煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)とは
「煩悩即菩提」というのは、仏教でよく言われる究極の境地を表した仏教用語です。
仏教の本なんかを読むと、
「煩悩がそのまま悟りの縁になる」とか
「煩悩と菩提は対立するものではなく、本来は相即不二である」とか、
「煩悩を離れて悟りはない」とか、
「煩悩に苦しむ現実の中に生きた菩提がある」
など、色々と説明されますが、いまいち何を言っているのかよく分かりません。
果たして煩悩即菩提とはどんな意味なのでしょうか?
目次
煩悩とは
まず、「煩悩即菩提」の煩悩とはどんな意味でしょうか?
「煩悩」というのは、欲望のことだと思っている人がありますが、それだけではありません。
「煩悩」とは、私たちを「煩」わせ、「悩」ませるもの、ということで、全部で108あるといわれます。
大晦日に除夜の鐘を108つくのは、ここから来ているといわれます。
その108の煩悩の中でも最も私たちを苦しめるのが、欲望と、怒りと、愚痴の3つです。
これを三毒の煩悩といいます。
欲望というのは、食べたい飲みたい楽がしたい、お金が欲しい、物が欲しい、認められたい、褒められたい、悪口を言われたくない、という心です。
なければないで欲しい、あればあったでもっと欲しい。
限りなく欲しがる心です。
遺産相続では、欲の心で兄弟や親戚同士、長い間争ったあげくに絶縁します。
その欲望が妨げられると、カーッとなって腹を立てるのが怒りの心です。
ちょっとしたことでイライラして、頭に血が上ります。
あいつのせいで損した、あれをやらせてもらえなかった、あいつにバカにされた、邪魔されたと怒り狂います。
そして、もうどうにでもなれと、言ってはいけないことを言い、やってはならないことをして、すべてを焼き払います。
怒っても仕方がない相手になると、ねたみやそねみ、怨みの愚痴の心が起きてきます。
幸せそうな人をみると許せない、足を引っ張ってやりたくなります。
また、困っている人をみると、口ではお気の毒にといいながら、優越感を感じて面白がる心が出てきます。
そういうねたみや怨みの醜い心が愚痴の心です。
このような、欲や怒りや愚痴の煩悩で悪い行いをして、因果応報で苦しんでいるのが私たち人間なのです。
ですから、苦しまないためには、この煩悩をなくさなければなりません。
では、煩悩はなくせるのでしょうか?
煩悩はなくせる?
親鸞聖人は、『一念多念証文』にこう教えられています。
「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋(いか)り腹だち、そねみねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで止まらず、消えず、絶えず。
(一念多念証文)
「凡夫」というのは人間のことです。
人間というものは、無明・煩悩が身に満ち満ちているといわれています。
ここでは「無明」も「煩悩」も同じ意味です。
具体的には、欲の心が多く、怒り、腹立ち、ねたみそねみの心も多いといわれています。
それらの煩悩は、休むことなく、死ぬまで、とどまりもしなければ、消えることも、絶えることもない、といわれています。
煩悩はなくならないのです。
ですから、親鸞聖人は『歎異抄』には、私たち人間を「煩悩具足の凡夫」といわれています。
「具足(ぐそく)」というのは、それでできているということで、100%煩悩でできているのが人間だ、ということです。
ちょうど、雪だるまから雪をとったら何も残らないように、人間から煩悩をとったら、何も残りません。
人間は煩悩の塊だということです。
煩悩以外に人間はありませんから、もし煩悩をなくしたら、自分もなくなってしまいます。
もしそんな煩悩の塊が幸せになれるとすれば、煩悩あるがままで幸せになる以外にはありません。
それが煩悩即菩提です。
煩悩即菩提とは
煩悩即菩提というのは、煩悩がそのまま菩提に転ずるということです。
「菩提」というのは、幸せとか喜びということです。
「即」というのは、そのまま、ということですから、
欲や怒りや愚痴の煩悩が、そのまま喜びに転じる、ということです。
苦しみがそのまま喜びに転じるということです。
転じると聞くと、苦しみがなくなって喜びになるのではないかと思いますが、そうではありません。
苦しみのままが喜びになります。
「即」というのは、時間を隔てません。
同時です。
煩悩以外に菩提はありません。
煩悩と菩提は一つなので、煩悩がなくなったら菩提もなくなってしまいます。
苦しみがなくなったら喜びがなくなってしまうということです。
苦しみがそのまま喜びに転じます。
煩悩即菩提のたとえ
苦しみがそのまま幸せになることなんかあるのかと思うかもしれませんが、ある遊女がこんな歌を歌ったそうです。
見れば見るほど たのもしそうな そうて苦労がしてみたい
この女性は苦労が好きなのではありません。
誰でも苦労は嫌なものです。
苦労したいという物好きな人はありません。
ところが、あのたのもしい人と結婚したら、苦労が楽しみになるということです。
では苦労でないかというと苦労はあります。
ところが苦労とは少しも思わない。
それが楽しみになります。
苦労以外に楽しみはない。
苦労がなくなって楽しみになるのではありません。
たのもしい人が、苦労を楽しみに転じてしまうのです。
ところが、これは一時的なことです。
5年も10年もたのもしそうな男がいるはずがありません。
せいぜい3日です。
「見れば見るほど たのもしそうな そうて苦労がしてみたい」
と言っていた人が
「見れば見るほどぞっとする はやく別れてせいせいしたい」
と言い始めます。
煩悩即菩提は、変わりませんから、仏教でいう煩悩即菩提ではありません。
それでもこういうたとえによって、世間でも一時的でもあるんだなと分かります。
仏教でいわれる煩悩即菩提は、阿弥陀如来の大願業力によって、煩悩が菩提に転じます。
阿弥陀如来に救われると?
この煩悩即菩提になった自らの体験を、親鸞聖人はこのように教えられています。
大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静に、衆禍の波転ず。
(教行信証行巻)
「大悲の願船」というのは、阿弥陀如来の大慈悲によって造られた本願の船のことを大悲の願船といわれています。
これは南無阿弥陀仏のことです。
大悲の願船に乗ったというのは、南無阿弥陀仏を頂いて、阿弥陀如来の本願に救われた、ということです。
阿弥陀如来の本願に救われたらどうなったかというと、光明の広海に浮かんだといわれています。
今まで暗くて苦しい人生の海に沈んでいたのが、光明輝く楽しい人生に変わった、ということです。
阿弥陀如来の本願に救われると、南無阿弥陀仏と一体になりますから、苦しみ悩みの人生が、明るく楽しい人生にガラリと変わります。
「至徳の風静に」の「至徳(しとく)」というのは、南無阿弥陀仏のことです。
南無阿弥陀仏と一体になった幸せを、静かな風がそよいでいるとたとえられています。
そして「衆禍の波転ず」の「衆禍」というのは不幸や災難です。
不幸や災難を波にたとえられて、それが転じる、ということは、不幸や災難が喜びに転じ変わるということで、煩悩即菩提のことです。
南無阿弥陀仏というのは仏心ですが、その仏心と一体ということは、仏心と凡心が一体となります。
これを「仏凡一体(ぶつぼんいったい)」といいます。
「凡心」というのは、煩悩具足の私たちの心ですから、救われても煩悩は減りもしなければなくなりもしません。
救われても煩悩は変わりません。
それが仏心と一体になります。
一体というのは、ちょうど、炭に火がついたような状態です。
黒くて冷たい炭に火がつくと、炭のままが真っ赤な火、真っ赤な火のままが炭、炭と火と区別がつかなくなります。
煩悩具足の私たちの心が、南無阿弥陀仏と一体になりますから、
腹を立てているままが喜んでる、
喜んでいるままが腹立てているのが、煩悩即菩提です。
煩悩即菩提の意味深さ
この煩悩即菩提の世界に導こうとされたのが、親鸞聖人の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』であり、お釈迦さまの一切経です。
ですから、一切経は煩悩即菩提におさまります。
煩悩即菩提の解説書が一切経といっても過言ではありません。
煩悩即菩提には、大変な意味があります。
ですが、煩悩即菩提は言葉を離れた世界です。
一切経は、言葉を離れた世界に導くための言葉です。
ですがお釈迦さまは、説ききれなかったといわれています。
だから煩悩即菩提は一切経におさまりません。
それほどの意味と深さを持っているのが、煩悩即菩提です。
煩悩即菩提は、お釈迦さまでも言葉で言い表すことはできませんから、その説明は絶望への挑戦ですが、それをしようとされているのが仏教です。
この煩悩即菩提を体験させるのが、仏教の目的なのです。
言葉を離れた世界ですから、親鸞聖人も
「不可称 不可説 不可思議(ふかしょう ふかせつ ふかしぎ)」(教行信証)
といわれています。
「不可称」というのは、言うことができない。
「不可説」というのは、説くことができない。
「不可思議」というのは、想像もできない、ということです。
ですが言葉でなければ導けないので、親鸞聖人も、その絶望への挑戦を死ぬまで続けられているのです。
煩悩即菩提を教えられた和讃
例えば親鸞聖人は、煩悩即菩提をこのように教えられています。
罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし
(高僧和讃)
これが阿弥陀如来の本願のすごい働きです。
親鸞聖人は阿弥陀如来の本願に救われて、何とかわかってもらえないだろうかと、このようにいわれています。
罪障を功徳に転じる働きが阿弥陀如来の本願にあります。
これを「転悪成善(てんあくじょうぜん)」ともいいます。
転悪成善というのは、悪を転じて善となる、ということです。
そういう働きが阿弥陀如来の本願にあります。
この「罪障」というのは煩悩のことです。
「功徳」というのは菩提のことです。
煩悩がそのまま菩提に転じることを、「体となる」といわれています。
「体」というのはどんな関係かというと、次に氷と水のような関係だと教えられています。
水の体が氷です。
そうすると、氷が大きいほど水の量が多いということです。
逆に氷が小さいと、水の量が少なくなります。
氷と水の場合は、今度は同時ではないのですが、氷のほかに水はない、氷が大きいほど水の量が多くなるということを表しています。
苦しむ人ほど幸せが大きくなる
同じようなことを教えた有名な歌があります。
渋柿の 渋がそのまま 甘みかな
これは干し柿のことです。
干し柿というのは、甘い柿から作るのではありません。
渋柿から作ります。
しかも、渋柿から渋をなくして甘くするのではありません。
渋がそのまま甘みになります。
ですから、渋い柿ほど、甘い干し柿になります。
ですから、苦しんでいる人ほど、幸せが大きくなります。
不幸な人ほど幸せにする力が阿弥陀如来の本願にあるのです。
今までは借金が多いほど苦しんでいたのが、
借金が多いほど、借金がそのまま貯金になります。
10万円借金していた人は、10万円の貯金になります。
100万円借金していた人は、100万円の貯金になります。
借金している人ほど金持ちになります。
「みんな幸せそうなのに、何で私ばかりこんなに苦しまなければならないんだ。
私ほど不幸な者はない、世界一の不幸者だ」
と思っていた人が、阿弥陀如来の本願に救われると、
「いや私は世界一の幸せ者だった」となります。
これが煩悩即菩提であり、転悪成善です。
極悪人が大善人になります。
極悪最下の者が、極善無上の幸せ者になります。
蓮如上人のお言葉
阿弥陀如来の本願に救われた世界は、煩悩即菩提なので、蓮如上人は、『御文章』にこう言われています。
法然上人の御詞にいわく、
「浄土をねがう行人は、病患をえて偏にこれを楽しむ」
とこそ仰せられたり。
然れども、強ちに病患をよろこぶ心さらにもって起こらず、
浅ましき身なり、慚ずべし、悲しむべきものか。
(御文章4帖目13通)
「法然上人の御詞にいわく」というのは、親鸞聖人の先生の法然上人は、こんなことを言われたそうだ、ということです。
「浄土をねがう行人」というのは、阿弥陀如来に救われた人のことで、信心決定した人です。
「病患をえて」というのは、病気になって、ということです。
「偏にこれを楽しむ」というのは、楽しむということです。
なぜ病気になって楽しむのかというと、阿弥陀仏に救われた人は、死んだら極楽とハッキリしていますから、死が近づくということは、極楽浄土へ近づくということだからです。
ところが蓮如上人はこういわれています。
「然れども」というのは、だけどもこの蓮如は、病気になった時、ということです。
「強ちに病患をよろこぶ心さらにもって起こらず」
病気を喜ぶ心は少しも起きない。
「浅ましき身なり、慚ずべし、悲しむべきものか」というのは、恥ずかしいことだ。浅ましい蓮如だ、
といわれています。
他力の信心は、法然上人の信心も、蓮如上人の信心も、同じ阿弥陀仏からたまわる信心だからまったく一つです。
ところが、病気になった時、楽しむのと、喜ぶ心が起きないのとでは全く反対です。
これは信仰が違うのかというと、そうではありません。
ここは煩悩即菩提が分からないと読めないところです。
蓮如上人は、ただ喜べないといわれているのではありません。
「浅ましき身なり、慚ずべし、悲しむべきものか」
と懺悔となり、同時にそういう者が救われたという喜びに転じているのです。
親鸞聖人のお言葉
こういうお言葉は親鸞聖人にもあります。
『歎異抄』の第9章で、ある時唯円というお弟子が親鸞聖人にこんなことを尋ねています。
「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、
また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」
と申しいれて候いしかば、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、
いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり」(歎異抄)
「念仏申し候えども」というのは、念仏称えますけれども、ということです。
「踊躍歓喜の心おろそかに候こと」というのは、踊り上がるような喜びの心がありません。
「急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬ」というのは、早く死んで極楽へ往きたいと思う心も起きてきません。
「いかにと候べきことにて候やらん」というのは、これはどうしてでしょうか、ということです。
親鸞聖人はこの質問に対して驚くようなことを言われています。
「親鸞もこの不審ありつる」というのは、お前が今尋ねたのと同じ心がある、ということです。
「唯円房、同じ心にてありけり」というのは、唯円房、お前もか。
「よくよく案じみれば」というのは、よくよく考えてみると。
「天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり」
というのは、喜ばなければならないことを喜ばないから、間違いなく極楽往ける、ということなんだよ。
こう聞くと、「それでは私たちと一緒ではないか?」と思います。
この「喜ぶべきことを喜ばない」というのは煩悩です。
「往生一定」というのが菩提です。
これが一つなのが煩悩即菩提です。
このあと親鸞聖人はこのように教えられています。
喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。
しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、
他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、
いよいよ頼もしく覚ゆるなり。(歎異抄)
阿弥陀如来は、かねて煩悩具足の、煩悩でできているのがお前らだと見抜かれて、
そういう者を助けるという本願を建てられているのです。
煩悩具足の人間というのは、
「天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬ者」のことです。
阿弥陀如来の本願は、そういう者のために建てられたと知らされて、
「いよいよ頼もしく覚ゆるなり」
そこで飛び上がって喜んでおられます。
これが菩提です。
煩悩即菩提の喜びが分からないと、書いて有っても分からないのですが、喜ばない一杯が喜び一杯です。
喜び一杯が喜ばない心一杯です。
喜ばない心が見えるほど喜ばずにおれない、煩悩即菩提です。
喜ばない心と喜びの心が、同時にあるのです。
煩悩即菩提になる方法
この煩悩即菩提の世界に出るには、阿弥陀如来の本願力によって、苦悩の根元を断ち切られなければなりません。
その苦悩の根元は、煩悩ではありませんので、苦悩の根元が断ち切られると、煩悩あるがままで、煩悩即菩提の幸せの身になれるのです。
では、その苦しみ迷いの根本原因とは何か、どうすれば断ち切られるのかについては、以下の電子書籍とメール講座に分かりやすくまとめてありますので、今すぐお読みください。
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著者紹介
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部にて量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。仏教に関心のある人に何とか本物の仏教を知ってもらおうと10年ほど失敗ばかり。たまたまインターネットの技術を導入し、日本仏教アソシエーション、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者4千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらえるよう奮戦中。
仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)、インスタグラム(日本仏教学院公式インスタグラム)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能。