もないのは、本当の生きる目的を知らないからなのです。
では親鸞聖人はその生きている時に完成できる人生の大事業をどのように教えられているのでしょうか?
本当の生きる意味は?
親鸞聖人は、人生の大事業はただ一つ、後生の一大事を解決して、絶対の幸福になることだと教えられています。
絶対の幸福とは、変わらない幸せのことで、『歎異抄』には「無碍の一道」といわれています。
絶対の幸福になるには、後生の一大事を解決するしかありませんので、地球上に何十億の人があっても、人間に生まれてきた目的は、後生の一大事の解決一つであり、後生の一大事の解決を果たすことが、本当の生きる意味なのだと親鸞聖人は明らかにされているのです。
後生の一大事というのは、飛行機でいえば、必ず燃料が切れて、降りて行かなければなりません。
後生とは、その燃料が切れたらどうなるか、ということです。
その死んだらどうなるかという死後の世界のことを後生といいます。
永遠に生きられる人はありませんから、死と関係のない人はありません。
死んだらどうなるかは、万人共通の大問題です。
後生の一大事の一大事とは、取り返しのつかない大変なことですが、死んだあとに、大変な一大事が引きおこることを後生の一大事といいます。
では、どんな一大事が起きるのかというと、お釈迦さまは「必堕無間(ひつだむけん)」と教えられています。
これは「必ず無間に堕つる」と読みます。
「無間」とは、無間地獄のことです。
地獄とは、苦しみの世界のことです。
無間というのは、休む間がないということで、休む間のない苦しい世界を無間地獄といいます。
最も苦しみの激しい世界です。
飛行機でいえば、飛び立った飛行機は、やがて燃料が切れて、海の中に墜落していくことが、後生の一大事ということです。
飛行機に乗っている人にとって、これ以上の一大事はありません。
永遠に飛び続ける飛行機はありませんので、必ず落ちるのです。
この万人共通の大問題の解決が、人生の大事業だと親鸞聖人は教えられています。
生きる目的は人それぞれ?
そう聞くと、「生きる目的は人それぞれだよ」という人があります。
ところが、生きる目的は人それぞれと言う人が目的だと思っているのは、趣味や生きがい、仕事のような、生き方のことです。
確かに生き方は人それぞれです。
しかし、生き方には、完成はありません。
趣味も生きがいも、仕事もどこまで行ってもきりがありません。
目の前の目標を達成すると、一時的には喜べますが、すぐに慣れてしまってワンランク上を目指したくなります。
死ぬまで求め続けなければなりません。
どんなに頑張っても、どこまで行っても、心からの満足はないのです。
それに対して、親鸞聖人の教えを「平生業成」といわれるように、後生の一大事の解決には完成があります。
平生業成の「成」というのが、完成がある、達成がある、ということです。
完成や達成のないものは、目的とはいえません。
万人に共通して完成のある生きる目的は、後生の一大事の解決です。
もし万人共通の生きる目的が趣味や生きがい、仕事などだとすれば、それらは人それぞれですから、できる人もいれば、できない人もあります。
もし仕事が生きる目的なら、生まれた時から身体に重大な障害を持った人は働けませんから、「そんな人には生きる意味はないんですか?」ということになってしまいます。
それに対して後生の一大事の解決は、どんな人でも解決できます。
そして、これ一つ果たせば、絶対の幸福になれますから、後生の一大事の解決が、万人共通唯一の本当の生きる目的なのです。
本当の生きる目的達成の瞬間
生きているときに、後生の一大事を解決するとはどんなことかというと、無碍の一道へ出て、絶対の幸福になることです。
後生の一大事は、だんだん解決されるのではありません。
一念の瞬間に解決できます。
親鸞聖人はこのように教えられています。
それ真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり。
一念とはこれ信楽開発の時尅の極促をあらわす。
(教行信証)
「信楽(しんぎょう)」とは絶対の幸福ですから、「信楽開発(しんぎょうかいほつ)」は絶対の幸福になることです。
絶対の幸福には、それが本物であれば必ず一念があります。
では一念とは何かというと、「時剋(じこく)」とは、時間のこと、「極促(ごくそく)」は極速と同じですので、「一念」とは絶対の幸福になる何億分の一秒よりも短い時間のことを一念といいます。
絶対の幸福になった人には必ず、今、後生の一大事を解決できたという一念の体験があるのです。
その時、これは全く阿弥陀如来のお力であったと知らされます。
阿弥陀如来の本願のお力によって、後生の一大事を解決して頂き、死ねば阿弥陀如来の浄土へ往ける身にして頂けるのです。
後生の一大事を解決できたということは、飛行機のたとえでいえば、いつ燃料が切れても安全に降りることのできる飛行場を確保したということです。
いつ死んでも浄土へ往けると明らかになったことが、後生の一大事の解決ということです。
親鸞聖人の『御臨末の御書』でいえば、「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」といわれています。「安養」とは阿弥陀如来のことです。
「親鸞死ねば阿弥陀如来の浄土へ往くぞ」と言われています。
生きる目的を達成したら
どこを見回しても、完成のない道しかない世の中で、唯一完成のある、後生の一大事の解決です。後生の一大事を解決して下された阿弥陀如来のご恩以上のご恩はありません。親鸞聖人はそれを恩徳讃にこのようにいわれています。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし(正像末和讃)
阿弥陀如来に救われたご恩は、身を粉にしても報いずにおれない、
それを伝えてくだされた先生のご恩も、骨を砕いても感謝せずにおれない、
とわれています。
後生の一大事を解決出来たとき、阿弥陀如来のご恩がこのように知らされるのです。
頂いた幸せがあまりにも大きいから、ご恩返しはまだ足りない、まだ足りないと完成もなければ達成もないのです。
何の報謝もできない自分と知らされて、どうしたらこの受けたご恩を返すことができようかとまっしぐらに進まずにおれなくなります。
限りない幸せを頂きますから、後生の一大事の解決には完成がありますが、ご恩返しには、終わったということは、金輪際ありません。
では親鸞聖人は、どのようなご恩返しをされたのでしょうか?
親鸞聖人のご恩返し
親鸞聖人が阿弥陀仏に救われたのは、29歳のときです。
その時から親鸞聖人の御恩報謝が始まったのです。
身を粉にしても骨を砕いても足りません、足りませんと、90歳でお亡くなりになるまでの61年間、不惜身命の活動をされています。
剣を振りかざして殺しに来た弁円という山伏に対しても、数珠一連持たれて阿弥陀如来の本願を伝えられたり、日野左衛門の家の門の前に雪の中で休まれて、仏法を伝えられたりしています。
29歳で後生の一大事助かってしまっていますから、死んでもいいというお気持ちで、御恩報謝の生き方をされています。
31歳のときには僧侶には固く禁じられていた結婚をなされ、それまでの常識を打ち破られています。
仏教を祈祷するものだと思っている当時の貴族や、神信心の権力者とも決別し、流刑にされても徹底して真実の仏教を明らかにされたために、世間中から非難攻撃を受けられています。そんな時でも親鸞聖人はこう言われています。
ただ仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。
(教行信証)
ただ阿弥陀如来のご恩に感泣して、世間の者たちの非難や中傷なんか眼中にないのだ、
阿弥陀仏から受けたご恩があまりにも大きくて、世間の悪口や嘲笑など問題にしておれないのだと、殺されてもいいという気持ちで力一杯突っ走られたのでした。
そしてお亡くなりになる時、
「61年間、俺は一体何をしたのか。
阿弥陀仏から受けたご恩の万分の一、億分の一も返すことができなかった。
申し訳ない、申し訳ない」
というお気持ちを、『御臨末の御書』にも言われています。
御臨末の御書の意味
親鸞聖人は今日まで、精一杯ご恩返しにつとめてきたけれども、
「いよいよ、この世の最期になった」
と言われているのが、
「我が歳きわまりて」
ということです。
飛行機でいえば、燃料もあとわずかになったから、いよいよ着陸態勢に入るぞ、ということです。
では親鸞聖人は、死ねばどうなるかというと、
29歳で後生の一大事を解決されていますから、
「安養浄土に還帰す」といわれています。
「安養浄土」とは、阿弥陀如来の浄土、
「還帰」とはかえるということで、浄土へ往くということです。
……ああ娑婆は苦しい所だった。
弁円は剣をかざして殺しに来るし、日野左衛門の門前では雪の中で寝なければならなくなった。
娑婆ではひどい目にあった。
だけどこれから極楽へ往って
八功徳水の温泉につかって、
百味の飲食たらふく食べて、
安らかに眠っていよう、とは夢にも思わない。
休んではおれないのだ。
なぜなら、阿弥陀如来から受けたご恩がまったく返せていないからだ。
61年間全力尽くしてやってはみたけれど、万分の一、億分の一もできていないのだ。
それなのに極楽へ往って休んでいられるか。
すぐに帰ってく来るぞ。
極楽に往くには往くけど日帰りだ。
それはちょうど、
「和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」
海の波が、寄せては返し、寄せては返し、じっとしていないように、すぐに帰ってくるぞ。
阿弥陀如来より受けしご恩があまりにも広大で、少しもご恩返しできていないのに、極楽なんかにじっとしておれないんだ。
極楽へ往っても日帰りだ。
「和歌の浦曲の片男浪」というのは、親鸞聖人は、和歌山県におられたことがありますので、和歌山県の片男波海岸を思い出されたのでありましょう。
まだこの世には、趣味や生きがいを生きる目的と間違えて、死ぬまで苦しんで死んで行かなければならない人ばかりだから、本当の生きる目的を伝えて、本当の幸せになる所まで導かずにおれない。
そして次の人生が終わって死んで極楽へ往っても、またすぐに戻ってくるぞ。
海の波が寄せては返し、寄せては返し、無限の往復運動をしているように、浄土とこの世を何度でも往復するぞ。
だから親鸞は極楽にはいないのだ。
極楽におられないということは、親鸞聖人は、今頃どこにおられるのでしょうか?
親鸞聖人は今どこに?
『御臨末の御書』の次に、親鸞聖人は、こう言われています。
「一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり」
これは、親鸞はいつもあなたの所に来ているぞ。
常にそばにいるからね、ということです。
「喜ばは」というのは、後生の一大事を解決して絶対の幸福になったということです。
本当の生きる目的を達成して、喜んでいる人があれば、親鸞聖人がそばに来られて、「よくぞ求め抜かれた」と一緒に喜んでくださいます。
しかしそれだけではありません。
生きる目的を果たして絶対の幸福になった人なら、親鸞聖人がそばに来られなくても、何の不足もないのです。
それよりもっと励まさなければならないのは、今、後生の一大事の解決に向かって進んでいる人です。
喜んでいる人の所にも来ておられるのですから、まだ喜んでいない人の所へはなおさら来ておられます。
まだ仏とも法とも知らない人のもとへ、本当の生きる意味を知らせ、完成があるから早くそこまで進みなさい、と教えに来ておられるのです。
そして今、求めている人にはもっと近くに来られて励ましておられます。
親鸞聖人が来られて、「俺は来ているんだぞ。だから一人だと思うな」
と引っ張ったり押したりしてくださっているから、聞かずにおれなくなって、聞かせて頂けるのです。
だから一人いて求めている人は、二人と思いなさい。
二人で求めている人は、三人と思いなさい。
常に親鸞は、あなたのそばに来ているんだよ、あなたの味方なんだから。
あなたのことはよく知っているんだよ。
なぜなら親鸞も通った道なんだから、よく分かっている。
それを『教行信証』に書き残してきたんだから、それが浄土真宗なんだから、その道を頑張ってゴールまで進んで来なさい。
「親鸞は、いつもそばに来ているぞ、力になっているぞ」
と励ましてくだされているのです。
それはどなたのお力?
ところが、これはまったく阿弥陀如来のお力なのだと『正信偈』にこう教えられています。
往還廻向由他力(正信偈)
これは「往還の廻向は他力による」と読みます。
極楽へ往くのも、
極楽からあなたを助けるために還(かえ)ってくるのも、
みんな他力による。
「他力」とは阿弥陀仏のお力、
「廻向(えこう)」というのは、与えて頂くということです。
往くも還るもまったく阿弥陀仏のお力で与えて頂いたのだ、ということです。
それをまた親鸞聖人ここでいわれています。
「我なくも 法は尽きまじ 和歌の浦
あおくさ人の あらんかぎりは」
この親鸞が死んでも、仏法はなくならないのだ。
阿弥陀如来は生きてましますから、絶対に阿弥陀如来の本願はなくならないのだ。
「あおくさ人の あらんかぎりは」
仏法を求める人がある限りは、
阿弥陀如来の本願はいつも働いてくだされ、その人の近くには、常に親鸞が来て、加勢しているんだからね。
この道を進んで、ここまで求め抜きなさいよ、
こう言い残しておられるお言葉が、親鸞聖人の『御臨末の御書』なのです。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能。