信心正因称名報恩とは
「信心正因称名報恩」は、浄土真宗の教えを漢字8字で表された言葉です。
略していえば「信因称報」となります。
信心正因称名報恩というのは、一言でいうと「信心一つで助かる。称える念仏は助けてくだされた阿弥陀仏へのお礼ですよ」ということです。
では、信心一つで助かるとか、念仏はお礼というのは一体どんな意味なのでしょうか?
信心正因の重要性
まず信心正因というのは親鸞聖人のお言葉です。
親鸞聖人の『正像末和讃』にこう教えられています。
不思議の仏智を信ずるを
報土の因としたまへり
信心の正因うることは
かたきがなかになをかたし(正像末和讃)
この3行目に「信心の正因」とあります。
これが信心正因です。
このことは親鸞聖人の主著の『 教行信証』にはこう教えられています。
涅槃の真因は唯信心を以てす。
(教行信証信巻)
「涅槃の真因」というのは、浄土往生の真の因のことです。
「唯信心を以てす」とは、信心一つだ、ということです。
「唯」は、2つも3つもない、唯一つということですから、
浄土往生には信心のほかには何もいらないということです。
このことを、親鸞聖人の教えを正確に、最も多くの人に伝えられた蓮如上人は、『御文章』にこう言われています。
祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一つに限れり。
(御文章2帖目3通)
「祖師聖人」とは親鸞聖人のことですから、
「祖師聖人御相伝一流」というのは、親鸞聖人90年の教えのことです。
「肝要」というのは、要の中の要です。
「要」は幾つかありますが、肝要となるとただ一つ、最も大事なところです。
親鸞聖人の教えの最も大事なことは、信心一つ。
「限れり」ですから、これ以外ない、ということです。
ですから親鸞聖人が一生涯、何を教えられたのかというと、一言でいえば「信心正因」です。
では信心というのはどんなことなのでしょうか?
信心とは
「信心」というと、世の中では、
「いわしの頭も信心から」
といわれます。
いわしというのは昔は安く売られていて、あまり価値のない魚とされていました。
しかもそのいわしの頭ですので、食べるところではありません。
そんないわしの頭でも、自分が価値があると信じていれば、その人にとっては価値があるのだ、というのが
「いわしの頭も信心から」
ということです。
ところが親鸞聖人がいわれる信心は、このような信心とはまったく違います。
世間で宗教といえば、みんな信心しなさいとか、信心が足りないといいます。
「これを信じれば、ご利益がありますよ」
といって、神や仏に祈ったり拝んだりします。
祈ったり拝んだりしたのにご利益がなければ、
「信心が足りないからだ」といいます。
このような、普通の宗教でいわれる信心は、私たちの心で何かを信じるということです。
ところが親鸞聖人が、教えられた信心の「信」はまこと、ということです。
ですから、信心というのは、まことの心ということです。
親鸞聖人は、まことについて『歎異抄』にこのように教えられています。
煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あることなし
(歎異抄)
「凡夫」というのは、人間のことです。
仏教では、人間は、欲や怒りや愚痴の煩悩でできていると教えられています。
そういう煩悩でできた私たちのことを「煩悩具足の凡夫」といわれています。
そんな私たちが、火のついた家のような不安な無常の世界に住んでいるので、この世のすべては、例外なく、そらごとであり、たわごとであり、まことはないといわれています。
ですから、私たちの心にまことはないのです。
私たちの心にまことがないということは、親鸞聖人の教えられる信心はまことの心ですから、私たちの心ではありません。
仏の心です。
このことを、親鸞聖人の教えを正確に伝えられた蓮如上人は、こう教えられています。
信心という二字をばまことの心と読めるなり。
まことの心と読む上は凡夫自力の迷心に非ず全く仏心なり。(帖外御文)
信心というのはまことの心なので、私たちの心ではなく、まったく仏の心だということです。
この仏というのは、阿弥陀如来のことですから、親鸞聖人の教えられる信心というのは、私たちの心ではなく、阿弥陀仏の心です。
正因とは
次に、信心正因の正因というのは、たねということです。
正因がたねということは、まことのない私たちの心に、阿弥陀仏がたねをまこうとしておられるということです。
たねをまこうとしておられるというのは、阿弥陀仏が、まことの心を与えようとしておられるのです。
だから、まことの心を受け取りなさい、ということです。
まことの心というのは阿弥陀仏の心ですが、阿弥陀仏の心は目に見えません。
そこで阿弥陀仏は、目に見えるように、南無阿弥陀仏にしてくだされたのです。
ですから南無阿弥陀仏は仏心のあらわれです。
これはただの文字ではありません。
蓮如上人は、『御文章』にこう教えられています。
「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。
(御文章5帖目13通)
南無阿弥陀仏は、漢字で言えばたったの6つだ。
だからそんなに功徳があるとは思えないだろう。
ところがこの六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益がある、と蓮如上人は教えられています。
「無上」というのはこの上ないということで、限りないということです。
「甚深」は甚だ深いということです。
「功徳利益」は私たちを幸せにする働きです。
南無阿弥陀仏には、私たちを幸せにする広大な働きがある、その力は限りないということです。
阿弥陀仏が、大宇宙の宝をおさめられたのです。
これを名号といいます。
阿弥陀仏は、十劫という遠い昔に名号を完成されてから、何とかして私たちに、与えよう与えようとしておられます。
原子というのは、科学者が発見して原子爆弾を作り、戦後は原子力発電でものすごい力を生むようになりました。
ところが、原子は科学者が発見する前からたくさんあったのです。
ちょうどそのように、阿弥陀仏は、お釈迦さまが発見されて仏教を説かれる前から、何とかして私たちに名号を与えようとされているのです。
その名号を受け取ったのが信心です。
これを他力の信心といいます。
「他力」というのは、阿弥陀仏のお力のことで、
他力の信心というのは、阿弥陀仏から与えて頂く信心ということです。
この信心を頂くと、人間に生まれてよかったという生命の歓喜が起きて、
二度と薄れることも色あせることもない変わらない幸せになれますから、
この信心を頂くために全人類は生きているのです。
信心はいつ頂ける?
では、その信心はいつ頂けるのかというと、死んでからではありません。
平生、生きている時、一念で受け取れます。
「一念」というのは、信心を頂く何億分の一秒よりも短い時間のことです。
親鸞聖人は、こう教えられています。
真実の 信楽を按ずるに、信楽に一念あり。
「一念」とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す。(教行信証)
「真実の信楽」というのは真実の信心のことで、他力の信心のことです。
他力の信心には、必ず一念があると教えられています。
「信楽開発」の開発というのは、開き、おきるということで、他力の信心を頂くことです。
一念というのは他力の信心を頂く時剋の極促だといわれています。
「時剋」というのは、時間のことです。
「極促」というのは、極速と同じで、極めて速い時間の極まりのことです。
このように、一念というのは、他力の信心を頂く、何億分の一秒よりも短い時間をいいます。
ですから、大宇宙の宝を一瞬で頂くことができます。
一念まではホームレスですが、大宇宙の宝を一念で頂きますから、億万長者になります。
一念までは、何のために生まれてきたのか、生きる意味が分からずに苦しんでいます。
それが一念で、人間に生まれてよかったと大満足します。
名号をきく一つで、頂いて信心になります。
その喜びから称えずにおれないお礼が念仏です。
ですから念仏はお礼なのです。
これを称名報恩といいます。
称名報恩とは
「称名報恩」の「称名」とは、称名念仏のことで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と口で称えることです。
南無阿弥陀仏と称えるのは何のためかというと、「報恩」というのは、阿弥陀仏の御恩に報いるということです。
阿弥陀如来から受けた御恩に報いるということは、阿弥陀仏に助けて頂いたお礼の念仏ということです。
これを親鸞聖人は、『正信偈』に、こう教えられています。
唯能常称如来号
応報大悲弘誓恩(正信偈)
これは、「唯よく常に如来の
号を称して、
まさに大悲弘誓の恩を報ずべし」と読みます。
「唯」というのは唯一つということです。
「よく」というのは、阿弥陀仏のお力のことで、他力のことです。
「如来の号」は阿弥陀仏の御名のことで、名号のことです。
「如来の号を称して」というのは、南無阿弥陀仏を称えてということです。
大悲弘誓の恩を報ずべしというのは、
「大悲」というのは、阿弥陀仏の大慈悲心です。
「弘誓」とは阿弥陀如来の本願のことですから、他力の信心を頂いたなら、ただよく常に念仏を称えて、阿弥陀仏のご恩に報いなさい、ということです。
これを蓮如上人は、「聖人一流の章」にこう教えられています。
その上の称名念仏は如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と心得べきなり。
(御文章)
「その上の」というのは、他力の信心を頂いた後の、ということです。
「如来わが往生を定めたまいし」というのは、阿弥陀如来に死ねば浄土へ往ける身にして頂いた、ということです。
他力の信心を頂いた人は、いつ死んでも極楽へ往けることがハッキリしますので、その阿弥陀仏に助けて頂いた喜びから、お礼の念仏を称えずにおれなくなります。
報恩の気持ちはどれくらい続く?
ではその報恩の気持ちはどれ位続くものなのでしょうか?
親鸞聖人はこのように教えられています。
弥陀の名号となえつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいあり(浄土和讃)
これは、1行目と2行目は倒置になっています。
名号を称えたら救われるというのは称名正因という異安心です。
親鸞聖人の教えは信心正因ですから、
信心まことにうる人は、弥陀の名号をとなえつつ、ということです。
「信心まことにうる」というのは、
阿弥陀仏から名号を頂いて、人間に生まれてよかったという幸せになることです。
そういう幸せの身になった人は、
「弥陀の名号となえつつ」というのは、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えるご恩報謝の念仏です。
そういう人は「仏恩報ずる憶いあり」といわれています。
救われないとご恩を感じませんから、信心まことにうる人は、仏恩に報いずにおれない思いがあります。
どうしたらご恩に報いられるかという仏恩を報ずる憶いを、「憶念の心」ともいわれています。
「憶念の心常にして」の「憶」は折にふれ縁にふれ思う心です。
「念」は明記不忘といわれて手帳に明記したら忘れることがないように、途切れることなく続く思いです。
これは寝ている時も意識不明になっても続きます。
このことを蓮如上人は、『御文章』の至るところに「寝ても覚めても思わずにおれないんだ」といわれています。
例えば5帖目1通にはこのように言われています。
此の如く決定しての上には、寝ても覚めても命のあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。
(御文章5帖目1通)
ご恩に報いずにおれない気持ちは、寝ている時も変わりません。
それは何があっても崩れない、変わらない幸せにして頂いたからです。
報恩の気持ちの強さ
この御恩報謝の気持ちの強さが一番あらわれているのが、恩徳讃です。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし(恩徳讃)
「如来大悲の恩徳」というのは、阿弥陀仏の大慈悲のご恩ということです。
阿弥陀仏のご恩は、身を粉にしても、骨を砕いても報わずにおれないといわれています。
身を粉にして骨を砕いたら死んでしまいますから、死んでも報いずにおれないということです。
死んでも報いたくなるご恩が世の中にあるでしょうか?
末期癌で死にそうなところ、医師に助けて頂いたら、
「このご恩は一生忘れません」
と言うことはあっても、死んでもご恩に報いる気持ちにはなりません。
せっかく命を助けてもらったのに死んだら意味がないからです。
ところが阿弥陀仏に助けて頂いたのは、この世、80年や100年のことではありません。
いつ死んでも極楽往き間違いなしの身にして頂いて、後生の一大事を助けて頂いたのですから、死んでも報いずにおれない気持ちになるのです。
ではどうすればご恩返しになるのでしょうか?
どうすればご恩に報いられる?
親鸞聖人は、どうすればご恩に報いられるだろうかと御恩報謝に悩まれて、42歳の時と59歳の時に寝込んでしまわれたことがあります。
何日か食べ物も食べられずに悩まれて、その時に、思い出されたのが善導大師のこのお言葉でした。
自信教人信
難中転更難
大悲伝普化
真成報仏恩(善導大師)
これは、「自ら信じ、人に教えて信ぜしめることは、難きが中にうたた更に難し。
大悲を伝えて普く化す、真に仏恩を報ずるに成る」と読みます。
この後半の「大悲」というのは阿弥陀仏の御心です。
「大悲を伝えて普く化す」というのは、阿弥陀仏の御心を伝えてすべての人を変わらない幸せに導くということです。
それが、「真に仏恩を報ずるに成る」。
「真に」というのは、最高の、ということです。
阿弥陀仏の本願を伝えることが、一番の仏恩報謝になる、といわれています。
阿弥陀仏のご恩に報いるには、阿弥陀仏が喜ばれることをしないといけません。
一番阿弥陀仏が喜ばれることは、一人でも多くの人に、阿弥陀仏の御心をお伝えすることなのです。
善導大師のお言葉の前半に、「自ら信じ、人に教えて信ぜしめることは、難きが中にうたた更に難し」とありますように、自ら信心を頂いて、人も信心を頂くところまで仏教を伝えて導くことは、難しい中にももう一つさらに難しいことだといわれています。
それは最高に難しいことですが、最高に難しいからこそ、最高にすばらしい御恩報謝になるのだと教えられています。
ではどうすれば、信心を頂くところまで導けるのかというと、仏教を伝えることです。
仏教には阿弥陀仏の御心である南無阿弥陀仏のことしか説かれていないことは、蓮如上人がこのように教えられています。
一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり。
(御文章5帖目9通)
一切の聖教というは、お釈迦さまの説かれたすべてのお経はもちろん、仏教の本全部です。
すべての仏教の本は、何とか南無阿弥陀仏を受け取らせようと、南無阿弥陀仏のことばかり説かれているのです。
親鸞聖人が『正信偈』に、「唯よく常に如来の
号を称して、
まさに大悲弘誓の恩を報ずべし」
といわれている念仏を称えずにおれない心は、仏教を伝えずにおれない心と同じなのです。
これが称名報恩です。
唯信独達の法門
このように、信心を頂けば、必ず念仏を称えずにおれない心が起きますから、信心正因称名報恩は、信心正因におさまります。
信心正因というのは、信心以外には何もいらない。
念仏もいらない。善もいらない。
ただ信心一つでいいということです。
これを「唯信独達」といいます。
親鸞聖人の教えは、唯信独達の法門ですから、他力の信心一つで、この世は変わらない幸せになって、死ねば浄土へ往けるという教えなのです。
ではどうすれば他力の信心を頂けるのかというと、それには苦悩の根元を断ち切られなければなりません。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能。